【三】森の中




 この日も、僕は懸命に記録を取っていた。
 今日の勇者達は野宿らしく、廃村の朽ち果てた教会のそばに設営している。
 こういう日は、エルトはすぐに自分の研究に入る。
 また森が近ければ、薬草採取に出かける事もある。
 眺めていると、会話を切り上げて立ち上がったエルトは、相変わらずの険しい顔で白衣を翻した。両手を白衣のポケットに入れ、森へと続く道を歩いていく。僕は、慌てて追いかけた。何を採取してどうしたのかメモしなければならないからだ。思ったよりも危険ではないが、医術師の担当になると記述量が多いという意味で大変だ。

 気配を殺しながらも、僕は必死でついていった。エルトはどんどん細い道に入っていく。僕には木々に囲まれた周囲も、道と言われなければわからない地面も、それだけで不安な要素だが、エルトに迷う様子はない。堂々とした足取りで進んでいく。まるで道を知っていたかのようだが、決してそうではないだろう。これまでに観察した限り、だいたいどこに行く時も、エルトはこういう感じなのだ。

 それからしばらく歩いた時――不意にエルトの姿が消えた。
 角を曲がったから、少ししてから僕も静かに向こうを見たのだが、その時にはもう誰もいなかった。

「え? あれ?」

 慌ててそちらに進み、周囲を見渡す。どうしよう、どこにもいない。見失ってしまった……記録ができないという意味でも最悪だが、僕一人ではきちんと戻ることができるかも怪しい。小さな焦りと大きな不安の中、僕は前に進むべきか後ろに戻るべきか悩んだ。前方に広がるのは、新たなる森である。では、後ろは――……「!?」

 僕の真後ろに、腕を組んで目を細めているエルトがいた。
 驚きすぎて、僕は声が出せなかった。目も口もぽかんと開けて硬直する。ど、どうしよう、え、どうしよう、と、頭の中で一人繰り返し呟いた。しかしどうしていいのかは分からない。エルトは僕をじっと睨んでいる。

「一体どういうつもりで、俺の後をつけてきたんだ?」
「っ、い、命だけは……」

 僕の口から出てきたのは、命乞いだった。全身が震える。情けないが、魔族なのに魔族が怖い僕に取っても、やはり勇者達は全員怖い。殺される。泣きそうになってきた。

「……お前、所属は?」
「魔王様直属秘書官です」
「あ?」
「え?」
「魔王……? 様? お前それはどういうことだ?」
「で、ですから、影から魔王様の華麗なる日々を文字に残す部署の所属で……」

 殺されないようにと祈りながら、僕は必死で言葉を探した。視界が滲んできたのは、涙のせいだと嫌でも自覚させられる。僕は恐怖に震えながらエルトを見上げた。

「……」

 エルトは何も言わない。ただ先ほどまでよりもずっときつい眼差しで、僕を睨んでいる。
 両腕で体を抱きしめ、僕は後ずさった。パキンと音を立てて、踏んだ木の枝が折れた。
 もう怖くてダメだった。僕は全力で走った。逃げることに決めたのである。

「おい、待て! そっちは――」

 道なんてさっぱり分からないが、僕はこれ以上の恐怖には耐えられない。
 無我夢中で走り、必死に逃げた。結果……突然目の前で地面が消えた。え。なんと崖の上に道と木々があったようなのだが、真下は暗くて何も見えない。落ちる。思いっきり足を踏み外した僕は、ぎゅっと目を閉じた。

「――よく見て走れ」
「!」

 上から声が降ってきた。恐る恐る目を開けながら、僕は両腕の下に回された手を見た。そのまま後ろに引き寄せられるようにして、僕は抱きとめられた。助かった。体が寸前のところで、誰かの腕により引き上げられたのだ。救世主だ。神様だ!

「ありがとうございます!! ――……あ」

 振り返ってお礼を言ってから、僕は助けてくれた相手がエルトだと気付いた。
 考えてみれば声もそうだったし、こんなところには他に人気もない。
 助けてくれたのだが、このあと殺される可能性もある……助かったとは言いきれない。

「お前……助けてやったのにその反応はなんだ? あ? そこまで怯えられる理由がわからん。俺はお前に何かしたか? 命を助けたことと、声をかけたことを除いて」
「ご、ごめんなさい……」
「謝って欲しいわけじゃない。質問に答えろ」
「僕にはまだ何もしてません!」

 勢いよく僕は答えた。するとエルトの眉間のシワが深くなった。

「『僕には』……? 『まだ』だと? 一体俺は、どこの誰に対しては、もうすでに何かをしたというんだ? かつ、具体的に何を?」
「いつも勇者と共に魔族を痛めつけています!」
「そのために旅をしているからな――お前の口ぶりだと、まるでお前自身も魔族であるから、俺に痛めつけられるのが怖いと聞こえる」
「その通り! それ、それです。僕はそれが言いたくて!」

 伝わった事実に、僕は何度も頷いた。

「お前が本当に魔族なら、もちろんただでは帰せない」
「っ」
「そうだな。確認がてら……痛ぶって弄ぶとするか」
「!!」
「冗談だ」

 びくりと震えた僕の頭を、呆れたように吐息してから、エルトが撫でた。
 気が付いてみれば、僕はずっと彼の腕の中にいる。

「講義中、黒板をずっとメモしていて、それを書いている講師の俺の話を一切聞いていない学生に、お前は似てる。ずっと俺の方を見て何かをメモしているんだが、一度も目があったことはなかったし、俺がお前を見ても気付いたことは一度もなかったな」
「……え?」
「前々から、お前が熱心に俺の方を見て、何かをメモしていることには気付いていたんだ」
「え!?」
「……むしろ気づくなという方が無理だ。たまにお前、隠れているつもりなんだろうが、木からはみ出してたり、気配が消せてなかったりする」

 知らなかった……。気づかれていたのも知らなかったが、はみ出していただなんて……!

「機会があったら、何をメモしているのか聞こうと思っていたんだ。そうしたら今日、お前がまたはみ出しながらついてきた。が、軍属を聞いたつもりだったから、魔王の秘書官という回答は予想外だった。次からは、適当な国名を挙げて人間のふりをすることを勧める。本当に魔族なら、な」
「はみ出しながら……」
「で? 見せてみろ、そのノート」

 僕の手から、エルトがノートを取り上げた。
 慌てた僕を、背後から回した右腕で抱きしめたままだ。
 彼の腕の中で、僕はこれまで必死に書いてきた記録を、本人に見られてしまった。
 反応が怖い。

 最初、エルトは大して興味がなさそうにノートを開いた。
 そしてすぐに、顔色が変わった。

「おい、なんだこの秀逸なカルテは!」

 僕は、何を言われたのかよくわからなかった。