【五】名前
「――それで?」
僕の帰りが遅かったせいで、集団での魔法陣移動の時刻も遅れた。待ってくれていた同僚魔族には、本当に感謝である。心配してもらい、無事に帰ったことを喜ばれ――魔界に帰宅後、今に至る。僕は、秘書官長のリューク様に報告を求められた。
「はい……ふ、不可抗力で、医術師にノートを強奪されました」
少しだけ脚色して、僕は答えた。恥ずかしいため『つい快楽に流されて』などとは言えなかったので、不可抗力と先程から繰り返しているのである。そんな僕を、リューク様は若草色の瞳でじっと見ている。腕を組み、片目を細めて、どこか胡散臭いものを見る眼差しだ。
「再度聞くが、怪我はないんだな?」
「ありません」
「幸いだ。仕事熱心なのは構わんが、あまり心配をさせないでくれ」
リューク様はそう言うと、僕の肩をポンポンと二度叩いた。実年齢は定かではないが、エルトの少し年上、それこそ三十歳前後に見える外見をしている。出会った時からこの外見だ。魔界で最初に僕が気づいた時、すぐそばにいたのが、リューク様である。
『決して人間であったことを言ってはならない。今後は、魔族として生きることになる。魔族に生まれ変わった、そう理解しろ。それ以外に生きるすべはない』
あの日、リューク様は僕にそう教えてくれた。それから、魔界についての多くの事柄を僕に教えてくれたのである。恩人である。リューク様がいなければ、今の僕はここにはいないだろう。
「しかしあの医術師に見逃されるとは……運が良い。本当に何もされなかったんだな?」
「え?」
「――何かされたのか?」
動揺して僕は口ごもった。僕は頑張って嘘をつくのだが、なぜなのかいつもバレる。顔に出やすいらしい。我ながら情けない。
「されたんだな」
「い、いえ」
「何をされた?」
「な、何も!」
「寝返るように脅迫されでもしたか?」
「されていません」
僕は大きく首を振った。そんな事実は、本当にない。僕は考えてもみなかったが、言われてみれば、見逃されたのだから、何か利害関係が発生して甘く見てもらったという可能性を考えられてもおかしくはないだろう。疑われたら……僕はどうなるのだろう。順当に行けば、処刑だろうか……。そう考えたら、全身の血の気が引いた。
「その顔を見ると、違うらしいな。違うとなると、やはり……」
「違います……ええと、えっと、だから、あの……」
「まさか」
「っ」
「暴力を振るわれたのか!? 実は怪我をしているのか!? お前はたまに変なところで無理をするからな」
「だから大丈夫です!」
「見せてみろ」
リューク様はそう言うと、強引に僕の手を引いた。よろめいてソファに倒れた僕の服を、慌てたようにリューク様が剥いだ。そしてピタピタと掌を僕の体に当てて、怪我がないか確かめていく。
「――よし、怪我もないようだ」
「平気です」
「となると……――っ、あ、あ、いや、悪い、服を着てくれ! 悪い」
答えた僕を見て、我に返ったような顔をしたあと、リューク様が急に真っ赤になった。立ち上がり、片手で唇を覆って慌てるように僕から離れた。一体何だというのか……首をかしげつつ、僕は服を直した。
「ま、ま、まさかとは思うが、性的な……その」
「っ、げほ」
僕は思いっきりむせた。リューク様が突然核心を突いてきたからである。
「「……」」
しばしの間、僕とリューク様の間に沈黙が横たわった。それから、リューク様の目が据わった。
「……どこまで、何をされた?」
「え」
「……この手で屠ってやる。俺の、俺の大切なサイになんていうことを」
サイというのは、僕の名前である。頭文字をとって、C≠ネのだ。人間だった頃の名前というのが正しいかも知れない。魔界でこの名前を知っているのは、リューク様だけだ。他のみんなは、僕をC≠ニ呼ぶ。魔族は、爵位がなければ固有の名前を基本的に持たないらしいのだ。だから種族名などを名乗るのだという。僕の場合は、不定型魔族に分類される、人型らしい。
「サイ、今後は決して俺から離れないように。俺が、お前を守ってやるから」
「ありがとうございます」
「それで、な、何をされたんだ?」
「あ、あの……ちょ、ちょぉっと、そ、そのっ、あれ、あれです! 頭がパンクする手前的な」
なんと答えたら良いのか分からなかったため、医術師の言葉を借りた。
「パ、パンク寸前!?」
すると何故なのか、叫んだリューク様が鼻血を出した。え?
「許すまじき暴行だ、あの人間め……絶対に許さない。俺でさえまだ手すら繋いでいないというのに……っ!!」
僕が机の上からとって渡したティッシュで鼻を押さえながら、リューク様がもう片方の手で拳を握った。震える拳は、何かを強く決意しているような、そんな印象を僕に与えた。
このようにして、その日は解散となった。
翌日から――僕は、ここまでの記録を、思い出して書き出す作業も行わなければならなくなった。それは、大体、残業として行っている。それ以外は、僕はこれまで通り、風の魔道具で、エルトの動向をキャッチしているのだが、最近では後ろにリューク様が立っている頻度が多い。心配してくれているようだ。
しかし、常に二人というわけではない。
そして何故なのか、リューク様が会議などでいない時に限って、エルトは独りきりで薬草採取に出かけたりする。ノートがほぼ白紙になってしまった僕としては、少しでも多くの資料を集めたいから、尾行を開始する。無論今では、はみ出さないようにと気を遣っているから、今日までのところ、一度も気づかれたことはない。既にエルトと最初に言葉を交わしたあの日から、一ヶ月が経とうとしていた。
今日のエルトは、浅瀬を渡って、湖の中央にある島へと向かっていく。やはり僕に気づいた様子はない。周囲に僕の姿を隠してくれる遮断物がないため、少し距離を取って、僕は追いかけた。靴と靴下と下衣が濡れてしまった。足首まで水に浸かりながら、どうして僕は靴を脱いで追いかけなかったのだろうかと後悔した。
島につくと、中央にある廃教会が視界に入った。この大陸全土に広がる、レーサイア教の教会だとすぐにわかった。僕の出身である少数民族も、この宗教を信仰していたからだ。大陸でメジャーなものとは少し内容が違ったのだが、主神は同じだった。主神レーサイアは、僕の民族の神子に宿るとされていたのだったと思う。だが、神子がどこの誰なのかは、神子本人にすら秘匿されて、安全を保たれていた。僕も誰だか知らなかったが、皆が言っていたとおり、僕の弟だったと確信している。
坂道を歩いて行き、僕は教会の少し開いた入口から中を見た。
するとひび割れたステンドグラスを、エルトが見上げていた。
思いの外神聖に思えて、僕は見惚れた。
「入らないのか?」
声をかけられたのは、その時のことだった。目を見開いて、僕は息を飲んだ。