王弟殿下回避作戦!


それから俺は執務室にいるのをやめた。
だって仕方がなくないか?
関わらないことにした殿下が毎日やってくるんだからな。その状態でもう数日経った。ぶっちゃければ、本当は顔が見たい。話がしたい。だけど、関わらない方がお互いのためだ。それに俺は自分の体に戻るんだから変な未練は残さない方がいいだろうし、代わりにおっさんが殿下と幸せになるべきだろ。それにしても本当のおっさんは今どこで何をしてるんだろう。やっぱり俺の体の中なのか?
それに気になることが二つある。
一つは、リリスの神殿で見たおっさんのメモのことだ。イブって書いてあった。取り敢えず、時計研究院というところにヒントがありそうだから行って見ないとな。
もう一つは、蛇の言葉だ。
ーー幸せを祈っただろう。
確かにそう言っていた。おっさんは何を祈ったんだろう。おっさんの幸せはやっぱり殿下の幸せなんだろうか。俺は明確にはまだ、幸せというものを確信できないでいるんだよな。
そんなことを考えながら、城の回廊をぶらついている。見回りのフリだ。それにしても、見れば見るほどテーマパークのアトラクションに最適だと思う。ただ嫌なことも一つある。俺が血フェチなのって、蛇に関係しているんだろうか……。
思わずため息が漏れた。その時だった。

「何で避けるんだよ?」

バンと音を立てて、壁際に追い詰められた。見れば、殿下の片手が殴りつけるように壁に当てられていて、俺は呆然と見やるしかない。
「別に……」
そう言いながら顔を背けた。うわ、吃驚した。なんでここにいるんだよ、気配なんてまるでなかったぞ! 唖然としていると、すると無理矢理顎を掴まれ、深々と唇を貪られた。薄い唇の感触に、何か言おうと口を開いたら舌が入り込んできた。
「フ、っ、ぁ」
「俺から逃げられると思うな。絶対に逃がさねぇ」
唇が離れたにで、俺は思わず口を押さえた。殿下の瞳が真剣すぎて、背筋が冷えた。思わず唾液を嚥下すると、ゴクリと妙に大きな音が響いた気がした。
「べ、別に避けてなんかいないから!」
俺は必死に言った。怖いのも若干あったが、関わらないと決めた決意の方が大きい。一度決めたら、基本的には貫き通したい。農家計画とかあっさりと潰えたけどな! 本当は俺は流されやすくて意思が弱いのかもしれないが、相手が好きな人に関することとなれば流石に別だ。
「ッ」
すると再びキスをされた。息苦しくなって逃れようとすると、片手で強く腰を抱き寄せられた。俺はおっさんの数少ない取り柄である筋力を利用し、必死でもがいたにだが、本当に殿下は逃してくれないらしく、びくともしない。暑い胸板を押し付けられて、一歩二歩と下がるが、それ以上の後退を壁が邪魔だてする。
「!」
そのまま、首と顔の付け根を、噛み付くように吸われた。ジンとした痛みと疼きが広がる。殿下の唇が離れた瞬間思わずてで抑えた。
「俺のものだっていう証だ」
「……」
老化は首からくるらしいーーって、そんなことを考えている場合じゃない。証ってなんだ? 殿下よ、俺の首に何をした!
「今夜、俺の寝室に来いよ」
「お断りします!」
「絶対だからな」
「断る!」
「ーーここでされたいみたいだな」
「伺います!」
やっぱり俺の意思は弱かった。いや、ここはひとまずこう答えていかなければいいのだ。いい案だ。
「お前また流そうとしてるだろ」
しかし殿下は鋭かった。本当におっさんの表情を見ることに命をかけていたんだな……って感心している場合じゃないだろ!
「諸事情により俺に近づかないでください!」
「……あ?」
殿下の瞳が細くなった。肉食獣というよりも、氷の化身みたいに鋭く冷たい。強い眼差しが、俺のことを凍りつかせた。しかしここで折れる訳にはいかないだろう。
「失礼します」
俺は言い切って腕から逃れようとしたーーが。
「待てよ」
きつくて首を握られ阻止された。何度も振り払おうとしたが、痛いほどに握られ逃げられない。これは多分若いから力と勢いがあるんじゃなくて、おっさんのことが好きだから離そうとしないんだと思う。
「事情ってなんだ?」
「今は言えない」
今後も言えるかわからないが、これは嘘じゃない。振り返った俺は、眉間にシワを刻み、強くいう。
「兎に角離してくれ。もう子供じゃないんだろう? 一方的に自分の感情をぶつけるな」
「っ」
すると殿下が息を飲んだ。一瞬だけ手首を握る力が弱まったので、今度こそ振り払い俺は走った。本当はあんなことが言いたいわけじゃなかったから、罪悪感が募ってくる。だけど、後悔はしなかった。ネリスにキスマークが着いていると言われたのはその日の夜のことである。

