【六】誕生日







 そのまま、ジュードは、僕を連れて帰った。師匠と僕の家へと訪れた彼は、僕を中へと促すと、片目を細くした。

「座ってろ」

 そして僕を椅子に座らせると、真っ直ぐに食料庫へと向かった。舌打ちが聞こえてくる。その後慌ただしく戻ってきたジュードは、僕の双肩に手を置くと、苦しそうな顔をした。

「いつから食べていないんだ?」
「……毎晩、パスタを茹でているよ。師匠がいつ帰ってきても良いように、作ってるよ」

 必死で僕は声を紡いだ。日増しに、乾燥パスタは減っていくから、作る事が出来る量も少なくなっているけれど、きっと師匠は許してくれると思う。師匠は優しいのだから。

「もうひと握り分しか、無いパスタを? それが無くなったら、どうするつもりだったんだ?」
「す、少しずつ食べれば良いんだよ!」
「――痩せたな」
「僕は元気だよ!」
「強がるな。そして、現実を見ろ」

 ジュードの瞳は険しい。じっと僕を覗き込んだジュードは、何も言えなくなった僕を暫くの間、そうして見ていた。それから顔を背ける。黒い髪が揺れていた。

「どこもかしこも、朽ち果てたこの家で、ずっと一人で待っていたのか?」
「きちんと街の入口で待っていたんだよ!」

 僕が叫ぶように告げると、ジュードが息を詰めた。そして悲痛な面持ちになった。僕へと向き直った彼は、とても辛そうな顔をしている。可哀想なものを見る目をしていた。だけど、僕は、可哀想なんかじゃない。絶対に、師匠は帰ってくる。僕は、そう信じているのだ。

「本当に、帰ってくると信じているのか?」

 師匠が帰ってこない――それは、本当は、薄々僕だって感じている。何より目の前にいるジュードが、それを教えてくれたからだ。けれどあの日から、僕の中の時計は止まってしまったようになって、動かないのだ。僕には、師匠を待つ以外に、何も出来る事は無い。師匠が僕の全てだからだ。だから僕は、今日も自分に言い聞かせる。

「師匠は帰ってくるよ!」

 ポロポロと、僕の頬が濡れていく。凍えきっていた体に、涙の温度は熱い。

「師匠……師匠……っ」

 気づくと、僕は声を上げて泣いていた。嗚咽を堪えきれない。一度泣いてしまうと、堰を切ったように涙が溢れてくる。

「師匠は……帰ってくるよ……帰ってくる!」

 僕が泣きながら声を上げると、ジュードが僕を抱きしめた。力強い腕が僕の背にまわり、彼は僕の後頭部を撫でるように叩く。僕は、今度は唇を噛んで、声をこらえた。涙もこらえようと瞼を閉じる。けれどそれは逆効果となり、涙が余計にこぼれた。

「今夜は、俺の宿に来い。薪も炭も油も切れてるこの家に、一人にはしておけない。寧ろ、今まで、この大雪の中、どうしていたんだ? 寒かっただろう?」

 ジュードはそう言うと、僕を支えて立ち上がらせた。その言葉に、僕は指先が震えている事を自覚した。寒かったのは事実だ。だけどそれは、体がじゃない。師匠が帰ってこなくて、心に冷たいものが広がっていただけだ。

「ほら」

 ジュードが僕に手を差し出した。そしてギュッと握ると、歩き出す。繋いだ手の温もりに、僕は細く長く吐息した。師匠と毎日、並んで、こうして手を繋いで帰ってきた事を思い出す。だけど隣にいるのは、師匠じゃない。

 そのまま彼は、降りしきる雪の中、僕を連れて、彼が住む宿へと向かった。道中は無言で、終始僕は俯いていた。これでは、師匠が帰ってきても、一番には会えない。けれど強く引かれた手を、僕は振り払えない。蒙昧とした意識が、僕に考える事を拒否させる。

「寝台に座っていてくれ」

 到着した宿の部屋で、ジュードが薬缶を火にかけながら言った。素直に従い、僕は目をこする。暖かかった。部屋全体が、暖かいのだ。僕は、昨年まで、師匠の家で確かに暖炉を見ていたはずなのに、この暖かさを忘れていた。それが嫌だった。全ての温度が鬱陶しい。師匠との記憶が塗りつぶされていくようで苦しい。

