知恵の樹!





ネリスに、アイトと、妹のトワの護衛を任せ、誰が来ても扉を開けるなとお願いした。それから、俺と殿下はソファに横並びに座り、正面には時計研究院の白い騎士服姿のシークが座った。
「こいつは信用できんのか?」
俺がティポットを傾け終わった時、単刀直入に王弟殿下が言った。
「あんたに信用されなくても別段構いませんがね」
「なんだと?」
「二人ともやめろ。殿下、信用できる相手です。それにシーク、煽るな、いい加減にしろ」
嘆息しながら告げると、2人が睨み合いながらも押し黙った。
なぜこんなに険悪なのだろう。先ほどまで敵味方だったというのもあるのかもしれないが、なんだか俺には別のところで争っているように見える。そうか、あれか、おっさんを巡る恋敵だからか。だが今はそんな話をしている場合じゃない。
「シーク、事情を話してくれ」
静かに告げてカップを手渡すと、彼が頷いた。
「国王陛下に関することはタブーですので、団長が知るところに任せて話します」
「兄上には何か秘密があるのか?」
王弟殿下が怪訝そうな顔をしたが、俺は目を細めて制止する。
「俺が知ってるからいいんだよ、ちょっと黙っててくれ」
「あのな……俺はこれでも実弟なんだぞ。国王陛下が、兄上が関わってるんなら、なおさら聞かないわけにはいかねぇだろ」
確かにそれはそうだなとは思う。同時に、シークがどこまで知っているのかも気になった。そもそも、自分自身がどこまで知っているのかも気になる。
「ーー王弟殿下なら、嫌という程ご存知だと思いますが、国王陛下は神の子であるから不死だと言われていますね」
シークがその時静かに言った。すると、王弟殿下が頷く。
「ただの民間伝承だと幼子でも知っているけどな」
「そうじゃないとしたら?」
「それこそ邪神の恩恵だろうな。吟遊詩人の詩のように」
「その通りです。生命の樹へと導いた蛇とリリスの子として、神であり蛇の子孫である国王陛下は、アダム・カドモンが目覚めるまでの間、永劫生と死を繰り返す運命にあるんです。それを断ち切るには、もう一人のアダムーーハポンの側のアダムの妻、イブの助力が必要だとシュリオーノ手稿には記載されていました。アダムはアダム・カドモンに似せて作られたーー宇宙と人がリンクするように、ミクロとマクロが相似するように、星は人であり、人は惑星である、そう手稿には記されています。だから成り代わりのアダムの妻は、アダム・カドモンにとっても、妻である、と」
俺にはなにを言っているんだかさっぱりわからなかった。
「イブを喚び、リリスの子守唄を止める。アダムの耳にリリスの声が入らないようにする。それが代々の国王陛下の望みだと、少なくとも俺が時計研究院に入った時から言い聞かせられてきました。アダム・カドモンが目を覚ませば、不死の因果から解放されるからと。王族は、神々の子孫でもあるから、誠に愛する者を識っているとされます。その者に会うために、"聖母"を捨てても起床するのだとか。そのために知恵の樹を創り出したんです。ただ不思議なことに、知恵の樹には果実がなるという話だったのに、生まれたのはこの鐘でしたけどね」
シークが続けてから、紅茶を静かに飲む。
俺はシークが机の上に置いた、小さな鐘を手にとった。
いつかーーアダムの目を覚ます鐘を探せと言われたことを思い出す。
「でもイブはこの世界にはいなかった。だからイブを人為的に作り出そうとしていたんです。何度も何度も"女"を狩って器にして。ようやく見つかったのが先ほどの」
「ならばあれは、兄上の命令だったのか?」
「少なくとも"今"の陛下ではありませんがね」
「ならば亡くなった父上か? 不死などではなかったぞ」
「陛下は時計研究院を除けば愛する者にしか知られたくはないようですので、申し上げられませんね。陛下は苦しんでおられるようですから」
そう言うとシークは俺を見た。
「自分勝手すぎて吐き気がしますがね」
そして俺は悟った。おっさんが知ってしまったのは、偶発的な事態なんかじゃなかったのだろうと。多分国王陛下の意思だ。そうしておっさんはその因果に縛り付けられたのだ。だけど果たしてそれは本当に、国王陛下の望みだったのか?
「ーー要するに、賢者の元にいるリリスという神の子を止めればいいんだな」
殿下が結論だけを述べた。
「よくはわからないがそれで兄上の苦しみは止まり、時計研究院は愚行に走らなくなるんだろ? そういうことならこの俺が力を貸してやろうじゃねぇか」
そのようにして、俺と王弟殿下は、賢者の元へと向かうことになったのだった。

