【4】出会えた奇跡に気づかない事
――磐城が、俺を好き……?
――一体、いつから?
――キスをされて(人工呼吸の練習……?)、俺は……嫌じゃなかった?
扉が閉まる音を聞きながら、俺は片手で再度唇を覆った。
頬が熱い。
「冗談……じゃないよな……?」
さすがに、あの真剣な磐城の眼差しを見て、からかわれたと判断するほど、俺は鈍くはないと思う。しかし、今まで一切、俺はこのような事態を想定したことはなかった。
「磐城が、俺を好き……?」
思わず呟いて――口に出した瞬間、心臓が早鐘を打ち始めた。
ドクドクドクドクと、激しい動悸に襲われる。
緊張から、体が硬直した。
その日は、結局それから思考が停止してしまい、ただただ事務的にできる書類を必死に片付けてから、寮の自室へと戻った。
翌日――。
「よぉ」
放課後、俺が生徒会室に入ると、そこには普段と変わりのない磐城がいた。
まるで昨日のことなどなかったかのような、本当にいつも通りの様子だった。
一方の俺は、扉を開ける前から、はっきりいって無駄に緊張していた。
その後、特に会話もなく、お互い仕事をする。
本日間宮は風紀との打ち合わせ、会計は文化祭の各部の予算調査で、この場にはいない。
俺はといえば、時折、気づかれないように、磐城の横顔をうかがっていた。
――意識するなという方が無理だった。
だが、まるで昨日のことが夢のように思えてきたし、自分からその話題を切り出す勇気はない。そのまま、生徒会の仕事の基本的な最終時刻である午後七時を迎えようとした。
「今日も終わりだな」
すると静かに磐城が言った。
「あ、ああ。そうだな。今日の仕事も無事に終わって何よりだ」
俺は努めて平静を装い、そう返した。
頷いた磐城は、立ち上がると、昨日と同じように、俺の横に立った。
「じゃ、最後に劇の練習をするか」
「……」
「貴様が慣れるまで、これから毎日」
磐城はそう口にすると、昨日とは違い、かすめ取るように俺の唇を奪った。
あまりにも素早くて、俺は動けなかった。
「じゃあな。また明日」
それだけ言うと、磐城は出て行った。
俺はその後、ひとりきりの生徒会で。硬直したまま赤面していた。
それから両手で顔を覆った。その奥で目を伏せる。
心臓が停止しそうだった。
「心臓マッサージが必要なのは……これじゃ、俺の方だ……」
ポツリと呟いた俺の声を聞く者は、誰もいなかった。
――以後、毎日、帰り際に磐城は俺にキスをするようになった。
何故なのか、会計や間宮は、一足先に帰るから、いつも最後まで残るのは、俺と磐城だった。
「っ……ぁ……」
日増しに、口づけは深くなっていく。
最初は触れ合うだけだったものが、次第に口腔を貪られ、舌を絡め取られるようになっていった。少しずつ少しずつ、毎日ちょっとずつ深くなっていったものだから、俺は気づくかない内に、その感覚に慣れさせられていった。
何故なのか、一度も突き飛ばそうという気にはならなかった。
生理的に嫌ではないという理由もあったし、口づけが心地よく感じたこともあるのかもしれない。だが一番は、あれほど俺様だと感じていた(そして通常は感じている)磐城が、この時ばかりは別の顔を見せるからなのかもしれない。
あんまりにも真剣な瞳で俺を見るものだから、惹きつけられて動けなくなるのだ。
時折耳の後ろをくすぐられ、鎖骨をなぞられ――気づくといつしかネクタイを緩められるようになり、シャツのボタンをそれとなく外される日も増えた。
そうして、キスの時間が長くなり、肌に磐城の指先の温度を感じた後、七時すぎには――磐城が体を離す。そしていつも言う。
「また、明日」
残された俺は、それからしばらく一人で固まっているばかりだ。
それから寮の自室へと戻り、羞恥に悶えている。
何故俺は、されるがままになっているのだろうか……?