「飲め」

 ジュードが僕にココアを差し出した。彼自身は、珈琲を手にしている。それから、彼は椅子に座り、長い膝を組んで、僕を見た。テーブルの上には、帰宅時に彼が受け取った大陸新聞がある。ジュードはそれを一瞥すると、改めて僕を見た。

「今日は、失踪中の第一王子殿下の御子――正式に王太子と認定され、捜索されているレミリィアス殿下の誕生日らしい」

 そう言うと、彼は茶器を傾けた。そして僅かに両目を細くした。

「レム、お前も確か、今日が誕生日だったな?」
「……そうだったかな? 今日は、何日?」
「雪花の月の三日だ」
「うん。どうしてジュードは、僕の誕生日を知ってるの?」
「ミセウスが、毎年、この日は朝から機嫌が良かったからだ。街にあいつが出てくるのは、年に一度と言って良い。決まってこの日だった。だから何の日なのか、いつか聞いて、そして――お前の誕生日だと教わった事がある」

 それからジュードは嘆息した。茶器をテーブルに置くと、腕を組む。

「確か、レムは孤児だったな?」
「うん。師匠がそう言っていたよ。師匠は嘘をつかないんだ。だから、帰ってくる。絶対帰ってくる」
「――何故、孤児の誕生日をあいつは知っていたんだ?」
「え?」
「正確な年齢も分かっているんだったな? 今年で十四――いいや、今日で十五歳。どこかにいらっしゃる王太子殿下と同一であり、王太子殿下の誕生日は大昔の新聞の一面を大きく飾った事がある」

 僕は、何を言われているのか、理解できなかった。混乱しながら、何度か瞬きをする。ジュードは顎に手を添えると、再び僕を見据えた。

「この大陸において、レミリィアスという名の愛称は、通常レムだ」
「それが、何?」
「お前の父親を殺し、お前を連れ去った。それがミセウスの側から見た真実である可能性」
「……?」
「第一王子殿下がお前の父で、お前こそが、レミリィアス王太子殿下」
「……え?」
「全ての辻褄が合うな。お前の事を想って、ミセウスは自首したんだろう」

 思わず僕は、目を見開いた。僕の事を、想って……?

「どうして?」
「それは、次期国王の権利をお前が持っているからだ」
「そんなの要らないよ。僕の事を想うなら、帰ってきてくれなきゃ変だよ」
「明日、宮殿へとお前を連れて行く」
「僕はこの街で師匠を待ってる! 待っていないとダメなんだよ!」

 僕は立ち上がった。帰らなければ。やはり、帰らなければ。ここにいたら、まるで師匠を喪ったように感じて、心が辛くなってしまう。僕にとっての全ては、あの家で、師匠だ。

「待て」

 ジュードは、扉の前に立った僕の手首を掴んだ。振り返ると彼もまた立ち上がっていて、陰鬱そうな顔をしていた。

「ミセウスは、まだ処刑されていない。これは事実だ。俺の友人の騎士から聞いた」
「師匠は生きてる……死ぬはずがないよ……」

 そう呟きつつも、僕はその情報に、安堵で気が抜けそうになった。全身から力が抜けていく。気づくと倒れそうになっていた。座り込もうとした僕を、ジュードが抱きとめる。

「一つだけ、ミセウスを助けられる方法があるかもしれない」
「本当? 本当に? そうしたら、師匠は帰ってくる?」
「――ああ。ミセウスは帰還が許されるかもしれない」
「僕、なんでもする。教えて!」
「恩赦だ」
「オンシャ?」
「お前が王宮に行き、王太子であると名乗り出れば良い。そして、ミセウスを育ての親だとして、恩赦とするんだ。周囲を、そうするように説得するんだ」

 それを聞いて、僕は目を見開いた。

 そして――いつか、師匠が話していた事を思い出した。久しぶりに、師匠の笑顔を思い出した。もしも僕が、『王族だったら』というようなお話をしていたんだったと思う。あの日は、僕もそんな空想に浸ったんだっけ。あの幸せな日々からは、今の状況なんて全く想像できなかった。

「だけど僕は、殿下という人じゃないかもしれない」
「だが、可能性はある。だから、『かもしれない』と伝えたんだ。宮殿には、王族かを判定する魔法球が存在するそうだ。それに触れれば、レムが王太子に認定されているレミリィアス殿下か否かは、すぐに判明する」

 この日。
 僕はジュードに説得されて、静かに寝台で目を伏せた。