【八】「陛下の方が、俺よりも経験値が低いじゃないか!」





 二人で眠る事になった寝台に、取り敢えず俺は腰掛けた。ルカス陛下はソファに座って書類を眺めながら、今度は琥珀色のウイスキーをロックで飲んでいる。時折氷が立てる音を耳にしながら、俺は複雑な気持ちになった。

 何せ――国王陛下の添い寝コースだ。

 恐れ多いといえば、それはそうなのだ、が……節約家の俺の内心は、計算に熱心になっていた。今後毎日、これまで週末にかかっていた添い寝代がかからない上で、人肌がそこにあるのだ。妃業にお給料は出ないかもしれないが、生活費もあまり自分で支払う必要は無さそうだ。まだその辺の細部は聞いていない。急展開過ぎた事と、今回の件は、元を正せば処分のやんわりとした一形態だったからである。

 その時、コトンと音を立ててグラスを起き、陛下が立ち上がった。
 そうして寝台まで歩み寄ってくると、まじまじと俺を見てから、上がってきた。
 慌てて俺も上に座る。そんな俺の前で、くるりと背を向けると、陛下が言った。

「寝るか。おやすみ」
「おやすみなさい」

 俺は答えたが――これでは、添い寝ではない。巨大な寝台には距離もあるし、単純に二人で横になるだけだ。やはり添い寝コースとは趣が違う。何しろ、腕枕ではないのだ。まぁ、現実はこんなものだろうか。

 そう考えて、俺も眠る事にした。疲れが一気にこみ上げてきたのである。当初こそ、緊張して眠れないかもしれないと心配していたが、毛布をかけてすぐ、そのまま俺は寝入った。

 ――翌朝。

「ん」

 瞼を開けた俺は、最初、何処に居るのか分からなかった。目の前に、厚い胸板がある。確認しようと体を起こそうとしたら、がっしりと背中に腕が回っていたため、身動きが出来なかった。二度瞬きをしてから視線だけを上げて――俺は一気に覚醒した。

 俺を抱きしめて、ルカス陛下が眠っていたからである。伏せられている端正な目を見て、思いの外まつげが長いなと考える。完全に爆睡しているらしく、健やかな寝息が聞こえる。

「……」

 動けないので、俺は陛下の綺麗な寝顔を眺めていた。陛下は体温が高いらしい。それにしても力が強い。俺を抱き枕か何かと、勘違いしているのかもしれない。そのまま暫く見守っていると、うっすらと陛下が瞼を開けた。そしてぼんやりと俺を見た。目が合う。

「……オルガ……? ……っ!!」

 そこで漸く、ルカス陛下は覚醒したようだった。バッと勢いよく俺を離すと、慌てたように距離を取ってからこちらを見た。そのまま上半身を起こし、焦ったように何度も唇を開閉させている。瞬時に陛下は赤面した。

「わ、悪い……寝ぼけていたらしい」

 その動揺っぷりを見て、俺は思わず気分が良くなった。

「やっぱり陛下の方が、俺よりも経験値が低いじゃないか! 真っ赤だ」
「う、うるさい!」
「抱きしめられちゃった」
「黙れ!」

 そんなやりとりをしてから、俺達は、揃って朝食をとった。本日は、俺の部屋へとレスト達が運んできてくれたのである。本日以外も、この部屋か一階で食べる事になるようだった。もっとも食事に関しては、打ち合わせなどを兼ねて大臣達などと陛下が食べる事もあるそうなので、必ず一緒だというわけではないようだった。

 さて朝食後――ルカス陛下とは別れて、本日も俺はレストと一緒に、第四塔へと向かった。するとデイルさんが待ち構えていた。俺は扉を開けた瞬間に、最初、目を疑った。

 デイルさんの背後には、昨日と同じくらいの量の仕事の山が見えるのだ。昨日全て片付けたはずなのに、また、新たな書類が雪崩を起こしそうになっていたのである。え? どこから出てきたんだろうか……?

