【八】篭絡ではない
「それで、カルテは?」
「え?」
「今日も俺を教えただろう」
教えたというのは……やはり、体のことなのだろう。絶倫、だとか、そういう無駄知識である。僕は、別にそれを欲していないと、そろそろはっきりと言うべきだろうか。
「俺は基本的に素性について、恋人以外に話したことはない」
それを聞いて僕はハッとした。つまり、さきほど僕が完全に雑談だと思っていたことは、エルトの全部≠ノ関わる大切な部分があったということなのだ。その後の肉体関係で頭が真っ白になり、大部分を忘れているのか思い出せない僕は、非常に焦った。恋人ではないのに話してくれたようなのに……なんだか申し訳ない。その小さな罪悪感が理由で、僕は意を決して、前回会ってから昨日までのノートを俯きがちに手渡した。
受け取ったエルトは、満足そうに頷くとノートを開いた。
パラパラと大雑把にめくりながら、いつもの険しい顔をしている。
何箇所かで納得したように頷き、それから自分でも何事かメモを取り出して見比べている。難解な医学用語を口にし、それから僕を見た。
「――……カルテ部分は、さすがというか、書き方が洗練されてきている。次からも薬品の投与量の記述は、今回の書き方で続けてくれ」
「う、うん」
「ただ……俺の見間違いでなければ……」
それから訝るように僕をじっと見たあと、エルトが一度ノートを閉じた。
そして一番最初、今回の冒頭を改めてめくった。
そこに書いてあるのは、前回の、エルトと初めて話をした日の記録であるはずだ。
「――ちょっと待て」
「へ?」
「なんだこの秀逸な官能小説は!!」
エルトの言葉に、僕は衝撃を受けた。か、官能小説? 僕は、そんな破廉恥なものは、人生で一度も読んだことがない。だから僕の書いたどの部分が、官能小説に類似しているのかがさっぱりわからない。
「うわ、艶かしいな……サイ、お前……確かに俺はうまい自信がそれなりにはあるが……そんなに気持ち良かったのか、特に乳首」
「っ、げほ」
僕は該当しそうな部分をもい出して、思いっきり咳き込んだ。
「や、やめて、読まないで!」
「読まないでって、お前これ、最終的に仕事で提出するんだろう? そうしたら全世界に大々的に公開だろう。魔王軍もたまにはいい仕事をするんだな」
ニヤニヤする眼差しに変わったエルトは、それから僕のノートを数行読んでは、じっとニヤついたその顔で僕を見る、という行為を繰り返し始めた。恥ずかしくて顔から火が出そうになった僕は、エルトが術で乾かしてくれた服を着ながら、俯いていた。
こうして周囲の水がひくまでの間、僕はエルトと共に教会で過ごした。
水がひいたのは、翌日の日中で、勇者パーティは、昨日はこの土地から動かなかったそうなので(医術師がここにいるからかもしれない)、集団での移動で魔族もまた本日もこの地にやってきているらしい。早く合流しなければ。僕はエルトと共に教会から出た。
「サイ!!」
「エルト!!」
坂道を下っていくと、前方から勢いよく走ってきたリューク様と――勇者が見えた。二人は同時に、僕とエルトの名前を叫んだ。それから二人は顔も見合わせて互いを睨めつけ、そしてまた僕達を見ると走ってきた。
「リューク様」
僕はリューク様に、エルトから引き離すかのように抱きしめられて驚いた。エルトとつないでいた手が離れたのが、少しだけ名残惜しい。って、僕は何を考えているのだろう。リューク様は、僕を横からぎゅっと大きな体で抱きしめると、エルトを睨みつけた。瞬間、魔力がほとんどないらしい僕にですら分かる、圧倒的な威圧感がその場を襲った。空気が張り詰めていき、地面の小石のいくつかは弾け飛んだ。
「エルト、お前まさかそこの美人の魔族に篭絡されたんじゃないよな? お前に限ってそんなこと、絶対ないって、俺は勇者としてじゃなく友達としてお前を信じてる」
一方の勇者は、エルト様の隣に立つと力強く頷いた。そして背中に普段は吊るしている聖剣を両手で構えている。勇者はリューク様を睨んでいた。しかしリューク様はエルトを睨んだままだ。そんな中で、エルトが勇者に声をかけた。
「ん? 篭絡? この俺が? ないない」
「ああ、安心した」
「それにサイ――そこの美人にも篭絡なんていう高度な技能は無ぇな」
「それは不幸中の幸いだ」
「俺達の間にあるのは、カルテ――一部官能小説、それと愛だけだ」
「「は!?」」
エルトの言葉に、リューク様と勇者がそろって声を上げた。
二人はそろって勢いよくエルトを見た。
「世界には、運命の相手が本当にいるのかもしれないな」
「――帰るぞ、サイ。後で詳しく聞かせもらうが、二度と医術師とは接触禁止だ!」
リューク様はそう言うと、僕を抱きしめたまま魔術転移した。これは膨大な魔力を持っている一部の魔術師のほかは、魔族のお家芸である。
こうして僕は、無事に帰宅した。
早退して良いと言われて、僕はリューク様と共に魔界へと戻った。
連れて行かれたのは、懐かしいリューク様の家だった。僕は魔界に来た当初は、ここで暮らしていたのである。お風呂を借りてから、食事をご馳走になった。すると睡魔が一気に来た。
「色々と話を聞きたいところだが、今日はもう休んでいいからな」
リューク様は優しくそう言うと、僕を客間に促した。
シーツの水面に沈んだ僕の髪を、優しく撫でてくれる。その手の感触に安心しながら、僕は眠ってしまった。