【5】孤独
夜。
部屋――というか、半ば魔術用具の店に戻ると、楪が来ていた。
「どこに行ってたの?」
そう言って僕に抱きついてきた楪は、すぐに目を細めた。それから恨めしそうに僕をじっと見て、頬を膨らませた。その愛らしい表情に、心が揺れ無い自分を内心で嘲った。楪も人気者だ。それは暁さん達のような雲の上の人という意味合いではなく、身近な入門書のような、手が届きそうな距離に居る人気であるが。僕もどちらかといえば、そのタイプだ。僕と楪は、傾向が似ていると思う。
「宿屋のシャンプーなんて、髪が傷むから使わない方が良いよ。唯理くんの綺麗な髪には合わない」
ぷいと顔を背けた楪に苦笑して、僕は彼の柔らかな髪を撫でた。すると楪が僕の手を取り、頬をそこに当てた。
「一番仲が良いのは、僕だよね?」
「そうだね」
これは紛れもない事実であると僕は思う。僕にとっては、他者は皆他者だけれど、他者の側から見たならば、きっと話は別だ。僕に一番近づき、僕に一番話しかけ、僕に向かって一番笑顔を向けてくれるのは、まず間違いなく楪である。
「ねぇシよう。もうデキない?」
「――今、魔導書を使ってきた所だから、体力的に厳しい」
「唯理くんは何もしなくて良いから」
「うん、楪。あのさ――」
「お願い」
断ろうとした僕は、今度は流された。僕は彼のお願いを断れた試しがない。それは、あるいは、僕に深く不味いってきてくれる貴重な存在を失いたくないという思いからなのかも知れない。僕は決して楪の事が好きなわけではない。ただそれ以上に、孤独が嫌いなだけだ。
思い返せば、僕は独りきりだ。
誰も僕を分かってくれないと言うつもりはない。所詮、違う人間同士が分かり合うことなど不可能だと、そんなありがちな言葉で癒されるほど、僕の孤独は生易しくは無い。人間不信ですらない。誰も――僕の周囲にはいなかったのだ。
両親が交通事故にあったのは、僕が中学一年生の頃のことだった。父親は即死した。母親は、首から下が動かなくなった。莫大な保険金と介護の日々。施設に入れろと騒ぐ親戚、頑なにそれを拒否した祖父。その祖父が亡くなってからは、高校にもいかずに、僕が介護をする事になり、結果その母が亡くなったのは、僕が十八の年だった。以後、ずっと一人だ。インターネットで魔術用具を売る以外の時間、僕は誰かと関わったことすら無かった。
親戚との縁は祖父が断ち切っていたし、不登校となった僕に学校の友人は一人もいなかった。それで――不自由だと思ったことは一度もない。父親の後を引き継いで魔術書を執筆するだけで、僕には十分だった。
その十分の中には、現実世界で顔を合わせずに続いていた楪や侑玖とのやり取りもあった。それらが深まった、この転移。僕は底なし沼に囚われるように、どんどん近寄ってくる楪達に、そのまま飲まれてしまった。酷く億劫で鬱陶しい。だというのに、一人になる恐怖が今ではよぎる。もしもここで、楪の手を振り切ったとすれば、僕にはもう、二度と誰も踏み入ってくれないのではないかという思い、不安定さ。
僕はそれが怖い。
結局のところ、人気などという実体のないものは、僕の孤独を癒してはくれないのだ。
「――ねぇ、楪」
事後。
僕を果てさせて満足した様子の楪に、僕は聞いてみた。
「ここで一緒に暮らす?」
「え?」
すると楪が目を瞠った。僕のこの言葉は、昼間、眞山くんに問われた時に浮かんだものである。僕は確かに、眞山くんと暮らしたならば楽だろうと思ったが、もし誰かにこう伝えるとしたならば、その相手は楪以外にはいないのだろうと漠然と理解してもいた。
「いいの?」
「聞いてみただけだよ。まだ、具体性を持って話しているわけじゃない」
「いつもの思いつき? 唯理くんは、思いつきが多いけど……僕、本気にする」
「本気にして構わないよ、思いつきだけど」
「一緒に住みたい!」
楪が泣きそうな笑顔を浮かべた。僕は微笑を顔に貼り付けて、この子に幸せな顔をさせてあげられるのならば、それはそれで良いのではないのかと考える。結局のところ、僕の上辺の優しさは、僕が人に優しくされたいという願望の現れだ。
僕は誰かに幸せにして欲しい。しかし誰もそうしてくれないとよく理解しているから、期待はない。ならば、自分ができる小さな幸せ作りをして過ごしたい。ただ、それだけで、別段深く物事を考えているわけではない。そんな僕を腹黒いと評する人がいても、僕は不思議には思わない。
その日、僕は楪を抱きしめて眠った。
目を覚ますと、不味いサラダがダイニングテーブルに載っていた。椅子を引き、僕が座ると、お手製の野菜ジュースを楪が置いた。
「ねぇ、昨日の話……」
「うん」
「……っ、ぼ、僕さ、一緒に住んだら、毎日お料理するからね! 新さんに習って、お味噌汁ももっと上手くなる!」
楪は、新さんに懐いている。僕はそれが少し不思議でもある。楪は、事あるごとに新さんを尊敬するというのだが、僕には楪の好みの魔導書を新さんが執筆しているようには思えないからだ。新さんの製作物は、楪の感性とは乖離しているように僕には思える。どちらが悪いわけでもないが、深いところで二人の主張は異なっている。
「楪は、新さんが本当に好きなんだね」
率直に疑問に思って呟くと、楪が破顔した。
「だって、唯理くんが尊敬している人だから」
それを聞いた時、何故なのか僕は、冷水を浴びせかけられた気分になった。
「僕が?」
「うん。僕は、唯理くんの好きなもの、全部好きになりたいから」
言葉を見失った僕は、手を合わせて、「頂きます」と口にした。
楪の想いと強引さは、僕を救ってもくれるけれど、同時に心を抉る。
それでも――一人よりは、ずっとマシだった。