24:壁
暫く見ない間に、人間の土地は大分変化していた。
以前は地球の欧州の中世レベルだったと思う(中世の事を僕はあんまり知らないけれど)。
電気や蒸気機関がある様子は無かったが、代わりに≪リボルト≫という魔法鉱物から動力を得て、電球のようなものや、サイドライトのようなものが、各部屋についていた。≪ソドム≫ではまだ、燭台か、それこそ各個人が魔術で灯りを採っているから、品だけ見たらこちらの方が優れているかも知れない。
隣に座った勇者が、机の上に剣を置いた。
魔王が隣のベッドにいるというのに、随分と無防備だと思う。
思いながら、僕はオニキスの剣を見据えた。
伝説の剣だと聞いているが、柄の部分にそれこそ≪リボルト≫がはめ込まれているように見えたのだ。
「どうかしたか?」
オニキスに問われたので、僕は率直に聞いてみる事にした。
「その剣、魔法鉱物で制御しているの?」
「恐らくは、そうだと思う。ただ、純粋な結晶が中に埋め込まれているらしいんだ。それが強い力を持つから、堪えられる人間じゃないと抜けないと聞いた」
なるほどなと僕は納得した。
それから、フランに借りている杖を、その剣の隣に置く。
そしてローブを脱いでから、寝台に横になった。
「灯りを消しても良いか?」
「うん」
僕が頷くと、静かにオニキスが部屋を暗くした。だから窓から覗く月明かりだけになった。
布団を掛けて、僕は勇者と反対側――壁の方を向いた。
別段それに意味はなかったのだけれど、ただ何となく、一人ではない夜が久しぶりすぎて、少しだけ緊張していたのかも知れない。魔王城では勿論、人間街の宿屋でだって一人部屋だったし、野宿はまた別だ。
「――アルト」
その時、オニキスに名前を呼ばれた。
答えるべきか、寝たふりをするべきか、僕は少しだけ迷った。
「何?」
結局答えながら、布団を握りしめる。
「俺は、まだ上手く片付ける事が出来ていないんだ。本当は」
オニキスの声は、呟くようなものだった。
それはそうだろうと思う。
僕だって、数え切れないほど、やりきれない事がこれまでにあった。時間が解決してくれるなんて、嘘だ。何一つ、僕だって片付けられないでいる。だけど。
「笑うしかないんだよ。笑っているしかないんだ」
静かに告げた。多分それは、自分自身に言い聞かせる言葉でもあって。だって、だってだ。他に僕に出来る事なんて、何も、もう無いんだ。
「どうしてお前は、笑っていられるんだ?」
「生きているからかな」
「……どういう意味か、聴いても良いか?」
「それが、生きている者の定めというか、唯一出来る事って言うのかな。僕はそんな風に思うんだ」
流石に、僕が笑って生きてくれればそれで良いなんて思って、みんなが死んでいったとは思わないけれど。ただそれでも、みんなの分も、せめて笑って、この世界で、終わりを迎えるまで僕は生き続けるのだと思う。
「アルトは強いんだな」
「そう見える?」
壁を見据えたまま、僕は笑った。僕ほど弱い者を、僕は知らない。
「見えない。悲しそうに見える」
「じゃあ悲しいんだよ、きっと」
「俺も悲しい」
「ふぅん」
「ただ、傷の舐め合いをしたい訳じゃないんだ。俺が悲しみを覚えたこの世界を、お前がどんな風に見るのか、それが知りたい。今は、ただ」
「どうして?」
「俺が見た中で、お前が一番綺麗だから。外見だけじゃない、声だけじゃない、お前の心みたいなものに、俺は惹かれた」
「会ってまだ少ししか経ってないのに、可笑しいね」
「直感だ」
「またそれ?」
思わず僕は、笑ってしまった。クスクスと忍び笑いをしてしまった。そして願った。本当に僕が綺麗だったら良いのになと。僕は多分本当は、誰よりも醜く成り下がってしまっているから。いつからなんだろう、僕の中で、汚いままで、浄化できないままで、昇華できないままで、時計が止まってしまったのは。
「アルト」
「ん?」
「俺は――無理に笑う必要はないと思う」
それはきっと、いつか僕が通ってきた道だった。そして通り過ぎてしまった道だ。
悠久の時を生きてきた魔王である僕と、勇者の間には、どうしようもない壁がある気がした。不思議なものだ。勇者だって、失う悲しみを、裏切られる悲しみを知っているはずなのに、なのにどうしてそんな風に真っ直ぐに生きる事が出来るのだろう。
彼のその言葉が、優しさが、僕は怖い。
「もう眠ろう。おやすみ」
「逃げるな」
僕はもう、答えずに、布団にくるまった。
眠れるはずなんて無かったけれど、ここのところの、旅に出てからは特に、ざわつく自身の心に、どうしようもない焦燥感を覚えていたから、何もかも忘れて眠ってしまいたかったのだ。そうすれば、きっと明日になれば、全部忘れる事が出来るはずだ。
結局その晩、僕は眠る事が出来なかった。
「うあぁ、眠い」
いつもの通り、朝食の席では、フランがぐったりしていた。
「僕は気分爽快です」
ルイもまたいつも通りで、明るい笑顔だ。
ちらりとオニキスの事をうかがうと、彼もいつもの通り、ごく普通の、怒っているわけでも笑っているわけでもない、かといって無表情でもない顔で、朝食を見据えていた。
今日の朝食は、サラダと堅いパン、そして野菜のスープだった。
この辺りは野菜が特産品なのだろうか?
そんな事を考えながら、僕はパンを千切って噛んだ。そして吐き出しそうになった。固くて食べられない。みんなどうしているのかと思って見渡すと、スープにつけて食べていた。だから僕は慌ててスープを口に含む。
「普段の食事とは大違いだろ」
フランが僕を見て、楽しそうに笑った。大きく頷いてから、僕はサラダを食べる事にする。
勇者達が来るまで、ここのところは三食きちんと食事をする事など無かったから、なんだか新鮮な気持ちだった。
「それにしても野菜ばっかりだな」
フランの言葉に、オニキスが腕を組んだ。
「昨日酒場で聞いた限りだと、大量に鶏が死んだらしい」
「魔王のせいで、と聞いたよ」
ルイの声に、僕は、溜息をついた。
恐らく、鳥インフルエンザだ。
≪ソドム≫では、既にワクチンを作って、対処している。
「だから、魔王は倒したって、盛大に話しておいたよ」
そのルイの言葉に、僕は思わず苦笑したのだった。
人への感染が起こらなければ良いなと思いながら。