なんだかんだで、結局それから殿下は俺を追いかけてこなくなった。
だが俺は、ばったりとも遭遇しないように、逃げまくった。
王族なのに食堂で食事をする殿下の姿を見かければ踵を返し、浴場に気配があれば素通りし、回廊ですれ違いそうになるのはもちろん避けた。
そんなこんなでもう十日は顔を合わせていない。
意識して避けていると、思いの外遭遇しそうになって驚いた。殿下は追いかけては来ていないのだがーーどうやら元々、おっさんがいる頻度が高い場所に、遭遇する時間が多い時に、殿下は足を運んでいたみたいなのだ。今でも無意識に、そこへ姿を現すのだろう。何でわかるのかというと、俺もおっさんの気が赴くままに移動していたからだ。体が移動するに任せたからだ。その結果殿下と遭遇しそうになる確率が高すぎたのだ。おっさんは殿下に関わらないようにしていたらしいから、自分からその時間や場所を選択していたとは考えづらい。しかし殿下も頑張っていたんだな……俺が成り代わるまで、「御意」しか会話がなかったらしいのに。
そんなことを考えながら、今俺は図書館にいる。
時計研究院に行く前に、少し情報収集がてら歴史書でも読んでみようと思ったにだ。天井まである書架からは、古い紙の匂いが香ってくる。なんだか心地いい。

「時計研究院、時計研究院」
「ーー二列横の右上だ」
「有難うございま……ッ!」

横からかかった教えてくれる声に、反射的にお礼を言おうとして、俺は硬直した。聞きたかった声がしたからだ。恐る恐る視線だけ向けると、そこにはやはり王弟殿下が立っていた。
逃げようにも足が床に張り付いたようになり動けない。
「顔を見るのもダメなのか?」
「……」
何も言えないまま、正面を見ている王弟殿下の横顔を窺う。
「これじゃ、前より酷い」
すると王弟殿下が苦しそうに笑った。俺の胸も苦しくなる。張り裂けそうってやつだと思う。胸を落ち着けようと俺は深々と吐息した。
「事情があると言っていたな」
「まぁ……」
「それが俺を嫌っているから口実で言ってるんじゃなけりゃ、俺にも何か手伝わせてくれないか?」
「ーーえ?」
「考えてんだよ俺だって。ゼクス、お前また一人で何かやろうとしてるんだろ? 少しでいい、力にならせてくれ。俺はもう子供じゃねぇんだからな」
「殿下……」
「頼れよ。頼ってくれよ、少しは。俺はそんなに頼りないのか?」
そんな事は無い、そんな事はなかった。何せ殿下は紛れもなく俺の心の拠り所になってる。ただ巻き込めないだけなんだ。
「確かにお前は何でもできるよな。でもな、俺は力になりてぇんだよ、それでも」
殿下が辛そうな顔で言う。そんな表情をさせているのが自分だと思うと苦しかった。どうしようもなく苦しいんだ。おっさんだったら、こんな時どうしたんだろう?
「中身が違うって言うけどな、根本的なところは何一つ変わってない」
「へ?」
「一人で抱え込む。ま、それで解決しちまうのがお前だけど」
俺とおっさんが変わってない? 嘘だろう?
俺はおっさんとは違う。きっとおっさんは、俺みたいに、殿下に頼ってしまいたいなんて思わないだろうし、もっと格好いい……といいな。それに俺は、なんだってできたりしない。解決なんて今の所なに一つ出来ていない。
だけど。
「時計研究院を調べる」
おっさんごめん。
俺はやっぱり殿下のそばにいたいし、好きだからこそ頼る。それが信頼だと思うし、俺は好きな相手とは対等でいたい。頼り、頼られたい。今、殿下の言葉ではっきりと気づいた。ああ、ガウル王子に謝りに行かないとな。
「殿下、力を貸して欲しいんだ」
意を決して俺が言うと、短く息を飲んでから殿下が苦笑するように、だけど優しく笑ってくれた。
「ああ、この俺が力を貸してやるんだ、有難く思えよ」

王弟殿下回避作戦、撤回!

