30:≪学都:セントジョーンズワート≫
翌日からも旅を続け、僕は初めて、都へと足を踏み入れた。
最後に泣いて抱きしめられて以来、僕とオニキスは、通常通りの関係に戻ったのだと思う。
オニキスは必要以上に僕には触れないし、元々僕から触れることなど無かった。
――ここは≪学都:セントジョーンズワート≫である。
人間の世界で一番巨大な図書館があると聞いていた。
街へと門を潜ってはいると、目につく正面の中央には、巨大な噴水があった。
灰色の煉瓦で構成された街並みは、何処か繊細さを持っているのに、優雅だ。現状の年代から鑑みても、決して古くさくは思えない。
「……何処か、行きたいところでもあるのか?」
久方ぶりに、事務連絡以外の言葉をオニキスが放った。
「え、僕、この街――学都の事を、あんまり知らないから……でも、図書館には行ってみたいんだ」
僕がそう言うと、杖で肩を叩きながら、フランが、遠くへと視線を向ける。
「俺は、”魔術師の塔”に顔出してくるわ。一応あのジジイ……俺の恩師がまだいるはずだから」
「僕は、宿を取ってから、最寄りの教会に挨拶してきます」
ルイはそう言って朗らかに笑うと歩き始めた。手を振り、フランも歩いていく。
残された僕は、オニキスを見上げた。
「オニキスはどうするの?」
「特に用事は無いな」
「じゃあ、街の観光とか?」
「……お前についていったら迷惑か?」
「え、あ、いや、そんな事はないけど……」
最近二人きりになることなどほとんど無かったから、緊張してしまう。
だが、そのまま二人で、図書館へと出向くことになった。
流石は≪学都≫の図書館だけあって、広い館内には、数多の書籍が並んでいた。
独特の紙の匂いに、なんだか頬が緩んでくる。
「本が好きなのか?」
オニキスに聞かれ、僕は顔を上げた。
「嫌いじゃないけど、どうして?」
「……アルトの笑顔を久しぶりに見た」
果たしてそうだっただろうかと考えたのだが、僕は思い出せなかった。
「どんな本が好きなんだ?」
「歴史書かな」
「歴史書?」
「最近では、全部倒されてきたのは僕なのに、一回一回違う性格の魔王として書いてあるんだ」
苦笑しながら僕が告げると、オニキスが溜息をついた。それから、不意に目を瞠った。
「お前の前にも、魔王はいたのか?」
「うん、そう聞いてるよ」
答えながら、僕もまた、気がついたことがあって息を飲んだ。
神様は、一人だけ、現在では魔術師に転職(?)した魔王がいると言っていたが、他の魔王は恐らく皆倒されているのだ。そうだと思う。だとすれば、皆が”本物”の勇者に巡り会い、倒されたのだろう。
――では、魔術師に転職した魔王に対峙するための勇者はどうなったのだろう?
そして同時に思い出した。
あの時神様(?)は言っていた。僕に心から愛する人が出来た時、僕は死ねるようになるのだと。多分僕は、オニキスの胸の中で心が騒いでから、ここに来るまでの間に、相応に彼のことが好きになっている。ならば、ならばだ。
僕は、オニキスに恋をしても構わないのかもしれない。
それもまた、それでもまた、僕は死ぬことが出来るのだ。
だけど、心から愛して、一緒にいたいと思うという事が、どういう事なのか、いまいち僕には、まだ分からない。そんなの未知の感情だ。
ただ――好きになっても構わないのだと、その時許された気がして、気がつけば、心臓が早鐘を打った。
でも、だ。オニキスは返事を急がないとは言っていたが、本当にまだ僕を好きだと言ってくれるのだろうか。ここのところ、特に何もない。
多分僕は、初めての恋心をどうして良いのか分からないのだ。
僕の堕とされた世界であれ、最早記憶が曖昧な日本の世界であれ、それだけは僕には経験がない。けれど僕なんかが、勇者であるオニキスの隣に、いて良い理由が、何よりも思いつかない。そこにはきっと、僕の居場所なんて無いのだ。
頭を振ってそんな思考を打ち消した。
「――オニキスは、本が好きなの?」
着いてきたのだからきっとそうなのだろうと思い、僕は顔を上げた。
「まぁな」
「どんな本が好き?」
