成り代わりとは何か?


翌日、俺は虎獣人のガウル王子の元へと向かった。
さすがは他国の王族だけあって、豪奢な客室に宿泊していた。
高級そうなソファに踏ん反り返っているガウル王子は、あからさまに俺を睨み付けている。この青年、元々の俺よりちょっと年上に思える。
「それで何のようだ?」
まぁ面会に応じてくれただけでもいいのかもしれない。
「記憶を呼び戻す力があると伺ったんですが」
「それが何だ?」
「実はどうしても思い出したいことがあって、力を貸して欲しいんです」
一応相手は王子様だから、俺はした手に出て敬語で話すことにする。
「ーーだったら身を弁えて、二度とガイスにまとわりつくな。それが、力を貸す条件だ! おっさん風情が!」
おっさんおっさんてうるさいな、とイラっとする。確かにおっさんはおっさんだけどな、俺多分、本当はお前より若いからな!
大体まとわりついてくるのは王弟殿下だ。ーー今ではそれがちょっと嬉しかったりするんだけどな、なんていうのは気のせいだということにしよう……。
とにかく今はおっさんの運命の人とか、どうして殿下がおっさんに惚れたのかだとかは一旦取り置いて、俺の記憶だ。なんでよりにも寄って俺の記憶がないんだよ!
「分かりました」
背に腹は変えられない。俺が素直に頷くと、ガウル王子が拍子抜けしたような顔をした。
「……そんなにあっさりと、ガイスのことが諦められるのか?」
「今は記憶が先決なんだよ」
思わず素で返してしまった。地がでちゃったよ俺。
「随分と大切な記憶なのかーーいいだろう、ガイスに近づかないのは約束だからな! 絶対に守れよ!」
そう言うとガウル王子が、立ち上がった。
そして俺に歩み寄ってくると、俺の額に手を伸ばした。明らかに俺INおっさんの方が身長があるので、爪先立ちしている。……確かにこのくらいの身長で、身目も良い王子の方が、殿下には相応しい気がして、ちょっとだけ寂しくなった。おっさん……頑張れよ!
黒い肉球のある手から、その時、ゾクリとするような冷気が漏れた。
視界がぶれ、俺の瞳は闇を捉える。
ーーなんだコレ?
しかしそれは一瞬で消えた。
気づくと俺は座り込んでいて、ドクドクと早鐘を打つ鼓動だけを認識していた。
「これで記憶の引き出しが開いたはずだ。感謝しろ!」
だが別段なんの記憶も蘇っては来ない。
「あの、なんにも思い出さないんですけど」
「眠れ」
「はぁ……?」
「夢の中で、記憶の鍵が開く」
それだけ言うと、プイとガウル王子が顔を背けた。
「どれだけ大切な記憶かは知らない。だけどあっさりとガイスのことを諦めるような奴が、相応しくないことを改めて認識したからな!」
なんだかその言葉に寂しくなった。だけど俺は、それでも自分の方が大切だったから、何も言えなかった。

それから俺は、騎士団の官舎へと向かい、自分のベッドに横になった。
願う気持ちで、目を伏せる。
本当の俺の記憶を思い出せることをーー我ながら自分勝手だけどな。
するとすぐに闇が俺の視界を絡め取った。

「え」

闇の中に一人の青年が立っていた。
それは、本当の俺の顔をしていた。青の賢者の書で見たのと同じ姿をしている。
真っ暗な闇の中に一人で立っている。
俺はその正面に立っていた。
「……蛇?」
俺が呟くと、正面の"俺"の顔をした誰かの瞳が、紅くなった。
そしてまっすぐと腕を伸ばし、対峙する俺を指差した。
血に濡れたみたいな真っ赤な口角の片端を持ち上げ嗤っている。歪な笑顔だった。
瞬間、俺の視界がまたぶれた。

