【9】混ざり合った顔






「安心するが良い。別段苦痛を与えたいわけではない。望む相手の――お前が愛しいと思う者の姿を取って、事を成す」

 獣はそう言って唇の両端を持ち上げると、一度羽を動かした。周囲に青い羽が舞う。幻想的な光景だったが、それは僕の恐怖を払拭してはくれない。どころか――……次の瞬間変化した獣の顔に、僕は悲鳴を上げた。

「――ん?」
「あ、あ、あ……」

 口を残して、獣の顔が失くなったのである。和風に言うならば、のっぺらぼうだ。僕は八雲ののっぺらぼうに怯えたことなど一度もないというのに、今この瞬間、心停止しそうだった。何もない顔が、僕の真正面にある。目がないのに、僕を見下ろしていた。

「望む相手が一人もいないのか? いいや、違うな、この貌……混ざっているのか」
「へ……? うわあああ」

 獣の声に改めて顔を見て、僕は今度こそ発狂しそうになった。よく見ればその平面は、いくつもの顔を混ぜて塗りつぶした結果、出来上がっているものだったのだ。いくつもの水彩絵具を溶け合わせた結果、全て黒くなったかのような、そんな歪な顔が広がっていた。よく見ればそれは、暁さんや楪、侑玖や眞山くん、新さんといった顔で構成されているようでもあり、いいや、もっと無数のこれまでに出会ったことのある他者の顔で出来上がっていた。それらが溶け合っていた。

「つまり一律でお前の中で、他者は他者か。望んではいるようだな。だがそれは”誰でも良い”という事か。孤独だな」

 獣が目を細めて僕に言った。僕は何を言われているのか、理解することに必死になる。

「誰に抱かれるも同じか――ならば」

 そう言うと、獣が元の顔に戻った。青い目の青年の顔に、僕は異常な程安堵していた。目の前にいるのは変わらず獣であるというのに、僕は喰われる事以上に、先ほどの無数の顔に怯えていた。全て同じに混ざった顔に。

「その孤独、私が癒してやろうか?」
「……」
「お前には、”特別”を見つける能力が無いようだ。ならば私が特別になってやろう。いいや、お前に特別がどういうことかを教えてやろう。私の不在を考えられないようにしてやろう――どうだ?」
「――そんなものはいらない。僕の特別になりたいと望む人間なんて腐るほどいる」
「しかしながら、誰ひとりとして選べない。選ぶことができない人間など、いくらいようとも同じではないのか?」
「僕が君を選ぶことも無い」

 話しているうちに僕は少しだけ冷静になり、魔導書を再び出現させた。

「退いてくれ」

 本を開き、僕は魔法陣を展開した。すると獣が、忌まわしいものを見る顔をした。
 瞬間、先ほどを上回る殺気が辺りに膨れ上がったものだから、僕は震えた。必死に制しようとするが、怖気が走った体は言うことを聞かない。

「――良いだろう。今日は退こう。お前に興味がわいた」
「……」
「次に会う時、私はどんな顔になっているのだろうな」

 獣はそう言うと、短く喉で笑って姿を消した。後に残った青い羽を見て、僕はへたりこんだ。床に座り、がっくりと体の力を抜く。

 ――その日。
 僕は”自分が他者を好きになれないのではないか”という根本的な事実にいやでも気づかされることになってしまった。


 この衝撃的な夜のせいで、僕は暁さんの事をすっかり忘れていた。
 だから帰宅して楪に泣かれた時、最初、何のことか本当に分からなかった。
 するとそんな僕を見て、楪は泣き止んだ。

「なんだ、暁さんでも、侑玖や眞山と同じかぁ。良かった」

 僕はその言葉に胸を抉られた。息苦しくなった僕は、両手で楪を抱きしめた。

「楪は――……僕の中で特別だと思うよ」
「本当?」
「ああ、本当だよ」

 何度も何度も自分に言い聞かせるように、僕は大きく頷いた。すると今度は、楪が嬉し泣きを始めた。僕は、彼に酷いことをしている自信があった。何せ今回に限っては、自分を落ち着けるための偽りだからだ。けれどそのまま抱き合って、楪の肌に触れていると恐怖が薄れていったから、僕は自分の心を守るために嘯き続けるしかなかった。


 ――僕は、どうしたら良いんだろう?

 買い物に行くと言った楪を見送り、僕はソファに深く背を預けた。エントランスの呼び鈴が鳴ったのは、それから少ししての事だった。いつだって人々は勝手に入ってくるからと、僕はただ座って眺めていた。

「よぉ」

 入ってきたのは、眞山くんだった。彼がここに来たのは、随分と久しぶりだった。

「今日は、何を買いに来たの?」

 何度か来た時の用件は、全てそれだった。だから僕は、今回もそうであることを疑っていなかった。

「――お前。叶野唯理は、おいくらですか?」
「高いよ」
「……金で買えるんなら、いくらでも稼ぐさ。冗談だ」
「くだらない事を言っていないで、用件を話してくれ。何が必要なの?」
「別に。ただ、来ただけだ。悪いか?」
「今までには一度もそんなことはなかっただろ」
「今までには一度も暁とお前がラブホに行くなんていう事態は無かったからな」

 僕は再び思い出させられて咳き込んだ。口を手で押さえてから、まじまじと眞山くんを見る。

「暁と付き合うのか?」
「……別に」
「俺はまだ、返事をもらってない」
「返事って……」
「暁には返事をしたのか?」
「何それ嫉妬?」
「そうだ」
「っ」
「嫉妬だ。悪いか?」
「してないよ、返事なんて。何も誰にも」

 不機嫌そうな眞山くんの、けれどまっすぐな言葉に、僕は顔を背けた。

「なぁ、唯理」
「何?」
「――お前がもし、誰のことも好きになれないのだとしたら」
「……」
「それはお前自身が、お前を好きになれていないからだ。自分が好かれる要素を理解できない」
「何を言って――……僕は、誰よりも、僕が人に好かれていることをよく知ってる」
「どうだろうな」

 眞山くんはそう言うと歩み寄ってきて、ギシリとソファに手を付いた。そして僕を覗き込むと、片目を細めた。

「お前の良い所、お前のどこが好きか、いくらでも語ってやる。だから俺にその時間をくれ。俺のことだけでなく、お前に、お前を好きにさせてやるから」
「眞山くん……ン」

 降ってきた優しい唇を受け止めながら、何故なのか僕は泣きそうになった。
 ――僕が、僕を好きになる?

 そんな事は、果たして可能なのだろうか? そう考えて、僕は僕が嫌いなのだろうかと思案した。いいや、違う。僕は、僕に対しても興味が持てないようだった。