5:勇者と、月光
僕はその晩、吹き抜けの二階に立ち、壁の側面を占める窓硝子から、夜空を眺めていた。
真っ白な巨大な月が見える。
僕を見て居るだなんて思うのは、自意識過剰なんだろうと分かっていた。
だけどその月が、僕を嘲笑っている気がして、僕は気がつくと涙をこぼしていた。
亡くなってしまったみんなのことを思う。
静かに硝子に手を添え、僕はきつく目を伏せた。
温水がボロボロと頬を伝っていく。
「――泣いているのか?」
そこへ不意に声がかかったから、僕は慌てて、涙をぬぐった。
「別に」
「……泣いていたんだろ」
歩み寄ってきた勇者が、急に僕の頬へと触れた。
「涙の跡が付いてる」
「……っ」
「俺は、お前を苦しめたんだな」
ポツリと勇者が言った。その通りだと言って、糾弾して、泣き叫び怒れば、僕は気が楽になるのだろうか。そんな夢想をしては見たものの、出来るはずがなかった。
「許してはもらえないよな」
「別に、ッ、僕に許されようが許されまいが、関係ないだろ」
「――俺は、今、俺の家族を殺した聖都の奴らを許せないでいる。彼等が事を起こす契機となったお前のことも、だ。昼の話を聞いて、そう思った。我ながら自分勝手だ」
「許す必要なんて無いんだよ。僕らは慈愛に満ちた神様でも何でもないんだから」
一応種族名こそ魔神の僕だけれど、そんなことは関係がなかった。
「魔王」
「何?」
「それでも今、確かにお前に泣いて欲しくないと思うんだ。嫌、泣いても良い。だけど、側にいさせてくれ」
勇者はそう言うと、急に僕を抱きしめた。
その腕の感触が温かくて、僕は思わず再び涙をこぼしてしまう。
「な、んで」
「分からない。ただ、放っておけないと思った。俺がやったことなのにな」
「っ、償いのつもり? いらないよ、そんなの」
「違う。ただ――側にいたいと思っただけだ」
僕は勇者の体を拒絶しようと思ったはずだった。だけど。その温もりが優しすぎて、気がつくと彼の背中に手を回して、縋り付くように泣いていた。いつからこんなに泣き虫になってしまったのだろう。
「これまでにも、お前は、他の勇者に倒されてきたんだよな?」
「……そうだね。生きているけど。笑っちゃうよね、僕とロビンだけ生きているんだ。まぁロビンは何度も死にかけたけどさ」
「泣きながら笑うな――そのたびに、看取ってきたのか?」
「そうだよ。僕にはそれしかできなかった。本当にふがいない」
「昼間、お前は、和解するなどの術があると言ったな。何故そうしなかった?」
「――……さぁ。僕に、それだけの力がなかったって事だと思うよ」
声にどうしても涙が混じってしまったのだけれど、僕は必死に笑おうと努力した。
こんな姿、誰にも見られたくはなかった。
「しようとしたことはあるのか?」
「どうかな」
「あるんだな」
勇者はそう言うと、急に両手で僕の頬を支えた。強制的に上を向かせられた僕は、もう涙を堪えられなくて、ダラダラとこぼれてくるのをどうすることも出来なくなる。
「一人で――いや、そうか、ロビンという魔族が居るのか……二人で、か。頑張ってきたんだな」
「……っ、あのさ」
「なんだ?」
「頑張るってさ、無意味なんだよ。知ってた? 結果を出せなかったら、何の意味もないんだよ」
「……そんなこと、無い」
「あるんだよ、あるんだ。君よりずっと長い時間を僕は生きてきた。だから分かる。亀の甲より年の功って言うだろ」
「だけど――……俺には、伝わった」
「なっ」
「だから。そんなことを言うな。俺は恨んでばかりの人間だ。お前を見ていると、自分が小さく見える。お前こそ、世界を恨みたくてしかたがないはずだと、そんな気がする」
「別に僕は――っ」
その時不意に柔らかな感触が降ってきたモノだから、僕は目を見開いた。
気がつけば端正な勇者の顔が、正面にあった。
瞬きをする間に、舌が口腔へと入ってくる。
「ぁ」
思わず声混じりの吐息を漏らすと、一度唇を離してから、角度を変えて再び勇者に口を貪られた。僕は、こんな経験などあまり無かったから、ただ肩で息をするしかない。
「な、なにを……」
「悪い」
「……」
「お前のことがどうしようもなく儚い雪みたいに見えたんだ。いつか、消えてしまうような」
「そんな、何を馬鹿なことを言って――」
僕が声を上げると、勇者の腕に再び力がこもり、抱き寄せられた。
「……お前が居なかったら、俺は何も知らないままだった。何も知らないまま、お前を手にかけるところだった」
「それ、が。勇者の役目だよ」
「……そうかもしれない」
「全部僕らの策略かも知れないよ? 君達の決意を揺るがすための」
「お前はそんなことをしない。これまで騙されて生きていた俺でも、それくらいは、そう思った自分の心くらいは、信じたいんだ」
「勇者……」
「オニキスだ」
「……」
「魔王。お前の名前は?」
「アルトだよ。アルト=ライラック」
「アルト、か」
「うん」
「良い名前だな。ライラックも。ライラックは、花の名前だよな」
「そうだね」
本当は僕の名前は、日本人の漢字の名前なのだが、この世界では発音のせいなのかそう呼ばれている。
「オニキスは、宝石の名前だよね」
「ああ。両親の結婚指輪にはまっていたモノが、オニキスだったらしい」
「そうなんだ」
そんなやりとりをしてから、僕はオニキスの胸を押した。
「そろそろ離して」
「――嫌だと言ったら、どうする?」
「どうって……」
「俺を殺すか?」
「そんな事するはずがないだろ」
「だろうな」
僕らのそうしたやりとりを、ただ月だけが見守っているようだった。