同時に俺の見る光景が変わった。

一本の樹が正面に現れたーー神殿で見たのと同じ樹に見える。
周囲は闇なのに、その樹の周囲だけが光に満ちていた。
そこでは"俺"の顔をした青年が笑っていた。嗚呼、蛇だ。直感で分かった。
俺は俺の記憶を見るはずだったのに、その時紛れもなく蛇の記憶の渦中にいた。
蛇は穏やかに笑っていた、先程の狂ったような笑顔とは全く異なる笑みだった。
その正面には、一人の青年が立っていた。
「っ」
俺はその顔を確かに見たことがあるのに、誰なのかわからなかった。なぜ、思い出せないのだろう。つい最近、そうだ、この世界に来てから見た誰かの顔だった。なのに雑音が入り込むように、その人物の名前が出ては来ない。
その上、直感したーー立っているのは、アダム・カドモンだと。
そのとき俺は、"蛇"になっていた。"蛇"だった。アダムが愛おしくて仕方がなかった。胸が高鳴り、会いたくて仕方がなかった、見たくて仕方がなかった、そんな感情に突き動かされた。触れたくて、その温度を感じたくて、腕を伸ばす。

だがその手は届かなかった。

蛇のように、銀髪を一人の女性がアダムの首に巻きつけたのだ。
硬い髪は喉を締め上げ、青年の体を貫いた。
ああ、ああああ、ああ。
"俺"の頬に、生温かい感触がした。何も見たくなくて俯いて、両頬に手を当てれば滑った感触がした。温かい、温かかった。正面に手を戻して掌を見れば、ベッドリと紅い血が付いていた。その時俺は乖離し、血濡れの"俺"の姿を見た。そして。
どうしようもなく、その血の匂いに、興奮した。
気づくと哄笑が聞こえてきた。ははは、ははは、嗚呼、それは俺の口からもれていた。滑稽だ、なんて滑稽なんだ。馬鹿げている、ああ馬鹿げているじゃないか、なんだこれは。気づけば"俺"はリリスを嬲っていた。衝動が止まらなかった。
それから我に返った時、アダムの死にかけた身体を、生命の樹へと導きながら、神を呪っていた。呪った神は、蛇に語りかける。我を呪うなど愚行ーー永遠に脱皮を繰り返し、成り代わり生きていけ。そして永劫アダムの死を繰り返し目にすればいい。リリスはただ恋をしただけだったのだから。さぁ主の子を永遠に殺し続けよう。それはあるいはアダムだ。あああああ。絶望と悲壮と悔恨。心が、胸が、脳が、凍りつく感覚ーーそうだ、蛇の子孫は、覚えていた。リリスを暴行し、アダムの体を、アダムだけを生命の樹へと導いたことを。

「……どうして」
「どうして?」

俺の漏らした言葉に、蛇が応えた。
再び俺たちは暗闇の中に二人立っていた。
蛇の瞳は暗い黒に戻っていた。
「記憶を思い出したいと願ったのは、お前だ」
「これは俺が求めた記憶じゃない」
「だけど祈っただろう、この俺に。蛇の記憶が知りたいと」
「そんなーー」
言いかけた瞬間、俺はひどい頭痛に見舞われた。嗚呼、そうだ確かに俺は祈ったーー俺は、今、ゼクスだ。そうだおっさんだ。おっさんは確かに祈った。なぜ、何故なぜ、陛下は死と生を繰り返さなければならないのかと。
「逃れたいと。幸せになりたいと」
それは、確かに罪だった。

「ゼクス?」

その時声をかけられて、俺は飛び起きた。
冷や汗で、髪が顔に張り付いていた。
「どうしたんだ、酷くうなされていたぞ?」
騒ぐ鼓動に気づかないふりをして周囲を見回せば、そこには王弟殿下が立っていた。その顔を見た瞬間、俺は一気に脱力した。
そうして俺は気がついた。

成り代わりとはーー蛇の脱皮だ。

だから自殺するのだ。死に触れるために。これは原初の悲劇だ。この世界における現在だ。その時、目を覚ましたというのに蛇の声がした。"俺"の声がした。
「アダムを起こす鐘を探してくれ」
そのまま俺は、意識を失ったのだった。



