【002】転化
この学園は、中等部での入試の他には、高等部一年時の外部からの編入試験がある。そのため、四月の中間テスト前に主に中等部一年生を対象にした新入生歓迎会があるほかに、少し学内が落ち着いた五月のGW空けに、高等部からの編入生を対象にした、高等部のみの新入生歓迎会が行われる。
現在は四月、入学式が終わりまだ一週間ほどで、入学後テスト及び休み明けテストが終わったところだ。この学園は三学期制で、各テストの上位三十名までは名前が張り出される。俺の名前は、今回も二番目にあった。順位は同率一位で、もう一人の一位は生徒会長の征永である。征永は小学校からの持ち上がりのため、出席番号が中等部からの入学の俺よりも早いので、その番号の関係で必ず俺の上に名前が書かれる。
別に順番にこだわりはないが、常に満点同士の俺達では、俺の名前の方が上に来る機会は今後もないのだろうなと思うと、たまに不思議な気持ちにはなる。
さて本日は、初回のテストと新入生歓迎会の間に行われる部活動・委員会・親衛隊への勧誘活動期間の前に行われる、全体説明会についての打ち合わせが、生徒会と風紀委員会で行われる。各部活動などの長も出席しての会議は既に終わっているため、最終調整だ。
ここで特に独自制度である親衛隊に関する説明などが行われるのだが、その期間には新しく新入生に結成される親衛隊の受理作業などもあるため、受理をする風紀委員会は多忙を極める。親衛隊の説明をするのも風紀委員会だ。理由は、その方が以後の制裁行動などの把握などがしやすくなるために、過去に決定されたらしい。
サインをする書類の量が増えるのは、正直快くはない。だがそれ以上に、最初の確認に失敗し、今後が大変になる方が嫌だった。
「――風紀委員会からは以上だ」
俺は用意してきた書類の内容を、暗記していた通りの述べた。
風紀委員会側からの出席者は、俺と副委員長の|高崎夏真《たかさきなつま》、風紀委員会書記の|悠然晴也《ゆうぜんはるや》だ。
一方の生徒会からは、生徒会長の征永の他には、王子様然とした副会長の|日堂燈《ひどうあかり》、若干ノリが軽い会計の|神住有紀《かすみゆうき》、寡黙な書記の|氷郷我妻《ひょうごうあずま》と双子の生徒会庶務、|南明《みなみめい》と|南暗《みなみあん》が来ている。
今回は事前の打ち合わせでも特に問題はなく進んできたので、時間も予定通りに打ち合わせの会議は終わるだろうと俺は踏んでいた。ただたまに長引くので、俺は本日のこの後の予定は念のため入れないで来たが、この分ならば戻って書類をいくつか片付けられるだろうと思っていた。
「では、今から生徒会からの決定を話す」
すると征永が口を開いた。いつも自信に満ちあふれているかのような声音だ。根拠がないなら兎も角、こいつの場合は裏打ちされた自信が垣間見える。
「これまでの打ち合わせ案は撤回する。そして新しく――」
「なっ」
驚愕し、俺は思わず声を上げてしまった。目を見開く。
「聞け」
だが、ぎろりと睨まれ、俺は頬をピクピクと引きつらせつつも黙った。それは決してその声と共にGlareが僅かに放たれたからではない。室内ではそのせいで、俺以外皆Domだというのに、生徒会メンバーも風紀委員会からの俺以外の二名も萎縮してしまったが、俺はこの程度にならば影響はさほど受けない。
「――という案だ。どうだ? 最高だろ」
「……」
俺は眉間にこれでもかと皺を刻んだ。確かに再提示された案は、昨年までを踏襲した前の案よりもよい。時間があるならば、完璧かも知れない。だが、時間が無い。なにせ来週の月曜日から勧誘期間が始まるのに、本日は木曜日だ。これでは、土日を返上して、再度会議が必要である。全部活動らの長を再度召喚するなど困難を極める。
「風紀委員会としては認めるわけにはいかない。第一――」
「黙れ。これは生徒会の決定だ。風紀委員会の否など聞いちゃいねぇ」
「ダメだ。打ち合わせは――」
「顔を合わせる必要性はない。任意出席で、映像通話で会議をして、日曜日までに閲覧可能な議事録を用意する」
「だからといって、当日からの見回り範囲も著しく――」
「その程度も対応できない無能集団なのか、風紀委員会は」
俺の反論を、ことごとく征永が封じていく。こいつは頭の回転も早い。その上、事前に俺の反論を予想することも出来ただろうし、いくつもの回答を用意してきたのだろう。そういう部分が癪に障る。
「緋砂、お前は黙って頷いて、ここでこの書類にサインをすればいい。それだけだ。そのくらいはできんだろ? いくら無能な委員長様でも」
「巫山戯るな。俺は納得出来ない事柄にサインなど出来ない」
「じゃあこの案が前の案よりも、時間的都合を除き劣る理由を説明しろ。時間的な課題のクリア方法は俺が既に述べてやっただろ。この俺様が」
その時、チャイムが鳴った。
本来の会議終了時刻である。
「おい、燈。先に生徒会は戻って、この案で詰めとけ」