最近では、磐城のことばかり考えている。自分がおかしい。
変化した己の思考に俺は正直戸惑っていたし、磐城の表情や温度を思い出すと――最近、胸が疼くだけではなく、体が熱を持つ気がしていた。ゆっくりと、じわじわと、磐城の存在が俺の中で自然なものになっていき、侵食し、大きくなっていく。
そんなこんなで過ごす内に、文化祭の日が近づいてきた。
ギリギリになってしまったが、衣装や舞台装置を用意した上で、生徒会役員で実際に劇の練習をする日が訪れた。時間がないから数度しか練習はできないので、各自、台本は暗記してくることになっていた。
――本当に、キスをするのだろうか?
俺はそればかり考えていて、台本の『心停止した王子を助ける』という箇条書き部分を何度も見ていた。キスをすると書いてあるわけではないから、俺は最初、フリだと思っていたのだ。
公衆の面前でキスをして、俺は普通の表情をしていられるのだろうか?
頬が熱くなる姿など、人に見られたくない。
そもそもどうして赤面してしまうのか、磐城の練習をこれまで拒まなかったのか、何故最近やつのことばかり考えているのか……。
嫌な予感しかしない。俺は、もしかすると、いいや、もしかしなくても磐城のことを、それこそ『意識』しているのは確実だったし――それは恋愛的な好意という意味だと思う。
「あ、会長! AED届いてますよ! 本物そっくりの模型ですけど」
意を決して扉を開けて舞台がある第二体育館へと向かうと、間宮が歩み寄ってきてそう言った。
「――へ?」
「会長の提案で、磐城副会長が、『自動体外式除細動器すなわちAEDを広める』っていう、これまでの無意味な劇とは異なる活動を取り入れたんですよね? さすがですね!」
「え」
俺はその言葉に目を見開き、息を呑んだ。
それから、視線で磐城の姿を探した。
すると照明係と話をしていた磐城が、丁度顔を上げて、俺の方を見た。
そして、昔から見慣れている、ニヤリとした笑みを浮かべた。
以前だったら、腹が立つと思っていたのだが――今は、無駄に恰好良く見えて困った。
劇の練習において、王子を助ける部分は、AEDのレクチャーとなり、キスをする機会は無くなった。同時に、放課後は事務作業より会議や劇の練習で、磐城と二人きりになる事も無くなり、あっさりとキスをする日々は幕を下ろした。
こうしてその翌週、文化祭当日が訪れた。
比較的、俺の心は平穏だった。
そもそも声の出ない役だから、俺のセリフはごくごく少ない。
むしろ、磐城と会計の令息の甘い感じの部分に焦点が当たっているし、二人はノリノリだ。俺は、それを眺めていればいいし、最後に短剣で自害し泡沫になって終了だ。
ただ――片思いをする、声が出なくなっても王子に会いに行きたいと思った、人魚姫(今回は王子だが)のストーリーが、今なら少し理解できる気がした。
台本に、こんなセリフがある。
『俺の命を救ってくれた貴方は、運命の相手だ。出会えた事が奇跡だ。愛している』
……実際に命を救ったのは、人魚姫なわけで、本当に運命というものがあるならば、その相手は人魚姫だろうに。王子は、本物の出会いに気づかず偽りの奇跡を信じて、勘違いの愛をする。本当の人魚姫がこういう話だったかは忘れたが、本当に大切な相手に気づかない王子が、そして気づかれない人魚姫が、俺には可哀想に思えた。
こう考えていくと、俺は磐城の言葉を思い出す。
ずっと一緒にいたじゃないかというものだ。
確かに――俺達は、ずっと同じ学園にいたのだ。それは一つの出会いだ。
しかし俺は、磐城の事を、『生徒会長』という記号でしか認識していなかった。