ことの収集をはかってくるといって、シークは時計研究院に戻った。
だから俺は殿下と共に、赤闇の森を訪れた。
縦横無尽に木の根が波打ち生えていて、時折踏みそうになる。
するとその時、不意に殿下が俺の手を握った。
しわのある俺の冷たい手は、相変わらず分厚かったし、毛だって生えている。
だが殿下はそんなことを気にした様子もなく、ギュッと手力を込めた。
「転びそうになるからな」
「そんな子供じゃないんだから」
「中身は十七なんだろ? 俺から見たら十分子供なんだよ」
十七歳だって、手をつなぐような年じゃないと思う。だいたい俺はすでに二度もここへと訪れているのだ。そう思って反論しようとした瞬間、あっさりと木の根に躓きかけた。力強い殿下の暖かい手が、正直頼りになった。認めたくないけどな。
それからしばし歩くと、やはりあっさりと賢者の家は見つかった。
俺が足を進めると、殿下が急に立ち止まった。
「どこに行くんだ?」
「どこって、そこの家に」
「家? 崖だぞ」
怪訝そうな殿下の声に、俺は改めて賢者の小屋を見る。どこからどう見ても、木々の合間にそれはあった。そこでふと、シークが、『誰も賢者の庵にたどり着いたものはいない』と言っていたことを思い出した。もしかして俺以外には崖に見えんのかな? そりゃ誰もたどり着けないわけだ。俺が幻覚を見ているにではないと確信がある。
「大丈夫だ、行こう」
今度は俺が、王弟殿下の腕を引いた。すると、一瞬だけ戸惑ったような顔をした後、殿下がニヤリと笑った。
「ああ、分かった。お前と一緒ならどこにでも行ってやるよ。ありがたく思えよ?」
こうして俺は、殿下とともに賢者の家の扉を開けた。

「思ったよりも早かったね」

そこでは賢者の少年が、一人座って緑茶を飲んでいた。
殿下は唐突に変わった風景に驚いたように周囲を見回している。
「リリスを倒しに来たんだよね?」
率直に少年に言われて、俺は言葉につまった。
だが殿下ははっきりと頷いた。
「それで様々なことが解決するようだからな」
すると賢者が意地悪く笑った。
「いいの? そうしたら、もう今の成り代わっている"彼"はいなくなるけれど」
その言葉に俺は目を見開いた。それ、は。元の体に帰ることができるということなのか?
「運命の人も見つかったみたいだし、もう条件は見たしてるみたいだからね。僕はまで見つけることができないでいないから、帰ることはできないみたいだけれど」
笑っている賢者から視線をしらし、殿下の横顔を見る。すると、険しい顔をしていた。俺には答えが分かる気がした、聞かなくても。だって殿下が好きなのはおっさんで、おっさんが戻ってくるというのならば、そればきっと殿下にとっては幸せだ。
「運命の人だと? それは当然俺なんだろうな」
「さぁ?」
「成り代わりだろうがなんだろうが、ゼクスはゼクスだ。俺の中では変わらずたった一人だ。いなくなるだと? この俺がそんなことをさせると思ってんのか?」
殿下はそう言ってから、俺をじっと見た。強い眼光に、唾を飲む。
「いなくなるなんてゆるさねぇからな」
そんなことを言われても、俺は困った。俺は、元の体に帰りたいんだ。なのに、なのにだ。殿下とどうしようもなく離れたくない自分もいて、指先が震える。
「大体なんで、リリスを倒すと、いなくなるんだよ?」
「ガイス王弟殿下だね、貴方は。あなたも蛇に会えばわかるさ」
「蛇だと? それはどこにいる?」
「きっとアダム・カドモンの眠るすぐそばさーーそうだね、あるいはそれは生命の樹のすぐそばだ」
「現世の生命の樹なんかじゃないから、それは何処にでもあり何処にもない世界の果てにでもあるんじゃないのかな。とにかく君たちが今すべきなのは、選択することだ。リリスが子守唄を奏でるのを止めて別たれるか、今のまま二人で幸せに暮らすのか。僕はそんな未来があってもいいと思うんだ」
「そんなの決まってんだろ」
殿下はそういうと立ち上がった。そして体験を鞘から抜いた。まっすぐに、座っている賢者の成り代わりだという少年の首に切っ先を突きつける。
「リリスを倒す」
やはり殿下はその選択をしたのだなと、何処かで俺は誇らしく思い、そして何処かで落胆してもいた。殿下との別れの時が近づいているという寂寞。短い間だったけど、これまで二人で過ごした日々が蘇ってきたんだ。それが辛い。楽しい思い出があるのが、辛い。多分、楽しかったよな?
「そしてゼクスを下らない柵から解放して、笑わせてやる。勿論どこにも行かせずにな。今なんかよりもずっとずっとずっと笑えるように、この俺が手助けしてやるんだ。最強に頼りになるこの俺がな」
自信満々に言った殿下に、俺はぽかんとするしかない。
殿下が笑わせたいのはおっさんのはずなのに、今の言葉を聞いていたら、俺のことも笑わせてくれようとしている風に思えた。俺は笑ってなかったのか?
「安心しろ、絶対に俺が手を離さねぇから。どこにも行かせねぇ」
そう言った殿下の顔には、明るい笑みが浮かんでいた。
白詰草を探していた時のようなああ、これはおっさんの記憶なのに、今では俺の記憶だ。俺は殿下のこの優しい顔が、大好きだ。大好きになってしまった。
「行くぞ、リリスを倒しに」
殿下に手を取られ、俺は慌てて立ち上がった。湯のみが倒れたが、気にしない。
ただしっかりと頷くことに飲み注力した。
どんな結果になろうとも俺は、殿下にそう言ってもらって嬉しかったから。全力を尽くして、出来ることをする。そう決めたんだ。
「リリスはどこにいるんだ?」
「ーー案内するよ」
静かに俺たちのやりとりを見守っていた賢者が立ち上がった。
そうして俺たちは、奥の部屋へと通された。
そこは石造りの部屋で……時計研究院と同様に、床には十字架があった。ただしその向きは逆さまだったけれど。そして硝子の箱もへその緒もなく、ただ通王の宝石の上に、一人の女性が横たわっていた。胸の上で、手を組んでいる。
「リリスの器だよ。人工的なイブとは違って、中には確かにリリスがいる」
賢者はうっとりしたようにリリスを見ると、その頬に手で触れた。
瞬間、目を伏せたまま"リリス"がうっすらと口を開いた。
ラララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララ、ラ、ラーー同時にそんな絶叫が響き渡った。思わず両手で耳を塞ぎ、俺は目を見開いた。それは子守唄なんかには程遠い。永遠の死に聴く者を誘う歪な調べに他ならなかった。ララララララララララララララララララララララララララララララララララ、ラララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララーーああ、気が狂いそうだ。その音は活字となって俺の脳裏を埋め尽くし、色とりどりの本流となって意識を絡め取って行く。高い音がした。低い音がした。耳鳴りもした。ただ、それだけしか、俺の聴覚は認識しない。
キツく目を伏せれば涙が出た。
ああ、ああ、ああああ、これは、永遠にわかたれるーーわかたれた時に聞いた詩だ。目を開けると、涙がボロボロとこぼれてきた。
「ーー、ーー」
俺はきっとその時何かを叫んだ。けれどその声は骨を伝ってすら、頭の中に入っては来なかった。

