【10】
その日から、毎朝ライスが三十分ほど廊下を歩く姿が目撃された。
付き人達が遠くから見守っていたが、ひっそりとである。その歩行は、朝の八時前には終わり、バイルが出勤して顔を出す時には、ライスはベッドにいる。寝起きのような顔をしている。バイルは何も言わないが、きちんと歩いている事は知っている。
ライスが寝坊したのは、三週間目の事だった。付き人達は、疲れているのかなと思っていた。その朝顔を出したバイルが、ライスを静かに揺り起こした。
「っ……おはようございます」
「おはよう」
「……今何時ですか?」
「九時前だ」
「……歩いてきます」
「今日は休め」
バイルの声に、ライスが不思議そうな顔をしながら体を起こした。
「どうしてですか?」
「どうしてだと思う?」
「――? 分からないから聞いたんですが……」
「質問を変える。お前、どうして寝過ごしたんだ?」
「人間誰しも寝坊はあります」
「さらに変える。お前今、自分の熱が何度くらいだと思う?」
「……さぁ。八度くらいですか?」
「そうだ。魔力体温計が八度二分となってる。お前の平熱は、六度丁度だ。どちらかといえば低い」
「ちょっと熱があるくらいで、歩くのを休めなんて……」
「ちょっと?」
「ええ」
「高熱だ、馬鹿。お前は風邪だ! 寝ていろ!」
ライスの体をベッドに横たえ、バイルが深々と溜息をついた。
こうしてこの日は、仕事も休めと言われ、ライスは寝て過ごした。
その翌日もである。思わずライスは、バイルに言った。
「先生、過保護すぎませんか?」
するとバイルが目を細めた。
「お前ってさ」
そしてベッドサイドに歩み寄り、腕を組んだ。
「どうして自分を大事にしないんだ?」
「――え?」
「心臓を人にあげようとしたり、最後まで封印現場に残ろうとしたり、怪我をしてもガムテープで、風邪をひいても平気だと言い張って」
「……」
「怪我だって悪化すれば死ぬし、風邪だって甘く見たら命に関わる」
「……」
「お前、死んでも良いのか? 俺は軽々しく『死』と口に出すのは嫌いだ。でも、聞かせて欲しい。すっと聞きたかったんだ」
「……率先して死にたいと思った事なんて一度もありませんよ。ただ、結果的にそうなっても仕方がないという場合があるだけで」
「お前は、自分が要らないのか?」
「要らないって……――まぁ、より大多数の国民の命を救うためであったり、例えば王家の方の命をお守りするためであれば、俺の命は要らないと表現する事は出来ますよ」
その言葉にバイルが眉を顰めた。
「そんなのはダメだ」
「そう言われましても……」
「要らないんなら俺に寄越せ」
「え?」
「俺にくれ」
バイルはそう言って、ライスの額に手を置いた。熱がまだある。
「早く良くなれよ」
そう告げて、バイルは帰った。
残されたライスは――……天井をぼんやりと見上げる。
言葉の意味を考えていた。バイルが寄越せと言ったのだが、意味が分からない――そう思うのだが、何故なのか頬が熱い。それは微熱のせいではない。
一ヶ月が経った頃、ライスの退院が決まった。
「お世話になりました」
ライスが言い、付き人達や、迎えに来たレイスも頭を下げた。
「良くなって良かったな」
バイルが唇の端を持ち上げると、穏やかにライスが微笑する。あんまりにもその笑顔が綺麗に思えて、バイルは胸がドクンと鳴った気がした。
「今度改めてお礼をさせて頂きますね」
「――治療は俺の仕事だ。そう思うなら、給料を増やしてくれ」
「検討しておきます」
「前向きに頼むぞ。くれぐれもマイナス方向はやめろ」
そんなやりとりをしてから、バイルは見送った。
――呆気ないものである。