それは、命を救ってくれた、という印象から恋だと思った王子のようなものなのかもしれない。もし磐城が、本当に俺を好きならば、奴こそ人魚姫だ。なにせ俺は、何も気付かなかったし、意識したことすらなかったのだから。
そんなこんなで――劇の時間が訪れた。
AEDの説明が始まった時、会場には吹き出す声が漏れた。
真剣に説明しているのだが、コメディに映っているらしい。
まぁ、それはそれで良い。そう考えながら、俺が説明を終えた時――王子役の磐城が目を開けた。そして――台本では横たわったままだったのだが、不意に起き上がった。
「?」
何か問題でも起きたのかと、俺は首を傾げ――た、その時の事だった。
不意に正面から、磐城が俺を抱きしめた。
狼狽えてのけぞった俺の腰に左腕を回し、右手で磐城が俺の顎を持ち上げた。
「え」
「俺様は間抜けな王子とは異なり、運命の相手を間違えたりはしない」
「へ?」
「きちんと人魚の王子様の声が出て、返事を貰える内に伝える」
「な」
磐城はそのまま、俺の瞳をじっと見た。これまでに記憶させられてしまった、真剣な眼差しだった。
「対等な相手――俺は周囲を見下すタイプだからな、誰ひとり意識できなかった孤独な、ある意味死んでいた俺に、他者という存在、意識できる相手の存在を教えてくれた、ある意味、俺様を蘇生させてくれた――俺様の命を救ってくれた、塔屋こそが、俺様の運命の相手だと確信している。貴様とこの学園において出会えた事、それ自体が俺様にとっては奇跡だ」
静かな声で、磐城が言った。台本に近いセリフだというのに、俺の心臓は停止しそうになった。あくまでも劇のはずなのだが、俺にはとてもそうは思えない状況になった。
「愛してる」
その言葉を聞いた直後、俺は唇に覚えさせられていた温度を感じた。
最初は触れ合うだけのキスで――次第にそれが深まっていく。
目を見開いたままで、俺はその口づけを受け入れた。
それが、どのくらいの時間だったのかはわからない。
ただ俺には、時が止まってしまったかのような、あるいは非常に長い時に思えた。
そうして唇が離れた時、磐城がニヤリと笑った。
「答えろよ、まだ声が出るんだからな」
「……」
はっきり言って、動揺しすぎて声など出てこないし、言葉も見つからない。
「認めろ、今では俺様を意識しているし、俺様のことが好きだと。顔を見ていればわかる」
残念なことに――それは、事実だと俺にもわかった。
「改めていう。俺様、磐城森羅は、塔屋朱嶺の事を愛している。好きだ、俺様と付き合え」
その言葉に、俺は反射的に頷いていた。
俺もまた、運命の相手に気づかないまま終わるような、王子ではないからだ。
「――ああ。付き合ってやる。俺は相手の幸せを願って身を引くタイプではないし、自分の気持ちには正直に生きている。だから声を封印して会いになんかいかないし、そのままの姿の俺を受け入れてもらう。俺もお前が好きだから、それだけだ」
台本には一切ないセリフである。
俺自身の言葉だ。
それから、俺は会場が静寂に包まれているのを意識した。
これでは……劇は台無しだ。そう思った直後――その場に大歓声が巻き起こった。
「おめでとうございます!!」
「良かったですね!!」
「まさか元風紀委員長が!!」
「応援しています!!」
そのくらいの言葉は耳に入ってきたが、その後はお祝いの言葉が多すぎて、俺には判別できなかった。すると、会計がナレーター風に発言した。
「こうしてぇ、人魚王子と人間の王子は、無事に結ばれましたぁ。この学園に真実の愛が溢れますように! 生徒会では祈っていまーす」
そして続けて、間宮が言った。
「ただし、元風紀の人間としてですが、規定外の場所においての不純な行為は禁止ですからね!」
このようにして――生徒会による劇は、幕を下ろしたのである。