2 名前がない僕。
エースと名乗った旅人が、街へとーー瞬間移動した。
あの様な技法ができて、魔術師じゃないはずがない。僕は、タイミングを探っていた手のひらのナイフを、静かに降ろした。
ーーそもそも、僕の名前は、ナイじゃなく、存在しない、無いなのに。
頭が悪いのか、バカにされたのかはよくわからない。
そもそも現れた時から、彼はおかしかった。
帰宅するまでの合間に、ごくたまに僕が休みに来るこの場所へ、まるで降って湧いたかのように現れたのだ。それこそ瞬間移動だなんて言うものとも全然違って、急にそこに、存在を始めたみたいだった。主人の敵の魔術師かと思って、木にピタリと背を預け、暗殺するタイミングをはかる。だがその前で、手を握ったり開いたり、足で飛び跳ねたり、不気味な笑い声を発したりしているのを見ていたら、機会を逃した。そんなことは初めてだった。
気づかれないように視線を向けると、土に何か書いているのが分かった。
魔法陣を使うということはかなりの高威力の魔術のはずだし、使えるということは相当な手練れだということに思えた。殺るのならば、いまだ。
そう思って、ナイフを四本ずつ、両手の指の間に挟んだ時だった。
ーー膨大な魔力が満ち溢れ、息苦しくなって、動けなくなった。
気づかれたのかな?
恐怖というよりも緊張感で背筋が凍り、反射的に木の裏まで退避していた。
だが何をされるわけでもなかったので一瞥すると、いつからあったのか、最初からあったのかよくわからないカバンをかけた背の高い青年は、顔を隠したまま、何事かつぶやいていた。
これはーー……動けば恐らく見つかるし、もう見つかっているのかもしれない。
どちらにしろ、こちらから今、この位置から殺すのは無理に思えた。
それでも目的くらいは知らなければ。
しかし、彼は名乗って会話すると、去って行った。
何がしたかったのかも、何が目的だったのかも、よくわからない。
これは、主人に報告して改めて命令してもらわなければならない。
僕は少し歩いて、すぐ真正面にあった城壁に手を添えた。
帰還用の魔法陣が手の甲で光る。
普段は透過の魔術がかかっているらしいけど、発動すると青緑色に光るんだ。
それから僕は吸い込まれるようにして、闇に飲まれ、次に目を開けた時には豪奢な部屋にいた。赤ワイン色の絨毯が敷かれていて、奥には天蓋付きの大きな寝台しかない。逆側の壁には酒の入るチェストと、大きな鏡がある。他は窓だけだ。
ここは僕の主人、ラプソディ様が、奴隷向けに与えてくださった部屋の一つだ。
「っ、ん、ぁ、あああっ、ぅあ」
実際ひっきりなしに嬌声が響いてくる。
「ひゃっ……あ……」
性奴隷の中で動きを止めた様子で、ラプソディ様が僕を見た。
「マルディーニ伯爵家はどうだった?」
「伯爵様はワインに入れた毒でお亡くなりになりました」
「ナイフは使わなかったのかい?」
「……」使えだなんて、言われなかった。
「悪い子だ。私は伯爵の喉を切ってもがき苦しませろとは言わなかったかな?」
「もうしわけ、ありませーー」
最後まで言わせてもらえず、明るい声で嘲笑される。
ラプソディ様は、僕の主人は、このナジード王国第五王位継承者だ。
現国王陛下の弟で、第三王子だったらしい。
三十代前半なのだが、よくぞここまでもったと医術師や薬師に感動されるほど、元からお体が弱かったそうだ。そのため、城の離れのこの塔で、一人生活をしているんだ。僕みたいな奴隷がいるのも、公然の秘密みたい。
「そろそろ君を性奴隷に作り変えて、新しい暗殺奴隷を買ってこようかな」
「……」御心のままに、というべきなのだろう。多分。
「もしかしてそっちのほうがよくなっちゃったのかな? 見ているうちに」
そんなはずがなかった。
ただ体を投げ出しているのですめばいいが、そうはならないと僕は知っている。
僕は五歳からここにいるけど、性奴隷の人が、無事な身体で出て行ったことなどほとんどない。歯を抜かれるだけならまだいい方だ。
「……」
しかし否定しても肯定しても反論されるから、何も言わないべきだ。
「ごめんなさい、は?」
「……申し訳ありませんでした」さっき言おうとしたのに。
僕は無表情のまま頭を垂れた。