だからこれは、きっとただの夢で、だけど紛れもないおっさんの記憶だ。

「ガイス殿下?」

春の陽射しの中だった。
緑の芝の上、王弟殿下はしゃがんでいて、白詰草を眺めていた。
俺はまだ少年の域を出ない幼さの残る年頃で、殿下は紛れもなく少年だった。いや、子供というのが相応しいのかもしれない。
「何をなさっているのですか?」
「ゼクスか……」
声をかけると、驚いたようにビクリとしてから、殿下が顔を上げた。
目を丸くした後、照れるようにガイス殿下は、視線を逸らした。
「四つ葉のクローバーを探していたんだ」
「四つ葉ですか」
幸福をもたらすという葉のことは、俺も知っていた。
「どうしてまた 。何か願い事でもあるんですか?」
「……兄上にあげようと思って。もうすぐ、結婚式だから」
微笑ましい。いろいろと周囲は騒いでいるが、殿下が兄殿下を慕っているのは明らかだ。俺はそのいじましさがどうしようもなく可愛く思えて、気づけば笑っていた。俺もまたしゃがみ、白詰草を眺める。
「ゼクス?」
「俺にも探させてもらえませんか?」
「あ、ああ。一緒に探してくれるのか」
するとガイス殿下が嬉しそうな顔をした。この素直に感情を表す幼い殿下が、俺は好ましかった。きっと将来は、兄を手伝う優秀な人物になるのだと思う。普段は、勉学に剣技に努力を重ねていることも知っていた。
ーーその日、結局四つ葉のクローバーは見つからなかったけれど、それでも確かに胸中はポカポカと暖かくなった。
その頃からだ。
俺はずっと、殿下を見守っているようになった。
少しずつ少しずつ殿下は成長していく。
初めての魔獣討伐、初めての外交、初めての、初めての、
全部、おそらく俺は見てきた。
いつしか目が離せなくなっている己に気づいて、苦笑したものだ。
純粋なガイス殿下は、陛下の即位に伴い、王弟殿下になった。
俺は魔術騎士団で、それをずっと見守っていた。
見ているだけで幸せだった、胸がいつだってあの春の日の陽光のようにポカポカとしたから。いつか、力になれる日が来れば良いと願った。願っていた。
ーーだけどそれは叶わなかった。
己の主である陛下の、苦しみと死を知ってしまったからだ。
この因果に、王弟殿下を巻き込みたくはなかった。
ああ、意識から締め出そう。最早、関わらないべきだ。この悲劇に、笑っていた、笑っている、殿下を巻き込んではならない。殿下が幸せであることが俺の幸福なのだからーーなのに何故、涙が出るのだろう。ただすぐに涙は枯れた。俺は死臭にとらわれ、心は砂漠のように干からびて行ったのだ。

それは、多分恋を忘れた、封印した瞬間だった。

「あ」

目を覚ました俺は、泣いていた。暗い室内には、俺一人きりだった。
そうか、おっさんは元々は王弟殿下の事が、好きだったのかもしれない。
だから、意識して記憶からその事実を締め出していたんだ。
ここのところ視るような、ゼクスの姿ではなく、その時の俺は明らかに己の記憶として、おっさんの記憶を追憶していた。
胸が切ない。痛い、痛いんだ、なんでだよ。なのに。
何となく、心に温かいものが満ちていた。
「おっさんにも幸せな時があったんだな」
もっとそれを求めればよかったのに。おっさんは馬鹿だ。
だけど俺はおっさんじゃないから、代わりにその幸せを甘受する権利はない気がする。それに今は俺だって蛇に関わっちゃったから、やっぱり殿下は巻き込めない。
「ガウル王子とも約束したしな」
これからは、王弟殿下に関わるのはやめよう。それは多分、好きだからだ。
「だけど殿下もおっさんの事が好きなんだよな」
それでも俺は、王弟殿下の事が知りたい。そう思うことは悪いことじゃないよな?
好きな人のことを知りたいと思うのって、ごく自然な事だと思う。
他にもちょっとガウル王子との関係も知りたかったりする。
これは嫉妬かもしれないけど。
それにしても俺、独り言が増えたな。口に出してみると整理できる気がするんだけど、そういうことじゃないのかもしれない。おっさんに話しかけているのかもしれない。俺には、またおっさんのことがよくわからなくなりつつあるけど、だけどわかるようになったことも増えたからな。

ただ、その夜俺は声を押し殺して、ひとしきり泣いたのだった。
成り代わりは、思いの外辛いものだなって思いながら。