【二】俺、逃亡を試みる!
「あ、その……立てるか?」
茫然自失としていた俺の前で、立ち上がった勇者が手を差し出してきた。
立てと言われれば立てるが、立つ気力が起きない。
世の中には失恋するよりも辛い恋愛ごとも存在するのだな……ああ……魔王様ッ!
怒りともちょっと違うこのやりきれない気持ちを俺はどうすればいいのかわからない。おずおずと勇者を見上げてみるが……勇者と……相思相愛? 無茶振りだ。
前魔王様の代から、魔王様一族に倣って魔族は人間と恋などしない。
確かに勇者は膨大な魔力を持つから大層なイケメンだが、そういう問題ではないのだ。俺はちょっと非道なところがある魔王様のことがそれでもまだ好きなのだ。
第一、勇者は本気で言っているのか?
だとしても、俺は人間はちょっとな……。そもそも俺は、人間というものは、襲撃している勇者達のことしか見たこともないが、俺にとっては殺人鬼そのものだ(魔族も一人二人と数える)。そんな怖い相手の恋人など無理だし、魔王様はチェンジと言ったが俺にだって人権はある(よな?)。
ここはーー……逃げてしまおう。そう決意した時だった。
「もしかして腰が抜けたのか!? わ、悪い、急で驚いたよな!」
「な」
「責任を取るから!」
勇者がいきなり俺を、お姫様抱っこした。俺は体勢を崩しかけて、勇者にしがみつく。違う、断じて違う、否定しなければ……そう思っているうちに勇者が歩き始めた。こ、これでは逃げられないではないか……!
「ワイズ、殿下、宿に戻ろう」
「部屋割りはもちろん貴様とその魔族なんだろうな?」
「本気で連れて行くんですか……」
俺は必死で、そこに言葉を挟もうと試みた。
しかし歩き出した勇者たちは、彼らの世界を構築していた。
「俺は反対です。けど……取り敢えず、勇者様が普通になって良かったと心底思ってます」
「そこが一番重要だろう? これ以上ヴァレンを放置していたらこちらの三半規管の機能が仕事を拒否する」
「俺はただ愛の言葉を日々考えていただけだ」
「「だからそれがウザいんだって」」
勇者の腕の中で俺は取り残された気分を味わった。
そして逃亡を現時点では諦めた。宿とやらに着いてから考えよう。
実を言えば、俺は人間の街に足を踏み入れたことがない。
俺はそのまま無言で勇者に抱きかかえられて連れて行かれた。
たどり着いた宿は白い石造りで、三階だての四角い建物だった。
俺がこれまで暮らしてきた魔界は雪が多いから、基本的に屋根は三角形だ。
――魔族が珍しいのか、いたるところから視線が飛んでくる。
あちらでヒソヒソ、こちらでヒソヒソと囁き声がした。
「……綺麗だな」
「誰だあれ?」
違ったらしい。勇者たちの美貌に皆見惚れているのだろう。
それから三階にある部屋へと連れて行かれ、寝台の上に体を降ろされた。
多分寝台だ。
魔族は基本的に、壁に背を預けて座って眠る。だから横になるのは怪我人と病人だけだ。俺はいたって健康だから、あまり寝台を見たことがないのである。
「腹、減らないか?」
ベッドに座った俺に、勇者が言った。
この状況で食欲があったら奇跡だ。
「魔族の主食は果物なんだよな? そ、そうだ! 柿でも食堂からもらってこようか?」
柿か。悪くない。
実際魔族の主食は果物だ。正確には、この大陸の果物に宿る魔力である。
人間で言うところの胃に当たる機関で魔力に果肉が変換されるのだ。
だから水分しか排泄はしない。
なおいえば、魔力さえ得られれば、果物である必要もない。
それでも人間同様、後ろにも穴がある。
こちらは魔族の場合は、完全なる性交用だ。魔族は男女両性の三性別共に、後ろでの行為をする頻度が高い。快楽至上主義なので、性行為に関しては性差は無いのだ。そんなことを考えてしまうのも、ベッドに座っているからだ。魔族は基本的に騎乗位だが、体位の一つとしては横になるものもあると聞く。勇者もその……俺とそういう行為をしたいのだろうか?
「ソーダ?」
「!」
俺は一体何を考えていたんだろうか。我に帰ったらなんだか恥ずかしくなって頬が熱くなった。
「顔が赤いな……まさか、風邪か!?」
勇者はそういうと俺の額に触れた。人間は魔族よりも体温が低いから、ひんやりとしていた。勇者の手は綺麗だが、剣ダコがある。
「熱い……全く気づかなかった。悪いことをしたな」
しゅんとしてしまった勇者を見て、思わず俺は首を振った。
「魔族にとっては平熱だし、魔族には風邪はない」
「そうなのか」
ぱっと勇者の顔が明るいものへと変わった。この勇者……純粋そうだ……。
なんだか言い知れない罪悪感が襲ってくるが、俺はやはり逃げる決意を固めた。
このままここにいても、どうにもならない。
「柿が食べたい。気にかけてくれてありがとう」
「あ、ああ! べ、別に優しさアピールとかじゃないからな? すぐ持ってくるから!」
勇者はそう言うと足早に部屋を出て行った。
俺はといえば、少ししてから、窓へ歩み寄った。
この高さならば、魔族ならば余裕で飛び降りられる。悪いな勇者よ……!
