いつもの俺!




俺は"いつも"の酒屋へとやって来た。そうだ、ここは確かに俺がスラムに来るたびに確かに足を運んだ場所だったのだ。木の樽を模したジョッキに入った麦酒を手に、隣を見れば何時もの通り頭にバンダナを巻いたシークが座っている。
「まさか、時計研究院に所属しているとはな」
「愛ですよ」
苦笑が浮かんできたから俺は喉で笑って、目を伏せながら麦酒を飲む。
酒屋に来たことがないなどと思っていたことが懐かしくさえ思えた。
俺は蛇に、この世界から逃れたいと願って、蛇の子孫がいたハポンで、子孫の体を借りてコウコウセイ生活を送っていたらしい。勿論そのままそちらで暮らす未来もあったのかもしれない。だが、賢者は、おそらく本物の賢者は俺に、蛇の子孫の顔で、愛しい人がいるのだと冗談めかして告げさせた。
そして賢者のなり代わりだという少年は、俺に運命の人がいることを教えてくれた。実際に、運命の人がいるのかなど、今となってはわからないが、あるいは確信したい思いもあるが、今こうしてこの世界で呼吸していることに俺は満足している。
「ゼクス団長は本当に変わりましたね」
「そうか。俺は変わったか」
「悔しいことに俺は、団長が笑ってる顔なんて見た事がなかったんです」
多分俺は、笑うことが許されないと思って生きていたのだ。滑稽だと思う。結局のところ、殿下に助力を願ってあっさり解決した。勿論、アイトとの出会いも契機にはなったのだろうが。そんなことを考えながら傾けた麦酒は冷たくて、炭酸が喉を癒して行く。
「お前がまだあの十字架を持っているとは思わなかった」
「ーー俺にとっては、あの十字架は信仰の再開の証ですからね」
「なぜあれを棺から解放する鍵にしたんだ?」
「眠るのが神の子の器だからとでも、団長に信仰を取り戻させたかったからとでも、何とでも好きに考えてください。案外、意味なんてないかもしれませんよ」
「いつの間に俺の服に入れたんだ?」
「最近、妙に無防備だったじゃありませんか。団長がラキの家から出てきてフラフラしてる時に、すれ違ったの、気づきませんでした? 普段なら考えられない」
確かに俺は無防備だったかもしれない。なにせこの世界がどんな世界かすら忘れていたのだから。そもそもシークはスリがお手の物なのだから逆だって得意だろう。
まぁ、なんにしろだ。
「助かった」
素直にそう告げると、シークが息を飲んだ。
「め、ずらしいです、ね」
ぎこちない返答が返ってきたから、ジョッキに口をつけたまま視線を向ける。
しかしそのまま、シークは黙ってしまった。
何度も何度も視線を揺らして、時折俺を見る。
それから意を決したように、口を開いた。
「少しは、力になれましたか?」
その言葉に俺は思わず笑ってしまった。自然と頬が持ち上がる。
「ああ。それに、今までだってずっと、力を貸してもらっていた」
俺がそう言うと、シークが一気に酒を煽った。
「これからも頼りにしている」
続けた瞬間、シークがむせた。
「反則ですよ団長……俺が惚れてるって知ってるくせに」
思わず声交じりに笑ってから、俺はその日は、シークと飲み明かした。

翌日からは、いや、翌日からも俺には普段通りの生活が戻ってきた。
流石に陛下の後ろに立つのは辞退したままだが、それは、もう常に見守る必要がないのだという、一つの明るい結果だった。陛下は、少年を謁見の間に連れ込むのはやめたらしいが、それはまだこの目では確認していない。
王弟殿下はといえば、あの後すぐに、北方貴族の反乱を収めるために出立した。
こうして思い返してみれば、ガイス殿下は、本当に戦場に出ていることが多い。
いちいち心配するこちらの身にもなれ、だなんて考えるようになったのは、多分俺の進歩だ。この歳になっても成長するということに俺は気が付いた。

