【五】初雪
気づくと僕は、知らないお部屋にいた。木のボコボコとした天井を見上げながら体を起こすと、ポトリと濡れたタオルが額から落ちた。久方ぶりにぐっすりと眠った気がする。
「目が覚めたか?」
声の方を見ると、そこには膝を組んで新聞を読んでいるジュードがいた。こちらに視線を一度向けて、またすぐに新聞を彼は見た。
「ここは?」
「俺が借りてる街の宿だ。短期じゃなく、住まわせてもらってる」
「……僕、どうしてここに?」
「覚えてないか? 倒れたんだ」
その言葉で、暑い日差しを僕は思い出した。新聞のことも――何より師匠の事を。
「新聞を見せて。師匠は? 師匠の事が分かるの?」
「――ほら」
すると僕に向かって、ジュードが折りたたんでから新聞を投げた。両手で受け取る。それを広げて――僕は目を見開いた。一面の一番大きな写真に、師匠が写っていたからだ。
「え?」
訳が分からず、一生懸命記事を読む。
――十年前の第一王子殿下暗殺事件の実行犯が自首しました。供述によると、依頼主は王弟殿下との事で、本日付で騎士団は王弟殿下の身柄を拘束し、事情を聴取する事になっています。現在は、第一王位継承権を保持する、第一王子殿下のご長男の行方について、実行犯への尋問が行われています。存命中との捜査関係者からの情報が入っています。これにより、次期国王陛下に関しては――
難しくて、僕にはよく分からなかった。
「どういう事? 師匠は、師匠は、どこにいるの?」
「王都だ。自首したんだよ。てっきりお前には、事情を話して出頭したと思っていたんだけどな」
「自首? どうして?」
「王弟殿下に雇われた殺し屋――と、名乗り出たそうだ。あいつなりに、どこかで生存しているらしい、次期国王陛下の事を思って、閉ざしていた口を開いたんだろう。暗殺稼業を生業にしている上では、ありえない事だけどな」
「暗殺……っ、え? 師匠が、第一王子殿下を、こ、殺したの?」
信じられない気持ちで僕が聞くと、じっとジュードが僕を見た。
「そうだ」
よく通る声だった。その言葉は簡潔だったが、逆に真実味があった。
だけど、だけどだ。僕には信じられない。
「嘘だよ。師匠は、あんなに優しいんだから、人を殺したりしない」
「依頼を受けて人を殺すのが、あいつの仕事だ。金が入用だったらしい。理由は知らない」
「違うよ! 師匠は、コロシヤっていう冒険者のお仕事をしてるんだ」
「――殺し屋っていうのは、だ。人を殺す仕事だ」
「っ」
衝撃を受けた僕は、新聞を取り落とした。
「ショックか?」
「……け、けど、師匠は師匠だ。僕、迎えに行かないと。それに、この記事は、間違いかも知れないし、人違いかも知れない。だってどこにも、『ミセウス』っていう師匠の名前は出てきてない。よく似てる人かも知れない」
僕は一人頷き、ベッドから降りた。
「何処へ行くんだ?」
「街の入口に行くんだよ」
「――取り敢えず、今日は倒れたんだから、家に帰れ。仮にミセウスが帰ってきたとしたら、お前の具合が悪いほうが心を痛めるだろう。迎えが無かったことよりな」
「……」
「受け入れられないのは分かる。でもな、倒れたばかりなんだから、今日は帰れ。送る」
ジュードがそう言って、立ち上がった。僕は俯いて、小さく頷いた。
胸がざわざわする。
家に帰ると、やはり明かりは消えていて、師匠が帰ってきた様子は無い。
入口でジュードと別れてから、僕は食料庫へと向かった。
嫌な腐臭がする。果物と野菜がダメになってしまったらしい。お肉も、お魚も。
あるいは干からびていた。他に食べられそうなものは、もうとうに底をついている。
僕はいつも師匠が魔術で整頓してくれるのに任せていたから、食料庫のお掃除の仕方を知らない。座り込んで、僕は俯いた。後から後から涙が溢れてくる。ぽたりと膝の上にのせた手の甲に、涙が落ちた。僕には、お掃除なんてできない。師匠がいないと僕はダメだ。
――だけど。
ここで全部諦めたら、師匠は悲しむだろう。師匠を迎えるためには、きちんとお掃除をしておかなければならない。僕は……師匠を信じることにした。
翌日、庭を見たら、ハーブ達もいくつかが枯れ始めていた。僕は必死で水をあげながら、師匠が帰ってくるまで枯れませんようにと祈る。家の中へと引き返して、師匠の書庫の扉を開けた。そして難しかったが、植物の育て方の本を紐解いた。倉庫に行って肥料を探したりした。僕は毎朝、食事をゴミ箱に捨てる代わりに、お掃除と植物の手入れをするようになった。
そして、日が少し高くなってから、街の入口へと向かうようになった。
その分、遅くまでそこにいる。
師匠は帰ってこない。僕は新聞を毎日読もうとしたのだけれど、お金を払っていた師匠がいなくなってしまったから、いつしか新聞は届かなくなった。季節は、もう秋だ。肌寒い。植物達も、僕の精一杯の努力の甲斐無く、皆枯れてしまった。師匠に合わせる顔がない。木の幹に背を預けながら、僕は目の下をこすった。眠らず待っているから、クマがひどい。食料庫も、もう空っぽで、僅かなパスタと干し肉があるだけだ。あれらが尽きたら、僕が食べるものはもうゼロだ。師匠の偉大さが分かる。早く帰ってきて欲しい。
その内に、初雪が降った。
丁度そんな初冬の朝、僕を助けてくれた次の日から、冒険者の仕事で遠征に出かけていたジュードが帰還した。そして、雪が頭の上に積もっていた僕を見て、ジュードが目を見開いた。
「お前……まさか、まだ待ってたのか?」
僕は頷いた。師匠が帰ってくると、僕は信じているのだ。
「言っただろう? あいつは帰ってこないって」
「きっと帰ってくるよ」
「レム、現実を見ろ。第一王子殿下の殺害の実行犯だ。極刑だ」
「――え?」
「あいつは……死んだのと同じなんだよ、もう。帰っては来ない。遺体すらも、な」
その言葉に、僕は目を見開いた。舞い散る白い雪を見ながら、理解できなくて、理解したくなくて、ふるふると首を振る。
「帰ってくるよ!」
僕は叫んでみたのだが、その声には、涙が混じってしまった。
するとジュードが僕を抱き寄せて、深々と溜息を吐いた。温かい。僕はしばらくの間、ジュードの腕の中で涙を流した。人のぬくもりを感じるのは、随分と久しぶりの事だった。