それに今日はまだ瞬間移動も使っていないから、宿から離れて、魔術師と王子から距離を取り結界を抜ければそれも使える。
窓を静かに開けた俺は、深呼吸してから飛び降りた――そして、抱きとめられた。
え。
驚いていると、そこには満面の笑みの勇者がいた。何故だ!?
「食堂にいたら落ちてくるのが見えたから焦った! 外を見る時は気をつけないと!」
「……」
柿が入ったカゴを下げた勇者がいう。俺の心臓はバクバクという。
あっけに取られすぎて声が出てこない。
それにしても勇者の行動速度は早すぎないか!?
「一緒に部屋に戻って、ゆっくり休もう! な?」
「あ、ああ……」
俺には頷く以外の選択肢がなかったのだった。
そのまま再び勇者に抱きかかえられて、俺は部屋へと戻った。
そして今度は椅子に座る。それからまじまじと勇者を見た。
黒い髪にサファイア色の目をしている。背が高い。肌は意外と白い。
魔族ほどではないが。一見優男風だが、力がすごく強いことを俺は知っている。
味なんて全く感じられないが、無理矢理柿を噛みながら俺は思案した。
――どうやって逃げればいいんだろう?
「そろそろ寝るか? それともシャワーを浴びるか?」
俺が食べ終わった時、顔を赤らめた勇者に言われた。勇者の方こそ風邪でも患っているのだろうか?
そもそも魔族は魔術で体の汚れを消すから、シャワーというものを使わない。娯楽で温泉に入るか、魔力の溢れた湧き水に浸かるくらいである。
「寝る」
「じゃあベッドを使ってくれ。俺はソファで寝るから」
「いや結構だ。魔族は寝台を使わないから」
「そうなのか?」
それにしても部屋の広さは二人分だが、なぜベッドは一つしかないのだろう?
寝台のことが俺はやはりよくわからない。
「それでも、あ、あの、良かったらだけど!」
「……?」
「一緒に眠らないか?」
何を言っているんだこいつは、と俺は思わず半眼になった。
だから魔族は、ベッドを使わないと言っただろうが!
「一度でいいからソーダを腕枕してみたいんだ……!」
「え」
「頼む! 一生のお願いだ!」
「は?」
唖然とした俺は、今度は勇者を凝視した。勇者はモジモジしている。
俺は改めて勇者の言葉を咀嚼し……目を瞠った。
眠らないかって、え?
「させてくれないと、俺うっかり魔力を全力で解放しちゃうかもしれない……」
「一緒に眠らせてください」
思わず敬語で俺は言った。また脅しかよ……!
しかし全力で魔力を解放されたりしちゃったら、大変なことになるのだ。
悪くすれば俺は消し飛ぶだろう。
そうじゃなければ、膨大な魔力にあてられて理性が飛ぶと思う。
魔族にとって、魔力は食べ物なのだ。なおいえば、食事と性行為もあまりかわらない。どちらも魔力を摂取する。俺は性行為の方は経験がないが……。どちらにしろ、その本能のタガが外れるから、おかしくなってしまうという話だ。そんなのは願い下げだ。
こうして、その日俺は、勇者の腕枕で眠ることになった。
横たわって眠ったのは、人生で初めてである。
それでも案外よく眠れた。いろいろあって疲れていたからだとは思うが……。
翌朝目を覚ますと、じっと勇者が俺を見ていた。まだぼんやりとする頭で見返すと、勇者が唾を飲んだのがわかった。
「悪い、キスしたい」
「え?」
俺が首を傾げた瞬間、後頭部に手が回った。そして唇に触れるだけのキスをされた。一気に俺は覚醒した。え。今、え。
勇者は満面の笑みである。
「おはようのチュウ、クリア!」
何が「クリア! 」だ。ああ……俺のファーストキスよ、グッバイ!
俺は思わず勇者を睨めつけた。
すると勇者が俺のエメラルド色の髪を撫でた。
俺は髪も目もこの色だ。
「次の目標は何にしようかな……!」
勇者が情けないような顔をして俺を見ている。何ということだ。
俺の気持ちを尊重するとか言っていたが嘘か?
「それにしても俺の理性はよく持ったな。何度手を出しかけたか……! ドロドロのグチャグチャにしたくてもうしかたが……あ、や、いや、なんでもない、なんでもないから!」
その時勇者が不穏なことをつぶやいた。
あ、はい。そ、尊重してくれていたんですね……!
そんなこんなで、旅の一日目の朝は終わったのだった。