以後、特別会う機会は無くなった。考えてみると、働き出して十三年間、顔を合わせる機会が元々無かったのだ。魔獣関連が、例外だっただけである。
研究室の窓を開け、夏の風を室内に取り込みながら、バイルは太陽に目を細めた。明るい日差しは、嫌いではない。今年も、もうすぐ夏祭りの時期がやって来る。
「誘ってみれば?」
グレンがソファから声をかけた。バイルは振り返りながら煙草を銜える。カロリー用の煙草だ。誰をかとは聞かない。思いつくのはライスの事だけだからだ。
「いいや」
「けど――」
「それまで待てない」
バイルが言うと、グレンが吹き出した。グレンの左手には結婚指輪が光っている。
今まで一度も羨ましいと感じた事は無かったが、バイルはこの時、少しだけ羨ましくなった。家に帰ればいつでも好きな相手が出てくるというのは、羨ましい現実だ。
「まず電話をしてみる」
「いってらっしゃい」
貴重な昼休憩を有効活用すると決めて、バイルは魔導具電話の前に向かった。公衆電話の周囲は空いている。連絡先は知っていた。レイスに聞いたのだ。何気ない感じを装い、本当は緊張しつつ聞いた。すると想い人のよく出来た弟は、兄の休日情報と共に連絡先を教えてくれたのである。相変わらず、現場においてレイスとバイルは仲良くは無かったが、最近プライベートでは少し距離が縮まった。
『もしもし?』
少しすると、受話器越しにライスの声が聞こえた。
「もしもし」
『っ、え? バイル先生?』
「よく分かったな」
『――ええ、まぁ、何となく声のトーンで』
「どんなトーンだ?」
『怠そうというか』
「へぇ」
『何か御用ですか?』
「お前に会いたくて」
『っ』
「顔、出せよ」
素直にそう言って、バイルは答えを待った。すると受話器からしばし無言が響いてきた。それから、静かにライスが言った。
『――それでは、今夜伺います。何時までお仕事ですか?』
「今日は早番だから、六時には帰れる」
救命救急の新体制で、早番というものが出来たのだ。それを伝えると、ライスが頷いた気配がした。
『では、塔に伺うより、直接お店の方が良いでしょうか』
「いや、俺の家に来れば?」
『え?』
「お前の選ぶ店、俺としては派手すぎて……かと言って俺が行くような店にいるお前は目立ち過ぎると思う。今度連れて行ってやるけど、折角久しぶりに会うなら、俺はゆっくりしたい」
『……そうですか。では、お邪魔させて頂きます』
「俺の家、分かるか?」
『魔術医療塔の名簿から調べられますので』
「なるほど。じゃ、待ってる」
こうして電話を切って、バイルは満足そうに笑った。研究室に戻ると、バイルはグレンを見た。
「その顔は、良い結果だったみたいだけど、いつ会うの?」
「今日になった」
「レイス先生情報だと、明日休みなんだっけ?」
「らしいな」
ニコニコしているバイルを、優しい顔でグレンが眺めていた。
仕事を終えて家に戻ったバイルは、自室を見渡した。魔術医療塔で働き出した頃から暮らしているアパートの一室だ。職場宿舍である。殺風景だなと思いながら、軽く掃除をしてみた。ベッドを整えたのは、無意識だった。窓ふきと同じ、掃除の一環である。普段は気にした事が無いだけで。
何時に来るのだろうかと時計を見たのは、夜七時だった。その後、魔導具冷蔵庫の中を見て、見事に缶麦酒ばかりである事に気づいた。白ワインのような洒落たものは無い。果たしてライスは麦酒を飲むのだろうか? 考えてみるが、そもそも食事をするのかも分からない。
それから二十分程した時、呼び鈴が鳴った。
返事をするとライスの声が帰ってきたので、扉を開ける。
すると――……。
「先生、会いたかったです!」
……――首にライスが抱きついて来たので、両腕でバイルは抱きとめた。