殿下の凱旋が明日だと聞いたその日、俺は執務室で羽ペンを走らせていた。
明日が待ち遠しくないと言えば嘘だった。
だからこそ仕事に集中していたのだ。浮き足立つ内心を抑えようと必死だった。
「入るぞ」
扉が開いてから声がかかったのはその時のことだった。
こんな入り方をしてくるのは、もちろん一人しかいない。
「王弟殿下、声をかけてから扉を開けていただけますか。それも、もう少し静かに丁寧に」
「せっかく凱旋行進の前に早馬で来てやったっていうのに、なんだよその言い草は」
「堂々と王都サイプレスに凱旋して下さい」
「聴衆の歓声よりも、国王陛下からの言祝ぎよりも、お前を最優先してやったんだぞ、この俺が。感謝してひれ伏すくらいしてもいいんじゃねぇのか」
「あいにく執務中ですので」
そう入ったものに、本当は顔が見たくて仕方がなかったのかもしれない。そんな気分になる程度には、心臓が嫌に騒いでいた。
ーー運命の人。
そんな単語が脳裏をグルグルと巡って行く。自分が高校生だと信じて疑わなかった己が、勝手に運命の相手だと認定したのが、殿下だ。あの時見た殿下の記憶は、本物だったのだろうか。蛇が見せてくれたというあの夢は。
「お前変わったよな」
「最近よく言われます」
「いや違うな、昔に戻ったのか」
一人頷きながら殿下が口にした。
改めて言われればそうなのかもしれない。今の俺は、純粋に殿下のことを賞賛できるし、ごく普通に言葉を交わして、正面からその顔を見る事ができるのだ。
「俺はお前の笑顔が好きだぞ」
確かに最近の俺は、自分でも良く笑うようになったと自覚している。自然とこぼれてくるのだ。たったの、一月にも見たないだろうの経験が、ー俺の表情筋を鍛えたのかーー世界の見方を変えてくれたのか。後者だと俺は信じている。今の俺は、俺IN俺だ。年相応だと願いたい思考回路が戻っても、俺の中には、やはり殿下と口づけをした十七歳のコウコウセイの記憶も思いもきちんとあるのだ。
自分自身のことをライバルだなんて考えていたことを思い出せば思わず笑ってしまう。結局怯えていようがなかろうが、俺は殿下に惹かれるらしい。押し殺していたことが馬鹿馬鹿しい。今だって身分違いと言われればそれまでなのだが。
「俺も殿下の笑った顔は好きだ。きちんと凱旋報告してくれればなおさらいいと思いますが」
「どうしても一刻も早くお前に会いたかったんだよ」
言われて悪い気はしなかった。率直に言えば嬉しい。だが、だがだ。
「凱旋パレードも重要な仕事です。朝が来る前に、本隊に合流してください」
「お前は微塵も俺に会いたくなかったのか?」
「ッ」
「会いたかったんだろ? いえよ、正直に」
言葉に詰まるしかない俺に、ニヤリと笑って殿下が詰め寄ってきた。
「お前の表情どれだけ観察してたと思ってるんだよ。前にも言わなかったか?」
「俺の表情が何か語っているんですか?」
「無事でよかった」
「……そんなの誰だって思うことでしょう」
「図星か。本当なら、誰にでもじゃなく、お前にそう思われてるから価値があるんだぞ。俺も少しは自惚れてもいいのか?」
殿下はそう言うと唇と唇が触れ合いそうな距離まで顔を近づけた。
「俺のこと心配しただろ?」
「何故ですか?」
質問に質問で返すのがずるいことは知っている。
けれど俺は本心を押し殺すように黙秘した。同時に、嘆息しながら告げる。
「お強い殿下ならば、無事にご帰還あそばすと信じておりました」
これも全くの嘘というわけではない。
ただ口調が仰々しくなってしまった。王族と臣下の溝が浮き彫りになる瞬間だ。
「よくわかってんじゃねぇか。まぁ……俺はいくらお前が強くても心配するけどな」
「光栄ですーー疲れているだろう、さっさと今日は休んで明日の朝でろ」
「お前のベッド貸せよ」
「騎士団の官舎へ行って好きに使ってください」
「隣の部屋、街に家を斡旋してやって開けたんだろ?」
「ええ。ではその部屋でごゆっくり」
「討伐帰りだから昂ぶってるんだよ、俺は」
「花街に連絡をいれましょうか」
「あのな……仮に昂ぶってなかったとしても、だ。俺がお前以外とすると思うのかよ?」
「腕を磨いていたそうではありませんか」
「あー? んだよそれは、あれか、嫉妬か」
「誰が」
俺が吐き捨てるように笑うと、殿下の笑みが引きつった。
「俺も昔は若かったんだよ。二十代の頃はな」
「昔話と説教を始めるようになったら、おっさんだな」
「うるせぇ。説教はお前だろうが、ゼクス。なにせ十代の頃から、お前と来たら」
「あれは説教じゃなく、殿下が危ないことばかりしていたからだ」
「子供だったからな、判別がつかなかったんだ。ああ、悪いか? 逆に言わせてもらえば、お前なんていい歳して単独行動、で、危ない目にどんだけあってんだよ」
確かに返す言葉はない。それは事実だ。しかし黙っている訳にはいかない。もう昔の俺とは違うのだ。無言を貫き通したりはしない。
「危機回避には長けている。子供じゃないからな」
「俺だってもう子供じゃない」
「だったらさっさと本隊へ帰るか、寝るかしろ。明日は殿下のための凱旋パレードだぞ」
強めに言うと、殿下が忌々しそうな顔で唇を噛んだ。
「あのな、好きなやつの顔見たいと思って何が悪ぃんだよ?」
真っ直ぐすぎるその言葉に息を飲む。
殿下はといえば、直後にハッとしたような顔をしてから、顔を背けた。
口元に浮かんだ苦笑が見える。
「ま、まぁ……まだまだ俺じゃ告白してもダメか」
焦ったような声を聞いていたら、まるで春の日差しが染み入るように、胸が温かくなった。
「そんなことはありませんよ」
「!」
殿下が目を見開く。そしてじっと俺を見た後、机に手をつき、さらに俺に顔を近づけた。
「ーー本気にするぞ。いや、本気にしたからな、もう」
その言葉に吹き出すように笑ってから、俺は双眸を伏せた。
殿下の唇が降ってきたのは、その直後のことだった。