僕の言葉に、今度は俯きがちにオニキスが言った。
「――冬が舞台の本なんだ」
「冬?」
その声に、ドクンとまた鼓動が音を立てた。
「不思議なもので、俺はよく、冬の夢を見るんだよ。雪が降りしけっていて、俺はその時どうしようもなく大切なモノを、失って、嘆いているんだ。だが現実には、そんな過去なんか無いんだよ。ただその夢を見る度に、俺は苦しくなって、飛び起きる」
オニキスはその時笑っていたのに、本当に苦しそうな顔をしているように見えた。
今度は冬だとか雪だとか、そんな単語ではなくて、その表情に僕は辛くなった。
「だから、俺もお前と一緒に雪が見たいんだ。アルトと一緒に冬を過ごしたい」
それからオニキスが僕を見て、微笑んだ。
多分僕は、オニキスの笑っている顔が好きなんだと思う。
なのに何故なのか、逆に僕は泣きたくなってしまった。どうしてそんなに切ない顔をするのだろう。僕に出来ることは何か無いのか。胸がじくじくと痛み出し、唇を気づけば噛みしめていた。
「そうしたら、俺は失った何かを、現実でも見つけられる気がするんだ。お前と一緒なら」
「僕にはそんな力なんて無い」
「良いんだ、ただ側にいてくれればそれで」
人気のない一角に立っていた僕達は、気づけばじっと見つめ合っていた。
僕は少しだけ上を向いていて、オニキスの金色の瞳を見据えた。
強い眼差しが返ってくる。
「――そんな顔をするなよ」
オニキスが、泣きそうな顔で笑ってから、僕の頭を静かに撫でてくれた。
僕こそ、そう言いたかった。だけど、上手い言葉が見つからない。
「キスしたくなる」
響いたオニキスの声を認識した瞬間には、抱きしめられていた。
久方ぶりの温もりがどうしようもなく愛おしく思えて、僕は気づくと、自分の腕をオニキスの背中へと回していた。多分、こんな事を誰かにしたのは、初めてのことだった。
「僕は、」
言っても良いのだろうかと、悩み続けた言葉を、口から出すべきなのか胸の内に止めるべきなのか迷う。
「……もしかしたら、多分、オニキスのことが、好きなのかもしれない……まだ分からないんだけど」
すると虚を突かれたような気配がした後、オニキスが息を飲んだのが分かった。
最も僕はただオニキスの熱い胸板に顔を押し付けていたから、表情までは分からなかったのだけれど。
「本当か?」
「……多分」
「そうか」
吐息に笑みをのせ、オニキスが目を伏せて笑った。
それから僕の頭の上に顎をのせ、更に腕に力を込めた。
「十分だ、それだけで。愛してるんだ、お前の事を。この度の間中、何度も何度もずっと、またこうやって抱きしめたくて、どうしようもなくて、辛かった」
その声に顔を上げると、優しく唇が振ってきた。
「……っ、は」
肩で息をすると、更に深く深く口づけられた。
唇同士が離れるまでの間、随分と長い時間がかかった気がするのに、その上息苦しかったのに、離れた時は、その体温が無くなるのが寂しく思えた。
「アルト、俺の恋人になってくれ」
「だけど、まだ僕は分からないから……」
「それでも良い。これから分かっていけばいいし、そう思ってもらえるように俺は努力するから。ただ、お前を他の誰かに渡すことのない、確固とした約束だけでも、今は欲しいんだ」
僕を抱きしめたまま、真剣な表情でオニキスが言う。
「本当にそれで、」
本当にそれで良いのだろうか。そもそも僕を手に入れたい奇特な者なんて誰もいないのに。
「俺だけのアルトでいて欲しいんだ」
今度は優しくオニキスが笑った。今度こそ、悲しそうな笑顔なんかじゃなかった。
その表情を見るだけで、安堵している僕が居た。
いつかオニキスは、僕に笑っていて欲しいと言っていたけれど――今は確かに、僕の方こそが、オニキスに笑っていて欲しい気がした。オニキスの笑顔が、きっと僕は好きなのだ。
「未来なんて築くことが出来るのか、分からないよ」
「それでも良い」
「本当に?」
「ああ。アルトが側にいてくれるのならば」
つらつらとそう言うと、再びオニキスに唇を重ねられた。
ただただ僕は、この体温が、ずっと側に在ればいいなと思ったのだった。