蛇の末裔/アダム・カドモン


周囲に鐘の音が響き渡っている。
音がするたびに、闇の中に浮かんでいる歪な時計は、一つずつ一つずつ消えていく。これは、なんだろう?
俺は闇の中でただ見ていた。
真っ暗闇の中、本当の"俺"の顔をした蛇が、地に膝をつき、両手で顔を覆ってうつむいていた。その手は血に濡れていて、正面には大樹があるーー生命の樹だ。
ただ眺めていたら、不意に樹からすっと抜け出るようにして、一人の人物が蛇の前に立った。それは俺が以前に強い既視感を覚えたのに、誰なのか思い出せなかった相手でありーー今でははっきりと理解できる顔をしていた。どうして? どうして王弟殿下が、そこに立ってるんだよ? いや、違う。顔はそっくりだけど、浮かんでいる笑みは、国王陛下の柔らかな表情に似ていた。
「待たせたな」
静かに響いた声に、蛇はうつむいたまま硬直した。両手をゆっくりと話し、それから恐る恐ると言った調子で顔を上げる。見上げた。
「私を待っていてくれたのだな」
「……アダム・カドモン」
「ああ、そうだよ」
「アダム」
蛇は再度確認するように口にすると、立ち上がった。
そして怯えるように震えるてを、アダムに伸ばした。壊れ物に触れるような、綿雪に触れるような、そんな優しい動きだった。
しかしそに手が届く前に、アダムが蛇の腰に手を回し抱き寄せた。
「戻ったぞ」
「……」
「会いたかった」
アダムはそう言うと柔和に笑った。一方に蛇もーー笑っていた。泣きながら笑っていた。けれどそこに浮かぶ笑みは、どうしようもなく穏やかだった。いつか、ガウル王子の力で見せてもらった記憶の中の蛇の表情によく似ていた。

「ーーリリスの姿はもはやないのだな。我が子神の子たるアダムも、その肋骨から作られしイブもこの樹の下には不在だ。私たち二人だけが、これを見ている。いつかのいつもと同じように」

優しい声だった。笑みを返しながらけれど蛇は何度アダム・カドモンの死を嘆き、この眼前に広がる光景を返して欲しいと願ったのか、分からなくなった。二人だけの空間だ。そう、二人だけの。もはやアダムは眠らず、生命の樹による死と再生を繰り返すことはない。なぜならアダム・カドモンは生命の樹そのものでもあるのだから。そして蛇ももう成り代わる必要はない。脱皮した皮ーー子孫、それらも不要だ。不要なのだ。もう繰り返す必要はないのだから。

「リリスとの子を恨むな。リリスの子はまた私の子でもあり、私たちの子どもでもある」
「分かって……分かっているんだ」
「そうか。だから、知恵の樹の世界に逃したんだね。時に自身の器とし。そうだね、あの子らは、君の子孫であって、君自身なんだ」

俺は闇の中で、ただそれを見て、聞いて、感じていた。
生命の樹だけが輝き、正面の二人を照らし出している。

静かに見守っていると、不意にその光景が闇に溶けて消えた。
そして正面には、"俺"の顔をした蛇がただ一人で立っていた。

「我の願いは叶った」

蛇が、俺に言った。先ほどまでの嬉しそうな表情もまたかき消えていて、ただ静かに俺を見ていた。その瞳は黒い。赤ではなく、黒だった。
「鐘が鳴り、時計は瓦解した。繰り返しの時計は最早ない。だからもう、苦しむことはない」
それはそうなのかもしれない。あんな風に蛇は幸せな顔をしていたんだからな。

「だから知恵の樹のありし世界にて、我が断片にして兄弟の血肉、蛇の器に入っていた記憶などもう不要だろう? それとも、とうに無いか」

続いて響いた声に、俺は困惑して瞬きをした。

「主が生死の因果に巻き込まれたのは十七の時だったな。あの時関わらなければ、やり直せるならば、ありのままで生きられたならば、本来の愚かで醜く脆弱な自分自身をさらけ出し、そうであっても受け入れられる世界で楽しく生きることができたならーーお前は祈ったな、この世界にはありはしない現実を」

「待ってくれ、何の話だ……?」

「十七歳の、少年と青年の中間の齢ーーああ、あの世界ではそれを高校生と呼ぶんだったな。そう、そうだ、我が器がありし場所に、逃避し現実を変えた結果はどうだった? 結局、運命には逆らえず、恋い焦がれる者がいるこの世界に戻ってきた愚かな末裔よ」

ゾクリと背筋を怖気が這い上った。俺は、どうしようもない罪を犯した感覚に苛まれた。ドクンドクンと心臓が啼いては痛む。
「俺、は……十七歳の高校生で……」
「ああ、そうだったな」
蛇が楽しそうに哄笑した。唇が再び真っ赤になった。
「逃避し浸っていた現実の名だ。所詮は、蛇の目を使って見た幻想に過ぎないとはいえ、紛れもない現実だったはずだ。我もまた祈りを叶えた」
「どういう意味だ?」

「失われた、十七で手放した未来を、望んだだろう、主は。異なる世界の夢に浸り、起きてはこの現実だ。そしてお前は知っただろう? 失ったはずの二十代、お前が喪失していたと感じていたその時に、主は確かに様々な者の現実を変えていたんだ。無意味な二十代なんかじゃなかった。例え主にとっては、忘れたく逃れたく速すぎた現実だったとしても。他者の記憶を見せてやっただろう、気持ちがこもった想いを含めて」