「ええ、分かっていますよ」
生徒会長の一方的な言葉に、微笑して副会長が立ち上がる。会計や書記達もそれに倣う。
「待て、風紀委員会としては――」
認めるわけには行かないと、俺は引き留めるべく立ち上がった。思わず机を叩く。
「風紀委員会は暇そうだし、俺様が直々に残ってお前の説得はしてやる。どうせ結果は見えている。副委員長もそちらの書記も出て行って構わねぇぞ。そして分からず屋のおたくの委員長に代わって、先に風紀委員会に、案に変更があると伝えてきてやれ。これは生徒会からの――俺からの善意だ」
再びGlareがその場に、先程までよりは少し強めに溢れた。すると副委員長と風紀書記
がビクリとした。二人は怯えるように俺を見ている。俺は苦虫を噛みつぶすような表情をしていたと思う。この状況では、結果はどうあれ、この二人がGlareに当てられてしまう。
「……高崎、悠然、先に戻れ。結果はまだ未定だが、変更の余地がある可能性はある。俺は少しこのバ会長と話をする必要があるらしいから、残る」
「委員長……ごめん」
怯えるように高崎が立ち上がった。悠然は既に筆記用具を片付けている。
こうして二人が出て行くと、征永がニヤリと笑った。
「で? 緋砂。反論は?」
人の気持ちを逆なでするような声音があるとすれば、これだろう。俺は、冷静沈着な方であるが、さすがに苛立った。
「どうせ無ぇんだろ? 無様に論破されるお前を見たら、風紀の連中も落ち込むだろう市お前のプライドもズタボロだろうと思って、わざわざ返してやったんだ、ありがたく思え」
「――Glareの統制も出来ないだけの間違いだろう」
舌打ちしたいのを堪えて、俺は征永を睨めつけた。すると、征永もまた眉間に皺を刻む。
その場のGlareが強まった。だが、俺も頭にきていたので、ついDom性を露わに、いつもよりも強いGlareを放ってしまう。すると征永が虚を突かれた顔をした。
「確かにいい案なのかもしれない。それは認めてもいい。だが、これまで元々の案で準備をしてきた全ての関係各所に変更を迫るんだぞ? この重大さが分かっているのか? 生徒会は多くの努力を無駄にするんだ」
「努力? それは今からすべきことだ。よい方向に動かす事を疎かにするのは、ただの怠慢だ。違うか? あ?」
「正論だが、それは自分勝手なお前のやり方を正当化するために生み出されたようにしか聞こえないから、納得しがたい」
俺は思わず叫ぶように言った。ここまでの苦労が水泡に帰すことを考えると、やるせなさがこみ上げてくる。自分でも衝動が抑えきれないくらい、征永を言い負かしたくなる。
――これは、Dom性の悪い癖だ。俺はDom性もSランクであるから、言いまかして支配したいという欲求は常にある。
思わずダンっと机を叩いて俺は立ち上がった。自分が抑えられない。このような衝動に突き動かされたのは久しぶりだった。
「それこそてめぇの我が儘だろうが、緋砂」
生徒会長もまた立ち上がった。あちらも派手に音を立てて立ち上がり、さらには一歩早く俺へと歩みよった。
ぶわり、と。
強いGlareに俺が飲み込まれたのはその時だった。
俺の放っていた威圧感が、それまで拮抗していた征永のGlareに飲み込まれるようにして押し返される。いいや、消失して行くに近い。その時になって俺は初めてひやりとした。
Dom性の欲求に飲み込まれ欠けていたことを冷静に理解したのは、俺のすぐそばに征永が立った時だった。過去、征永にはGlareで勝てないと直感的に思った時のことを思い出させられる。その時と同じ、いいや、それ以上に強い苛立ち混じりのGlareが、今、俺の真横から放たれている。だらりと、俺のこめかみと背中に冷や汗が流れていく。
「緋砂、≪|Kneel《座れ》≫」
ぎろりと鋭い眼光が俺を射貫いた。
瞬間、俺の中でカチリとなにかが音を立てた。目を見開いた時――俺は、ベタンと床に座り、膝と膝の間に手をついていた。最初、なにが起こったのか、俺は分からなかった。
「へ?」
するとその瞬間、Glareが消失した。間抜けな声を上げた征永を見上げた俺は、このような呆気にとられたような顔をしている生徒会長の顔を見た事がある者が、果たして俺以外にも存在するのだろうかと疑問に思った。そのくらい端正な顔には驚愕が見て取れた。
「わ……悪ぃ。俺はその、椅子に座れと……≪Sit≫と命令し掛かって勢い余った……いや、そもそも同意ないCommandはダメではあるが……いや、勢いに飲まれて……」
「……あ、ああ。俺もDom性に飲まれかけて、お前にGlareをぶつけてはいて……」
「そ、そうだな。てめぇの俺に匹敵しそうなGlareはいつも屈服させたくなっていて……ってそうじゃねぇ。お前、Glareが放てるんだからDom……いや、でもじゃあどうして今俺の命令に従って――……ッ! お前、Switchなのか!?」
