28:過去――魔王三百年目


その夜、また僕は、懐かしい夢を見た。


この土地の大地は、おそらく本来は肥沃だったのだろう。
僕が魔術を使って以後、天候は冬以外順調に流れたし、農耕も酪農も発展した。
以前に勇者がこの土地に来てすべてを蹂躙してから――……もう三百有余年になる。
あの後、それなりの時間をかけてとはいえ、この土地”ソドム”は、再び活性化した。
今でも、まだ危険だからと言ってロビンには眉を顰められるが、僕はそんな街を歩くことが好きだった。露店が並び、カゴ一杯の果物や野菜が売られていて、氷魔術で作られたショーウィンドウの中には、肉類が並んでいる。勿論、人間の肉やエルフの肉ではなく、牛や豚、鶏の物だ。僕が厳命したせいか、エルフなどの品は並ばなくなった。
雑貨のような、戦闘には無意味な装飾具の店や、調味料を本格的に調達・調合する店も増えてきた。彼等は皆売買していたから、僕は貨幣を造った。それまでは物々交換だったらしいから。
そんなある日のことだった。

「これは、≪リボルト≫の結晶で出来たピアスか」

僕の隣に立った青年が、緑色の小さな宝石具を手に取りながら呟いた。
店員が愛想良く頷く。
「そうですよ、この辺りでは良く取れるから珍しくないけど――お兄さん、人間ですよね?」
「何故分かる?」
「気配が違いますもん。人間街から来たんですか? それも、最近」
「人間街?」
「やだなぁ、隠さなくても良いんですよ? この魔族の土地に逃げてきた人の集まりなんですから」
彼等のやりとりに、なんとなく違和を感じた僕は、無意識に腕を組んで、距離を取っていた。――恐らく彼は、人間街の住人ではない。直感がそう告げていた。
だとすれば、此処にいる以上、僕を倒しに来た勇者か、迷い込んだ人間の可能性が高い。

「一つくれ……いや、二つ」

彼はそう言って代金――やはり人間が持つ金貨を支払うと、急に僕を見た。
「一つやる。貰ってくれ」
「え?」
突然の言葉に僕は、瞠目した。
「この黒曜石は、お前によく似合うと思ってない。無論俺は、力を強めるために使うつもりだけど……一つで良い。だから、もう一つはお前に」
呆然としていた僕の手に、彼はピアスを一つ乗せた。
「け、けど僕は、ピアスの穴も開けてないし――……貰う義理もないし」
「今開ければいい」
そう言ってピアスを受け取った彼は、いきなりぶすりと、僕の耳にピアスを刺した。
「痛ッ」
「魔族なら、その位の傷は、すぐに治癒するだろ?」
「それはそうだけどさ、痛みはあるんだよ」
「そうか。悪かったな。ただ……やっぱりよく似合ってる」
そう言って彼はクスクスと笑った。
僕は眉を顰めたまま、血が流れてきた耳を押さえる。
「名前は?」
「アルトだよ」
「そうか。俺はトキト、宜しくな」
差し出された彼の手を、反射的に払った。僕は、痛いのは嫌いだ。
「そんなに怒るなって。――所で、お前もさ、やっぱり魔王に忠誠を誓ってるのか?」
笑みを含んだ声音だったが、耳元で、小声で呟かれた。
「な、なんで?」
どうしてそんな事を聞くのだろうかと首を傾げる。
「俺は、差別意識は持ってないんだよ。魔族でも獣人でも、勿論人間でもな」
「う、うん?」
「お前に一目惚れした。だけどな、俺は此処だけの話し、魔王を倒しに来たんだ」
「!」
ならば、彼は当然勇者だという事になる。
もしかしたら、これまでの彼の会話は、僕が魔王だと悟り、懐柔しようとしているのかも知れない。
「けどな」
勇者が続けた。トキトが続けたのだ。彼は薄い唇を静かに舐める。
「こんなに活気づいている街を壊すなんて馬鹿げていると思うんだ」
「なッ、何を――」
「俺は魔王を倒すんじゃなく、人間との和平の道を探りたい」
「だけど……」
それは、何度も僕だって考えてきたことだ。
だが魔族の言葉など、侵略ゆえの戯言と相手にはしてもらえなかった過去がある。
「無理だよ」
色々思案したが、無理だと思って苦笑した。
「どうして?」
「何度も人間に、≪聖都≫の人間に断られているんだ」
「俺の――勇者の言葉なら、聞いてもらえるはずだ。魔王さえ、頷いてくれるのならば」
「ぼ、僕……じゃなくて、魔王はきっと是というよ」
「そうか。それなら、良かった」
朗らかに、トキトが笑った。
彼のその柔和な顔を見たのはそれが最後だった。

――今代の勇者は、魔族の攻撃で魅入られ、敵となったため処刑された。

僕はそれを、大陸新聞の一面で見たのだった。
だから。
だから、だ。
もう二度と、勇者を介しての、和平など模索しないことにした。
だが当然こちらから申し出ても、疑われて、勅使となった魔族は皆捕らえられ、殺された。
――ああ、どうして僕は生きているのだろう。
その頃からなのだと思う。
僕の心にひびが入り始めたのは。
辛い、辛かった。僕が直接行こうとすれば、ロビンが、あるいは他の皆が止める。
僕に出来る事なんて、何一つ無かった。無かったのだ。
だからただ、死すと戻ってくる砂を、瓶に入れ、丘に埋め、十字架を立てるだけ。
苦しくて、何度も息が詰まりそうになった。
もう――消えてしまいたいと思うようになった、契機だった。