「お待ちしておりました! 急ぎのお仕事が!」
「見れば分かります」
「え? たった今、宰相府から伝令が来たのですが、もうお聞きに?」

 首を傾げながら、デイルさんが一枚の羊皮紙を俺に見せた。伝令に関しては知らないので首を振り、俺は視線を向けた。

 そこには、『フェルスナ伯爵領への視察について』という文字が並んでいた。

「国王陛下のご視察に、初めて王妃様のお仕事として伴われるそうですね! いやぁ、オルガ様ならばきっと完璧にこなされる事でしょう!」

 デイルさんの声に、俺は息を呑んだ。視察なんて、初めて聞いたからだ。驚いてレストを見たが、こちらは知っていたのか、笑顔を変えない。いつもの通りだ。

「そこで、本日は、まずは次の視察時の――その後は、普段からその他の外交時や夜会の際にお召になる服の予算案等を、取りまとめるお仕事を!」

 それを聞いた俺は、二つの事に驚いた。王妃が自分で予算を組むものだったのか……衣装……と、いう点と、もう一つは、その衣装代に関する書類だけで部屋が埋まるのかという衝撃である。

「早速取り掛かりましょう! なお、次の視察の品に関しては、午後には仕立て屋の者が参りますので、午前中には全てを終わらせたいのですが」
「う……」

 昨日よりも速度を上げなければならないだろう……。俺は顔を引きつらせそうになったが、必死で笑顔を浮かべた。こうして本日も席につき、俺はデイルから受け取った紙を見た。

「……シャツ一着で……750万デクス……」

 俺はちらりとレストを見た。今回に関しては、俺の方の一般常識が当てはまらないのだ。俺には、貴族の服の平均額の知識が無い。文官の制服は支給品だったので、上質だが額は知らなかった。それに、こちらにも昨日のように、何か含まれている可能性もある。

「レスト、これは、高い? 安い?」
「僕の私服のシャツより、少し高い程度ですね」

 クスクスとレストが笑っている。室内を見渡すと、皆静かに頷いていた。

「じゃあ、もう少し値段を下げても良いって事か?」
「どちらかといえば、上げても構わないのでは? 初の視察ですし」
「そういうもの?」
「全体的な予算との兼ね合いもあるとは思います」

 それを聞いて、俺は他の書類を手に取った。すると見本として、過去の王妃様達の衣装代の一覧がついていた。……目が飛び出そうなほどの高額だった。

「……え、えっと。これ、さ? 本当に貴族の標準なのか? そうなんですか?」

 平民の俺とは、格が違った。声が震えてしまう。そこで、はたと気づいた。

「あ、でも、俺は男だし、ドレスよりはお金がかからないのか。特に、アクセサリーはそんなにいらないだろうし。俺は頭に花とかつけないからな――……つけないよな? ま、まさか、ドレスの一覧が見本にあるって、俺は女装とかしないとならないの?」

 焦るような声音を俺が放つと、レストが腕を組んだ。そして小さく吹き出した。

「女装は必要ありませんが、お好みでしたら」
「好まない、好まないです!」
「順にお答えすると、貴族平均よりは無論少し高額です。理由は、やはり王家の皆様は外交等で他国の方とお会いする機会が多いので、あんまりにも安っぽい出で立ちをされていると、国が貧しいのかと勘ぐられてしまいますので」
「なるほど」

 頷き、その後この日は、レストや補佐官の人々に教わりながら、俺はサインをしていった。仕事を一区切りさせたのは午後になってからで、仕立て屋さんが訪れたのは二時過ぎの事だった。

 そこから俺は、着せ替え人形のように、あれやこれやと渡された服を着せられた。俺にはどれも似たりよったりのシャツに見えても、細部のデザインが違うのだと主張され、一着一着身にまとっては、その部屋にいる全員に唸られた。上着も同様だった。途中でメガネを外され、服により似合いそうな髪型にするとして弄られた。居心地が悪すぎる。俺だって普段着を買うのは好きだ。だが俺が買うのは市販品ばかりであり、自分のサイズを測定して作ってもらった事など、ほとんどないのである。

 それらが終わったのは夜だったが、本日の書類の山は補佐官の人々が俺よりも沢山片付けてくれたので、無事に収まった。

 この日――ルカス陛下と俺は、第三塔の自分の部屋で合流した。
 着替えたままの状態で俺が部屋に戻ると、ルカス陛下が座っていたのである。

「遅かったな。夕食は今こちらに運んでくると――……」

 俺を見てそう言ったルカス陛下は、途中で口を止めた。そして、俺の頭からつま先までを、二度じっくりと見た。

「童顔だとしか聞いていなかったが、そうしていると、思ったよりも、艶があるな」
「艶?」

 レストに首元のリボンを渡しながら、俺は聞き返した。

「な、なんでもない!」

 するとハッとしたような声を出してから、ルカス陛下が顔を背けた。しかし疲れていたので追求する気分にもならず、俺はその後、食事をして入浴し、直ぐに眠る事にした。