【8】獣





 目が覚めると体が重くて、喉が掠れていた。そんな俺を、暁さんは丁寧に介抱してくれた。既に日は落ちていた――というより朝方で、僕は朝まで眠ることにした。

 こうして二人で宿を出たのは、翌朝となった。

 街へ出るとすぐに、新さんに遭遇した。笑顔だったが、非常に不機嫌そうに僕達を見た。一気に肩に重しを乗せられた気分になる。

「暁、ちょっと良い? 話があるんだ」
「――ああ」

 新さんの言葉に、暁さんが頷いた。新さんは僕には何も言わなかった。
 こうして二人が歩いて行ったので、僕はそれとなく踵を返した。同じ場にいて修羅場に巻き込まれたくなかったのだ。当事者の僕が言う事ではないだろうが。

 結局――僕はこの日、暁さんとは恋人になるならないの話はしなかった。

 気だるい体を引きずって家に帰ると、そこには侑玖がいた。楪の姿がないことに、どこかで僕は安堵していた。

「お帰りなさい」
「ただいま――ここは、僕の家なんだけどな」
「あはは。あの、楪……荒れてましたけど気にしないほうがいいと思います」
「そう」

 やはり楪にも、僕と暁さんが昨日一夜を過ごした事は伝わっているんだろうなと、ぼんやりと僕は考えた。ローブの首元を緩めながらソファに座ると、侑玖がコーヒーを出してくれた。彼の淹れるコーヒーは美味しい。

「あの、俺が口出しすることじゃないかもしれないですけど」
「うん? 何?」
「――楪よりは、暁さんの方が叶野さんのことを大切にしてくれると思います」
「ふぅん」
「そ、その、あの人大人だし――……けど……」
「……」
「俺が一番、叶野さんの事想ってる自信があります」

 その言葉に、僕はカップを傾けながらゆっくりと瞬きをした。俯いて唇を震わせていた侑玖は、それから意を決したように僕を見た。

「俺、叶野さんが好きです」
「知ってるよ」
「……っ……俺じゃダメです……よね」
「ダメとかそういうことじゃなくて」

 僕の中で、楪と侑玖と――おそらく暁さんも、あるいは眞山くんも全て、同じレベルなのが問題だ。ダメなのは、僕だろう。

「――侑玖は、僕とどうしたいの?」
「恋人になりたいです。叶野さんを、俺だけのものにしたいんです」

 その言葉に、僕は『独占欲』という語を脳裏で反芻した。独占欲が強いと暁さんが口にしていたからかもしれない。

 僕に欠如しているのは、それなのかもしれない。こと対人関係において、僕には独占欲が無い。誰かをずっとそばにお期待などとは、一度も思ったことがないのだ。一人が好きなわけではなく、それはむしろ嫌いだが、常に同じ人間をそばに置きたいとは思わない。あまり深く内側に入ってこられたくない。

「――僕さ」
「はい」
「誰にも何も答えられないでいる」
「知ってます」
「そんな僕のどこがいいの?」
「分からないけど――……断らない叶野さんにつけいってる周りが悪いと俺は思う」

 僕を全肯定してくれる侑玖が、僕は好きだった。侑玖と話していると、すべてを僕は許される気分になるからだろう。

「少し休むよ」

 結局言葉を濁し、僕は寝室へと向かった。そこでは、泣きはらした目で眠っている楪の姿があった。心が痛まないといえば嘘だ。隣に横になり、僕は目を閉じた。眠気があったわけではない。ただ、体が重かっただけだ。そう思っていたはずなのに、気づけば僕はまどろみ、睡魔に飲まれていた。

 目を覚ますと、隣に楪の姿は無かった。

 その日の夜は、魔導書のインクを整え、そしてまた一冊執筆した。そこに曲を吹き込み、完成したのは翌日の夜である。そのまま僕は、魔導書を試しに行くことにした。

 今日は誰も家にいない。それが非常に気楽だった。


 決意してから一時間後には、僕は塔へと繰り出して、魔導書を使用した。
 宙に広がった楽譜のような魔法陣が空気に溶けると、氷の青い薔薇が出現した。棘の周囲には、雪の結晶が舞っている。全て想定通りである。あとは、対象を凍りつかせて破壊するだけだ――そう思っていた時である。

「綺麗な音色だな」

 誰かの声がした。言われなれていたが、最近ではこのように率直に言われることは減っていた。そう思った直後、僕は目を見開いて凍りついた。今、この場所には、自分以外には誰もいないはずだったからだ。では、声の主は?

 恐る恐る振り返ると、そこには気怠そうな顔をした青年が一人たっていた。
 僕よりも少し年上くらいで、青い瞳をしている。
 いいや――青年ではない。人ではない。僕は、瞳の色をさらに薄くしたような青い羽を見て硬直した。人の体にはありえない羽、巨大な天使のような羽が、青年の背中に見えた。

「獣……」

 僕は呟いていた。聞いたことがあったのだ。
 ――不死鳥の塔には、青い羽の獣が出ると。
 人語を解するその獣は――……人を喰らう。

「っ」

 理解した瞬間、僕は魔導書を五冊出現させて、結界魔術を展開した。様々な曲が一斉に鳴り響くが、不思議と不協和音にはならない。全て僕が作ったものだからなのかも知れない。青い羽の獣は、そんな僕をじっと見ていた。

「――獣、か。人を喰らう獣、か。人間とは、綺麗な言葉を使うのが好きだな」

 次の瞬間、僕は目の前に獣が迫っているのを見た。見た瞬間には押し倒され、後頭部を床に打ち付けていた。

「獣のように本能的に従い人を犯す――そう具体的に誰か伝えれば良いものを」
「っ、離せ」
「それはお前次第だ」

 獣はそう言うと、僕の服を破った。――犯す?
 その意味を図ろうとしつつも、圧倒的な威圧感に、全身が凍りつく。
 僕の体には、紛れもない純然たる恐怖がこみ上げていた。殺気が肌に突き刺さってくる。殺されると、僕はその時確かにそう思った。