19:僕のまま、とは



朝の日差しの中、僕は目を覚ました。
白いレースのカーテンから、光が漏れてくる。僕は後何度、朝を迎えるのだろう。上半身を起こして窓の外を見れば、穏やかな初夏の光に溢れていた。緑の木々には、小鳥が止まっている。この土地の風景は、美しい。そう思うくらいの感性は、僕にも残っている。
見慣れた城の窓とは異なる外。
ぼんやりとそれを見据えていると、扉をノックされ、振り向いた時には勇者がそこに立っていた。
「起きていたのか」
「うん」
「朝食だ。食べたら、すぐに発つ」
簡潔にそれだけ言うと、オニキスは部屋を出て行った。
階段の軋む音が響いてくる。
魔神である僕には、食事は必要ないという暇もなかった。今僕はお金には困っていないけれど、旅をしていくと言うことは、それなりに節制していかなければならないだろうから、僕の分の食費は削った方が良いんじゃないかと思う。旅をしたことがないからよく分からないけど。
魔術で身支度を調えてから、僕は階下にある食堂へと向かった。
机に突っ伏して魔術師のフランが、半分寝ていた。
神官のルイは、すっきりした顔をしている。
「おはようございます、アルトさん」
昨日までとはうって変わって、何かが吹っ切れたのか、ルイが明るく挨拶してくれた。
「はよ」
フランが目を擦りながら言う。
「あ、フランは朝に弱いんですよ。夜型だから」
そんな説明を聞きながら、僕はフードを被りなおし、静かに告げる。
「おはよう」
朝の挨拶は、魔族も人間も変わらないのだなと、一つ学んだ気がした。恐らくは、日本から召喚された勇者が、過去に広めたのだろうと思う。
「パンが柔らかいな」
既に朝食を食べ始めていたオニキスが、ポツリと呟いた。
確かに僕も最初に、魔王としてこの土地へやってきた時は、パンが固くて吃驚した覚えがある。
「それにこのジャム、凄く美味しい。それに、バター? チーズ? 旅に出る前に買いたいなぁ」
ルイがうっとりしたように呟いた。
僕はそれらを自然なものとして考えていたから、嘆息した。旅をすると言うのは、食生活が大変なのだろう。
「スープも美味い、なんだコレ」
漸く目を覚ました様子で、フランがスプーンを手に取った。
僕はぼんやりと彼等の食事風景を眺める。
「城の食事は兎も角、宿でもこのクオリティなのか」
オニキスの言葉に、僕は何度か瞬きをしながら俯いた。
昔から、決して昔からそうだったはずじゃない。だけど僕はもう、いつの間にか、コレを自然なものとして考えるようになっていた。多分そうなるまでの間には、色々なことがあったのだと思う。なのに思い出せない自分が悲しかった。僕が忘れてしまったのであれば、それはそこに生きそこで死んでいったみんなのことも忘れてしまったと言うことだからだ。
「――食べないのか?」
オニキスに言われて、僕は顔を上げた。
≪ソドム≫を発つ前最後の食事なのだからと、僕はスプーンを動かすことにした。
優しい味がした気がする。
「美味しい……」
食事を味わって食べたのは何時以来だろうと考えて、昨夜だって味わったではないかと苦笑する。最近の僕は、すぐに忘れてしまうのかも知れない。忘れることになれてしまったのかも知れない。

それから僕たちは旅に出た。

僕以外の三人は、大きな荷物を背負っている。
僕だけが、軽い横かけ鞄だ。何も入っていないのだから軽くて当然だ。魔術で収納してあるのだから。ロビンがしまってくれたものだから、何が入っているのかはいまいち分からない。
鬱蒼と茂る森の獣道を歩きながら、空を見上げる。
高い木々の葉が、日の光を遮っているから、森の中は青く見えた。
所々に、兎によく似た魔獣がいる。
小さい緑色の生物だ。
更に周囲を見れば、鹿型や猿型、狼型、熊型や鳥型といった、様々な魔獣達がいた。
「――来る時は、一匹も出なかったんだけどな」
オニキスが剣を抜く。
「待って」
僕は反射的にそれを止めていた。
「凶暴な≪グリーンウルフ≫がいるんだぞ?」
後ろでは、フランが眉を顰めていた。
ルイも十字架を握りしめている。
それには構わず、一歩前へと出た僕は、屈んで手を伸ばした。
「おいで」
僕がそう言うと、魔獣達がゆっくりと歩み寄ってきた。
そして僕の肩に止まったり、掌を舐めてくれたり、周囲をクルクル回ったりしてくれた。
彼等は言葉を喋ることは出来ないけれど、その魔力の色で、どんな気持ちなのか僕には分かる。少なくともここにいる魔獣達には、敵意は無かった。ローブのフードを取る。
「見送りに来てくれたんだ――多分」
僕の言葉に、フランとルイが顔を見合わせている。
オニキスは、静かに剣をしまった。
「別れが済んだら、さっさと行くぞ」
「有難う――みんなも、来てくれて有難う。僕は大丈夫」
笑ってみせると、頷くようにして、魔獣達はそれぞれ帰って行った。
それを見送ってから、僕はオニキスを見上げた。
「怖がらせてごめん」
「別に。魔王の側にいる以上の恐怖なんて有るのか? 今は一切怖くないけどな」
それもそうかと思い、僕は思わず笑ってしまった。
すると三人が僕をじっと見る。
なんだか気恥ずかしくなって、僕はフードを深々と被り直した。
「うん、被ってて」
ルイの言葉に、今度はフランが頷いた。
「思わず見とれた。それも二回も。動物と戯れているところと、笑ってるところ」
「本当に? だとしたら人目につかない顔になる魔術をかけた方が良いかな?」
僕が言うと、何故なのかオニキスが、僕の頭をフード越しに二度叩いた。
「お前はお前のままで良い」
その言葉が、何故なのか、胸に染みいった。
――僕のままで良い?
これまで魔王であろうと努めてきた僕にとって、僕のアイデンティティは間違いなく魔王であることだった。だけど魔王じゃなくなった今は? アルトとして、僕にはどんなありのままがあるんだろう? 旅をしていったら、その解答は見つかるのだろうか。仮に見つかるとして、それは僕が勇者に殺されるのと、どちらが早いのだろう。
きっと長い旅になるだろうから、僕は、僕のまま、と言うことを探してみようと思った。

これが初めて僕が持った目的だった。