「ーーということで悪い、王子」
「……」
俺が謝りに行くと、ガウル王子が目を細めた。まぁ怒って当然か。
そう考えて、だけどそれを素直に受け止めようと思っていると、深々とため息を疲れた。
「それでこそライバルだな! おっさんだと侮っていたけど、ガイスのお前への気持ちは固いみたいだ。それでこそ、振り向かせる甲斐があるというものだ」
意外な言葉に、特に「気持ちが固い」の部分に、俺は柄でもなく照れそうになった。
「いいとしをした中年が照れるな! 気持ちが悪い」
こめかみに血管が浮きそうになり、俺の笑みが引きつった。
確かに我ながら気持ちが悪いかもしれない。
確実におっさんのイメージじゃないだろう。
「そういえばーー記憶は思い出せたか?」
耳を撫でながら、その時ガウル王子が言った。
「……俺が思い出したい記憶じゃなかったですけど、まぁ」
すると王子が考え込むような顔をした。
「深く鍵を開けすぎたのかもしれないな」
そして、今度は俺の両方のこめかみのところに手をかざした。
前回とは異なり、暖かい感覚がした。
「これはライバルへの餞別だからな」
ぶっきらぼう棒にそう言うと、王子が静かに目を伏せた。その双眸を見ていたら、唐突に睡魔が襲ってきた。眠い、すごく眠い。
「倒れるなよ、そこのソファで寝ていいから」
なんだかんだでこの王子様は優しいのかもしれない。
俺は素直にソファを借りることにした。

瞼を伏せた時、俺は神殿にいるおっさんを眺めていた。
おっさんは、いつか俺が見た黒い手帳に、走り書きをしている。これも俺が見たいと思った現実での記憶じゃなかったけど、見なければならないと直感が言う。思い出さなければならない。
「今の光景はなんだ?」
おっさんが、青い賢者の書を一瞥しながら呟いた。ゼクスの脳裏には、蹂躙された女の姿が映っていた。そして瞬きをするたびに、血に濡れた"俺"の姿が入り込んでいる。ーーその瞼の裏の"俺"の声が、不意に周囲に響いた。
「リリスは生きている」
「ッ、幻聴か?」
「違う。存在している。アダム・カドモンを永劫の眠りにつかせるために、子守唄を歌い続けているんだ」
その時周囲が闇に変わり"蛇"が姿を現した。
「人の子は知恵の樹の実を食べた」
「知恵の樹?」
「生命の樹と対をなす。イブの子孫だ。イブの子孫が受け継いでいる、その実の力を。リリスに対抗できるのはイブだ。人間はイブを、また生み出そうとしている。これは因果だ。だが、断ち切るべきものだ」
「どういう意味だ?」
「リリスの時計を壊せーーそしてアダムを目覚めさせる鐘を探してならしてくれ。俺は、会いたい。どうしても会いたいんだ」
「お前は誰だ。何者だ?」
「蛇の末裔だ。正確には、アダムを愛した思いの断片だ。俺の願いを聞き届けてくれたら、お前の望みを叶えよう」
「陛下を解放してくれるというのか」
「ーーそれはお前の本当の望みではないだろう?」
その時蛇が笑った。ゼクスが目を見開く。瞬間、十七歳の己の姿が脳裏を掠めた。
胸がざわつき、押し殺していた思いがこみ上げてくる。
ああ、あの日、何も見なければ、知らなければ。
なぜ陛下は俺に打ち明けた?
それからの運命に屈服した俺はきっと無様で滑稽だ。
ゼクスはそんな風に考えては来そうになったから、唇を片手で覆った。
気づくと祈っていたーー逃れたいと。
本当はもう限界だったのかもしれない。
「嗚呼、そうか。ああ、いいだろう。逃がしてやろう。成り代われる、すぐにでも。運命に傅く必要はない。俺は現実を変えたい、変える。お前が願うのとそれは同じだから」
その言葉を聞いた瞬間、ゼクスはハッとした。
そこはすでに、青い光に包まれた神殿で、まるで白昼夢だったように、そこにいるのが自分一人だと気がついた。手にしていた手帳に、反射的にメモを取る。

「今のは一体なんだ?」

おっさんは蛇のことを思ってそう言った。
そして、それを見ていた俺の言葉と重なった。
ああ、俺も我に返って目を覚ましていた。
「記憶を少しは思い出せたか?」
ガウル王子の声がした。現実感を取り戻した俺は、唇を噛んだ。乾いていた。
ーーおっさんは、蛇にあっていた。そしてあれは、蛇であって蛇じゃなかった。
蛇の末裔だったのだ。
その上、おっさんは……おっさんが、成り代わることを望んだのか?
やっぱり俺はおっさんのことがわからなくなった。

それから俺は、ガウル王子に礼を言ってから自室に戻った。
執務卓の上で手を組み、静かに目を伏せ唾液を嚥下する。
すると王弟殿下の顔が浮かんできた。
あれ、これは……いつか、運命の人を捜索していた時と同じ感覚だ。
王弟殿下の感情が入った記憶が、多分蘇る。
気づけば俺は固唾をのんで、それを持って見守っていたのだった。