「これが神の子か、何が神の子だよ、犯した罪を償って消えろ。尤も贖罪する時間なんてやらねぇけどな」

殿下の声で我に返ったのと、目の前で女性の白い喉に体験が突き刺さったのを見たのはほぼ同時だった。気づけば俺は、無意識にシークから渡された小さな鐘を握りしめ、何度も何度も引きつる喉で呼吸していた。
体験を殿下が引き抜いた瞬間、周囲に血が飛び散り、部屋の明かりが薄暗くなった。ああ、そこに横たわっていたのが、先ほどまでのリリスとは異なる人間なのだと、直感的に理解した。マシマジと見れば、この女性にもまたアイトのおもかげがある。きっと、母親だったのだろう。もう彼女は、ただの人だった。
「僕は言い忘れていたかな。例え王族であっても神殺しは重罪だって」
頬に浴びたちをぬぐいながら、少年が立ち上がった。
彼は興味深そうにこちらを見ている。
「ゼクスを守るためならいくらでも、罪も罰も受け入れてやる。たとえ地獄に堕とされようともな」
王弟殿下は唇の両端で弧を描き笑っていた。三日月が張り付いたみたいだ。ただしその瞳には肉食獣じみた強い力がこもっている。
その表情を見て、俺は何か大切なことを思い出しそうになった。
その、その。その、なんだ? 俺は今何を思い出そうとした? それはおっさんの記憶か、それとも俺のもの?
ーーそんな瞬間だった。
足元が突き上げられるような感覚がした。ハッとして息を飲めば地震がきたらしく、石造りの部屋の所々が、今にも崩れそうに揺れ始めていた。
パラパラと天井からは、小石が落ちてきて、見上げればそこには星の海に浮かんだ日本列島の姿があった。
「地震だ、避難するぞ!」
呆然としていた俺を引き寄せ、殿下が強い口調で言った。険しい眼差しをしている。ああ、逃げなければ、そう思った瞬間、賢者のことが気になって視線を向けた。賢者は落ち着いていた。
「アダム・カドモンが目覚めたんだ。この大地の下に眠っていた永遠の生命が」
「馬鹿なこっと言ってんじゃねぇぞ、ここだって崩れる。お前も早くこい!」
殿下が怒鳴ると、少年が吹き出すように笑った。
「僕は賢者の成り代わりで不死だから、死にはしない。もう、リリスが一人にならないようにそばにいようと決めていたんだ。君たちは行くといい。そして、アダムを夢から覚ますんだ。真の意味で起こすんだ。そのための鐘は、もう持っているみたいだね」
しばしの間逡巡するようにした後、殿下は少年から視線をそらし、俺の手首をきつく握った。
「逃げるぞ」
俺が頷く前に、強く腕を引かれたから、入り口まで走ることになった。
そうして二人で扉をくぐった直後だった。
どちらが先に息を飲んだのかはわからない。
俺はさらなる地震による転倒を、殿下にかばわれ抱きしめられてーーそれが現実だということはよくわかっていたが、脳裏をよぎった赤い瞳に、蛇の瞳に思考を絡め取られた。俺の手のひらの中では、ただ静かに鐘が、鳴り響いていたのだった。

そうしてーー気づくと俺は、闇の中に立っていたのだった。