やっと気づいたという様子で、驚愕した表情のままで征永が言った。
俺は気づかれてしまった事に、なんと答えて良いのか分からなくなる。
だが、それよりも絶望的な事柄が一つある。
数年ぶりにSubに転化したせいなのか――全身に、命令通りに行動している現在、言い知れないほどの幸福感が満ちあふれている。
ドクンドクンと心臓が耳に接着してしまったかのように、鼓動の音が大きく響いて聞こえる。俺はゆっくりと唾液を嚥下した。
支配されたい、支配されたい、支配されたい、支配されたい、支配されたい。
脳裏をそればかりが駆け巡る。心の内側がSub性に浸食され、飲み込まれていく。
乾いていた心に、砂漠の砂に、まるで一滴だけ水のようにCommandが垂らされたような、そんな感覚で、すぐに乾きが強くなり、それは水を知った分酷くなり、もっと水が欲しくなっていく。
「緋砂……≪|Say《言え》≫。お前は、Switchか?」
「……ああ」
たった一言答えた瞬間、また俺の胸の中に水滴が落とされた。ぶわりと一瞬だけ幸福感が全身を駆け抜けたのだが、まだまだ全く足りなくて、さらに命令を欲して俺の胸が騒がしくなる。どんどん息が熱くなるから、気づかれないように静佳に呼吸をして誤魔化す。
――欲しい。
もっと欲しい。Commandが欲しい。命令されたい。支配されたい。征永の希望を叶えたい。そして――……褒められたい。どろどろに甘やかされるように褒められたい。
そんなのは俺じゃないと理性が言う。だが本能に理性が抗えない。
「Safe wordは?」
「……ダイナミクス判定テスト時に仮決定した【RED】以外を使ったことがない。そもそもSubとして過ごしたことがない」
「――念のためだ。今後もこういった事があるかもしれねぇから、俺は紳士だから決めておいてやる。俺様に反抗する権利を、ただの一言だけやる。なにがいい?」
「……」
「希望が無ぇなら俺が決めてやる。そうだな……風紀のその忌々しい腕章の色、【|緑青《ろくしょう》】でどうだ?」
それを聞くと、俺は気づけば頷いていた。
「【緑青】だな。分かった」
「そうか、覚えたんだな。≪Good≫」
「!」
すると何気ない調子で征永が言った。ビクリと俺の体が跳ねた。
それまでとは全く比べものにならない幸福感が俺の全身の指の先までを駆け巡り、すぐに消えた。足りない、もっと褒められたい。俺は自分の顔が蕩けきっているのを一歩引いた理性で自覚した。
「お前……そんな顔も出来るんだな」
「……っ、笑え」
「なんでだよ? ≪|い《・》|い《・》|子《・》≫を褒めることはあっても、笑うわけが無ぇだろ」
そう言うと屈んだ征永が、不意に俺の頭を一度だけ触れるように撫でた。
俺の背筋を悦びが駆け上がり、走り抜けた。
「ッ、わ、悪い。≪Switch≫」
その時、我に返ったように、焦ったような声で征永が言った。
SubからDomに戻るよう命令を受けた瞬間、すっと俺の思考が清明に変わる。
ばっと俺は立ち上がり、慌てて征永から距離を取った。
今度は欲求からではなく、今起きた事態への動揺から動悸が酷くなる。別の意味でダラダラと冷や汗が垂れ始める。いまだ嘗てどんなDomに命令じみた言葉をかけられても、このような事態に陥ったことは一度も無い。ただ今回、SランクのSwitchが転化してのSランクと同等のDomであった俺よりも、生粋のSランクDomのこのバ会長の方が、どんなに力が強いのかを思い知らされた。これまでの支配したいという欲求が、すうっとかき消え、今、俺は目の前に危険人物がいるという感覚に襲われている。
「緋砂、とりあえず座れ」
「あ、ああ……」
「……それで、生徒会の新案だが、勿論通してくれるだろうな?」
「……」
冷静に話の続きを再開した征永を見て、俺は動揺を抑えられないまま、俺のすぐ側の椅子に座った征永を見ながら、なんとか椅子を引き、自分も席につく。
「……そんなに通したいのなら、命令すればよかっただろ」
「俺様はそこまで人間捨ててねぇよ。無理強いした許可が欲しいわけじゃねぇ。この案に自信があるし、てめぇを説得する自信もある。馬鹿にするな」
俺の言葉に不愉快そうな声で、ぎろりと征永が俺を睨んだ。
俺は小さく息を呑み、この時初めて征永を少し見直した。
「そうか」
既にSubとしての欲求は収まり、Domとしてはもう征永に衝動が向く気配がないため、俺はどちらかというと本来の未転化のSwitchの状態に近い感覚のまま、思わず微笑した。
すると今度は何故なのか、征永が息を呑み、俺を凝視した。
「?」
目が合ったので首を傾げると、我に返った様子の征永が慌てたように顔を背けた。その頬が僅かに朱く見えた気がしたが、照れる意味が分からないので気のせいなのかもしれない。
結局この日、俺はその後、論議に敗北した。ただし俺の案として、親衛隊にだけは必ず徹底周知する機会を設けることを約束させた。