「待ってくれ、それは俺じゃない。おっさんのーー……ッ」
その時、俺は思い出した。


ああ、そうだ。俺は、祈ったんだ。変えられない残酷な現実から逃げたいと。


蛇は俺にやり直す時間をくれたんだ。繰り返す体と増殖する子孫を器にして。
その一つが、あの現代日本という世界の高校生の体で、俺はそこに成り代わり、そうして戻ったんだ。受け入れられない現実の記憶を置き去りにして、ただの高校生として。そうか、俺は、高校生なんかじゃなかったんだ。おっさん……はは、おっさんか。俺は、ああ、そうだ俺は、俺がーーゼクス=フェミリアだ。
格好良くも何ともない。
ただのどこにでもいる一人の、老いに追いかけられただけの人間だったのだ。

「陛下は、陛下はどうなるんだ? 生命の樹はまだ在るんだろう」
「アダム・カドモンが目覚めた今、最早リリスがいない今、生と死を繰り返すことはなくなる。我がアダムとともにいる限り」
「陛下はもう、死を繰り返さずに生きていけるのか」
「そうだ」
「ならば俺はもう、」
「嗚呼、主の望みは、本心では王が因果から解放されることではなく、己が解放されることだったな。それは果たされる、果たされている。好きに生きろ」

蛇はそう言って笑うと、瞬きをした。
一瞬だけそこに赤い光が宿ったが、それはすぐにまた黒く戻った。
そのまま周囲は再び闇に包まれーー俺はそれが自身のまぶたの裏側だと気がついた。体は暖かい温もりに抱きしめられていた。力強い。たくましいというのが相応しいのかもしれない。


「なんで急に地震なんてーーおい、ゼクス、大丈夫か?」


俺はその声を、長い夢から覚めたような感覚で聞いていた。
ぼんやりと己の手を見れば、やはり分厚かったが、もう違和感なんてどこにもない。これは、俺の手だ。お世辞にも綺麗とは言えない。だが忘れていたとはいえ、自分が抱いた感想に笑ってしまう。旗から見ればそんなに俺はひどかったのか。
「ええ。殿下こそお怪我はありませんか?」
「あ、ああ……おい、お前」
「何か?」
「ゼクス、だな」
「何を当然のことを」
告げながら、苦笑が浮かんでくるのを止められない。
運命の人、か。ああ、それが、殿下であればいいというのも、俺の願いの中に入っていたのだろうか。俺の顔だとばかり思っていた蛇の子孫の顔は、殿下によく似た神に恋をしていたのだから、ただ趣味が似ているだけなのか。
いや表情が違ったから、それはないか。
「ーー十七歳なんじゃなかったのか?」
「蛇に幻想を見せられていたようです」
我ながら馬鹿げたような真実を告げ、まだ俺を抱きしめている殿下の顔を見た。
「じゃ、蛇に感謝だな」
「え?」
「お前のちゃんとした笑顔、久しぶりに見てる。苦笑っていうのがイマイチだけどな」
顔を背けた王弟殿下を見て、俺は吹き出すように笑った。
「変えられない現実から逃れられないなんて勘違いをしていた自分が可笑しいんだ。殿下にも散々現実を変えろなんて言っておきながら」
「なんだそれは? まぁ……地震が収まってよかったな。この小屋が大丈夫ってことは、外の被害もひどくないだろう」
「確認に行きましょう。他にも確認しなければならないことがありますから」


それから俺たちは城へと戻った。
帰路の間も、地震など無かった様子で、街はいつもどおりの姿をしていた。
俺はもう物珍しいとも思わず、この光景を知っている。
見慣れた景色だ。
通りに布製の屋根を張り、並ぶ露店。木の籠の中に山を築き落ちそうになっている赤い林檎、オレンジ、パプリカ。
思い返せば嘗てはただの灰色な風景にしか過ぎなかった街の生き生きとした姿を思い出させてくれたのは、何も知らない、別の世界を己のものだとしていた十七歳の視点を蛇が与えてくれたからなのかもしれない。
今では世界の全てが愛おしいーーだから。
俺は一つだけ早急に確かめたかった。
城の裏手の神殿の下層にある生命の樹の現状をだ。あれがある限りは、まだ俺は偽りの幸せを手にしているだけなのかもしれないから。


王弟殿下を伴い神殿へと行くと、そこには国王陛下の姿があった。
「兄上、ここで何を?」
「ガイス、ちょっとね……亡霊の末路を見ていたんだよ。全ては時期に消え、一つになるーー一つになるから、もう変わることはない」
「どういうことだ?」
王弟殿下はわけがわからないと言った顔をしていたが、俺は陛下の手がレリーフに触れているのをしっかりと見た。以前に入口があった場所は、もう開かない。
きっと……陛下は解放されたのだろう。
死と生の因果から。






嗚呼ーーこうして四巻五巻によく似た、神々年代記は、終わるのだ。
終:世界


「ああ、紅毒蛇の切り裂き魔としての余も消えーー統合されるのか」

何処かで砂になった一つの体は崩れて消えて、ただカランと仮面だけが地に落ちた。