【十】弟
次に目を覚ました時――僕は、見たことのない真っ青なシーツの布団をかぶっていた。ふかふかの寝台にも心当たりがない。ただ、自然と起き上がることができた事実に安堵した。俯いて体を見ると、エルトがよく患者さんに着せている、前で合わせる白い服を身にまとっていた。首から胸の下まで包帯が巻いてあったが、痛みはない。骨が折れたと思ったけれど、もう治っているようだったし、裂傷などもなさそうだった。他には左手の人差し指から手首のすぐ下まで包帯が巻いてある。我ながら痛々しい。自覚してみると、確かにそれらの部分は、鈍く痛むようにも思えた。
「目が覚めたのか? 気分は?」
その時、音もなく扉が開いて、入ってきたエルトに声をかけられた。白衣のポケットに両手を入れている。眉間のシワは健在だ。
「お水が飲みたい気分です」
「やるよ」
エルトが歩み寄ってきて、テーブルの上のグラスをひっくり返した。
ベッドサイドのテーブルには、他に水の入ったポットがあって、エルトはひんやりとした水を僕にくれた。
「ここはどこ? 助けてくれて有難う」
「――助けたとは、俺の中では言い難い。が、無事で良かった。ここは、マイネルス王国の南にある独立自治区だ。最近血統を保証された民族に、マイネルスが善意で領土を貸し与えた。本当に善意かどうかは怪しいがな」
「つまり人間の国ということだから――……僕、帰らないと」
「リューク卿には、こちらにいると伝えてある。お前は大怪我をしている。肉体が治癒したとしても、残存している痛みはすぐには消えない。ゆっくりと治すべきだ。それを直すにはこちらが良い。それはリューク卿も同じ見解だった」
「え」
「しばらくは、ここで、俺の診察を受けろ」
こうして僕の、エルトに看病される生活が始まった。
――エルトの手腕なのか、僕の治癒能力の高さからなのか、僕は数日後には歩けるようになった。これには、エルトも絶句していた。一週間が過ぎる頃には、包帯を取っても問題がなくなって、痛み止めの軟膏も必要なくなった。エルトの回復能力で、直接手で肌に触れられながら癒してもらう機会も減った。
「驚いたな。本当に治癒能力が高いんだな」
「僕の魔族らしい唯一のポイントだよ」
「魔族らしい、ねぇ……――俺にはお前が人間にしか見えないけどな」
そう言ってから、エルトは窓の前に立った。僕は寝台から上半身を起こしてそれを見ていた。白いカーテンの間の窓からは、色付き始めた木々がよく見える。もう秋だ。この大陸には、長い冬が訪れるから、秋は一瞬しかない。ピンク色の風船が、空を飛んでいくのが見える。
「少し、外の空気でも吸ってみるか?」
「え?」
「人間の街――見てみたらどうだ? 自分が人間だと実感するかもしれないぞ」
「それは分からないけど、街に入ってみたいかもしれない」
実を言えば、僕は魔族に生まれてから、一度も人間の街をじっくりと眺めて歩いたことがないのだ。なんだか嬉しくなって僕が微笑むと、エルトが少し照れるように顔を背けた。
それから二人で準備をして、外へと出た。
するとエルトが、下ろしていた僕の手を静かに握った。
「別にデートに行くつもりじゃない」
「デート?」
「普段の俺ならばそう言うんだが、お前相手だと、きっぱりと『今からデートに行く』と言わないと、伝わらなそうで怖いな」
「何の話?」
「クレープでも食って、二人で過ごそうという話だ。深く考えるな」
そう言って苦笑するように笑ったエルトの表情は、とても優しいものに見えた。
石畳の街を歩き、街路樹の紅葉を眺める。
澄んだ秋の空気は心地よくて、空がいつもより高く思えた。
宣言通り、エルトは僕にクレープを買ってくれた。だが本人は、辛党だと言って、買わなかった。だというのに、僕に一口よこせというのだから、横暴である。
「美味しい?」
「おう、たまには良いかもな」
そんなやりとりをしながら二人で歩く。
そうしていた時だった。誰かが駆け寄ってくる気配がした。
「エルト様! お会いしたかったです」
僕は立ち止まった。それは、エルトの名前を聞いたからではなかった。
エルトに抱きつくようにした来訪者は、非常に端正な顔をしている美少年で――榛色の瞳が優しさに溢れていた。はにかむように笑っている。白磁の頬を桃色に染めていた。金色のゆるく波打つ髪が、金糸雀のように美しい。僕は、彼を知っていた。目を見開いたまま、僕は体の動かし方を忘れてしまった。
「どうしてこの自治区にいらしているというのに、民族府に顔を出してくださらないんですか? 僕は婚約者として、ずっとお待ちしておりましたのに」
「――対魔王共闘条例による古血統復古計画においての、神話上の象徴的婚姻文化の再現として、そういう提案がお前の民族側から俺の家にもたらされたという話は無論聞いているが、了承した覚えは無ぇよ。俺は己がコルツフェルド王族の末裔であると聞いても特別な感慨は抱かないが、だからといって、アルバジルの末裔でレーサイアの神子を嘯くお前と結婚しようという気にはならない。俺には心に決めた相手が居る。俺の中で、仮に運命の相手がいるならば、そいつ以外はありえないという確信もある」
エルトは、そう言うと、僕の腰を抱き寄せた。そして睨むように――レーアを見た。
レーアは、虚を突かれたように息を飲んだ後、ゆっくりと僕を見た。
そして凍りついた顔をした。
「お兄様……?」
やはり、レーアだった。僕の弟だ。もう二度と会えないと思っていたのだが、少し大人になったレーアが、確かに僕の目の前にいる。とすると、転生というのは、外見もそのままだったが、ほとんど時間は立っていなかったのかもしれない。レーアは、丁度この五年間分くらいしか成長していないように見えた。
「死んだはずじゃ……」
「生まれ変わったんだ……」
「生まれ変わった……?」
「僕、魔族に生まれ変わったらしいんだ」
必死で僕は言葉を探した。もっと沢山色々なことを話したいのだが、上手く思いつかない。レーアは、榛色の瞳でじっと僕を見ている。
「冗談はやめてほしいんだけど。それともあてつけ? 僕が買収した魔族に何かを聞いたの?」
「――買収? レーア、それはどう言う……?」
「転生なんてあるわけがない。それより、エルト様にベタベタしないでもらえる? 僕のだから。離れて」
「え、あ」
一気に冷たい表情に変わり、レーアが僕に言った。機嫌を損ねたくなくて、僕は身を離そうとしたのだけれど――逆に強くエルトに抱き寄せられた。
「俺の心に決めた相手が誰なのかくらい予測できないのか?」
「な」
「買収、か。こちらでも色々調べさせてもらった。神子であった兄の死後、代理の神子として権勢を振るっているどこかの誰かの話なんかをな」
「!」
「消えろ」
エルトが冷たく吐き捨てた。僕はその眼光に怯えた。それはレーアも同様だったようで、弟は息を飲んだ後で、踵を返して走り去った。その後ろ姿を見送りながら、僕はポカンとするしかない。事態がよくわからない。
しばらくの間をおいてから、僕はエルトに両腕で改めて抱きしめられ、ようやく我に返ることができた。
「やっぱり兄弟だったんだな」
「やっぱり?」
「サイ――お前は、人間なんだ」
「え?」
「言い方を変える。お前は死んでない。だから生まれ変わってもいないんだ」
エルトはそう言うと、僕を抱く腕に力を込めた。