【二十二】……花、か。




 翌日――俺は、お妃業の書類仕事をするために、第四塔へと向かった。既に顔なじみの補佐官達に挨拶されると、それだけで一気に、『日常』が戻ってきた気分になる。ちょっと休んだだけなのに、俺は書類をしている方が普通になりつつある。だんだん、仕事にも慣れてきたのかもしれない。

 効率的になった室内で、みんなと共に書類を片付けながら、俺にはそんな風に考え事をする余裕が出来ていた。一日のペース配分も、みんなと一緒に考えたから、なるべく多く片付けてはいるが、心に余裕が持てる。一日に全てを終わらせなくても良いのだ!

「よし、そろそろ、お昼休憩の時間ですね」

 レストの言葉に頷いて、俺は自分の執務机の席から立ち上がった。隣に応接用の小さなテーブルとソファがあり、昼食はそこで軽食をとる事が多い。その位置からだと、執務机の真後ろにある窓とレースのカーテンがよく見える。出窓には、色とりどりの鉢植えが飾ってある。中でも黄色い花が目を惹く。

 ……花、か。

 俺は、レストが昼食の用意をしてくれるのを眺めつつ、昨日の陛下の言葉を考えていた。もうすぐ白薔薇祭……薔薇と本を、一般的な俺のような人間は贈り合うというのは確かだ。話を聞いた限り、陛下は経験が無さそうだったし、贈ったら喜んでくれるかも知れない。

「なぁ、レスト」

 俺はキッシュを手に取りながら、聞いてみる事にした。

「いかがなさいました?」
「妃ってさ、その……お小遣いとかってあるのか?」

 なにせ俺は無一文である。いつも給料でやりくりしてきたが、飲む・打つ・買うで貯金は微々たるもので、その貯金も後宮にいては、王国銀行におろしにいく事も出来無い。一応左遷(処分)をされたわけだし、没収されている可能性もある。

「ありますよ。何か、ご入り用ですか?」
「ちょっと欲しいモノがあって。いくらくらいだ?」

 聞いてから、きのこのキッシュを食べる。落ち着く味がする。

「二億デクスですね」
「え?」
「二億です。足りませんか?」
「いや……だ、だって、え? 二億? 俺の文官の時の給料は、一年で、380万デクスだぞ? 足りないっていうか、多すぎだろう! そこから服代とかを払ってるの?」
「いいえ。衣装の予算は、こちらの書類で片付けている通り、別です。二億は完全な私費となりますね」

 唖然とした。ちょっと想像がつかない。

「それって、一生かけて、二億も使えるってことか? 一気にもらえるだけ?」
「毎年二億ですよ」

 気が遠くなりそうになった。キッシュを持つ手が震えてしまう。

「なぁ、1万デクスで良いんだけど……もらえないか?」
「すぐに手配いたしますね」
「ありがとう、レスト……それで、ちょっと買い物がしたいんだけど」
「商人を呼びますね」
「あ、いや、自分で街に――」
「それはなりません」

 俺が言うと、珍しく真面目な顔に変わったレストが、大きく首を振った。

「残念ですが、視察や夜会等のご公務でなければ、後宮からお一人での外出は出来ません」

 それを聞いて、俺は自分が妃だという事を改めて思い出した。
 そうか……気軽に出る事は出来ないのか。
 だが、だからと言って、お花屋さんを呼んでもらったり、本屋さんを呼んでもらうのは気が引ける。

「……誰か、おつかいに行ってくれる人、いないかな」
「何が欲しいんですか? 商人を呼ぶのではダメなんですか?」

 不思議そうなレストの声に、言うのが恥ずかしかったが、俺は答えた。

「その……白い薔薇と、本が欲しいんだ」

 思いの外小さな声になってしまった俺は、俯いて照れを隠した。レストが短く息を飲んでいる。周囲では自分の机で食事をしている補佐官達が、驚いたようにこちらを見ている気配がした。

「なるほど、そういう事ですか」

 するとレストが、いつもの通り、クスクスと笑った。

「本は、どんな本を?」
「砂の王子様っていう童話がいいかなって思って」
「薔薇の数は?」
「やっぱり花束が良いな。片手で持てるくらいの、何本だろう。十五本くらいか?」
「僕が買いに行ってきますよ」

 レストの声に、俺は勢いよく顔を上げた。

「え? 良いのか?」
「勿論です」

 こうして、俺は無事に用意出来る事が決まった。それを考えていると、明るい気分になってきて、仕事もはかどる。自分で気軽に出られなくなったのが寂しいといえば寂しいが、処刑回避と恋愛成就を思えば、そこは我慢が出来た。

 夜、仕事を終えると、本日はルカス陛下が遅いらしく、部屋で待っているようにと言われた。街に気軽に出られない度で言うなら、陛下が圧勝だろう。もう夜の十一時だ。久しぶりに一人で食べたサラダは、なんとなく味気なく思えた。

 ノックの音と扉が開く音がほぼ同時にしたのは、レストが下がった五分後の事だった。俺が視線を向けると、そこにはルカス陛下が立っていた。疲れているのか、少し表情が険しい。俺はお茶を用意する事にした。紅茶くらいは俺も簡単なものなら用意が出来る。味はレストには到底及ばないが、疲れを癒す程度にはなるだろう。

「どうぞ」

 俺の隣に座った陛下の前にカップを置く。
 するとそれを手に取る前に、ルカス陛下が片手を俺の肩に回して抱き寄せた。

「仔細は聞いていないが、補佐官達が話していたとして、噂を小耳に挟んだ。今日――街に降りたいと言ったらしいな」
「えっ、詳細は聞いてないんですよね? 聞いてないよね? 聞いてないよな?」

 サプライズをしたいわけではないが、気恥ずかしくて、何度も聞いてしまった。

「ああ。だが、聞いては悪いのか?」
「そういうわけじゃないけど……ちょっとだけ、出たいと思ったんだ」

 俺が答えると、ルカス陛下が深く息を吐いた。

「この部屋で、俺だけと一緒にいるのは、不満か?」
「へ?」
「俺だけじゃ、ダメなのか?」

 見れば、ルカス陛下がどこか拗ねるように、俺を見ていた。その表情が可愛く思えて、俺はにやけそうになった。

「そんな事ない。ルカス陛下がいてくれると、俺はそばにいたいから、どこにも行かなくても良いです」
「だが、今日は街に行きたいと話したのだろう?」
「それとこれとは話が別です」
「何をしに行きたかったんだ?」

 その声に、俺は悪戯心が浮かんできた。

「秘密です」

 するとルカス陛下が、今度は両腕で俺を抱きしめる。

「いつか話してくれるか?」
「どうかなぁ」
「俺は結構嫉妬深いんだぞ」

 それを聞いて、俺は思わず笑った。確かに、子供相手によく嫉妬しているのを見ている。それからは雑談をしつつ、この日も二人で休む事にした。