14 抱きしめられた僕


僕は幼い頃祖父が亡くなってから、誰かに抱きしめられた事なんて一度もなかった。
驚いて息をのんだが、僕の肩に顎を預けているエースには気づかれなかったらしい。
自分とは異なる体温が不思議で、ゆっくりと一度僕は瞬きをした。
着やせするのか、思いの外エースの胸は厚い。
僕はそこに額を押しつけられるようにして、ギュッと抱きしめられたのだ。
――なんだろう、ずっとこうしていて欲しい気がする。
だが、そんなのおかしいと思って、僕は「離して」と伝えた。

それから鏡を渡した。これならば、今度こそエースは自分が気持ち悪い表情をしているときに気づいてくれると思うのだ。前の鏡は小さすぎるから駄目だったんだと思う。

そうして一緒のベッドに、僕らは入った。
これまでは一切気にならなかったのに、先ほどの腕の温度と、隣で眠っているエースの温度が同じだって気がついたら、急に僕は恥ずかしくなった。ソファにいって眠ろうかとも思うが、この温度が安心感をもたらしてくれる気がして、離れがたい。

エースは寂しかったと言っていた。
何故僕がいないと寂しいのだろう。元々エースは一人で住んでいたのだし。僕はいまいち寂しいという感情が分からない。僕はエースが昼間露店に出かけても、全く平気だ。だって、帰ってくるのだから。
僕はそんなことを考えながら、寝た。あんまりよく眠れなかった。そして何かの乗り物に乗っていて、何かにぶつかって、グシャって潰れた夢を見た。気分が悪かった。この夢は昔からたまに見るんだ。今までは怖かったのだが、現在はエースが横で寝ているから、怖くない。僕はそんなとき、起こさないようにエースの服をつかむのである。


翌朝。
「なぁ、ナイ」
朝食を食べていると、エースが改まるようにして、僕の名前を呼んだ。
何事だろうかと思って首を傾げながら、オムレツに伸ばしていた手を止める。
「何?」
「一緒にいてくれないか?」
「いいよ。売り子はしたことがないけど」
「いやそうじゃなくて……そ、のだな、あの、仕事やめてくれないか?」
「……どうして?」
あの仕事が無くなってしまったら、僕は収入が無くなる。それに他の仕事が見つかるとも思えない。なんでエースはこんな事を言うのだろう。
「夜、ずっと一緒にいて欲しいんだ。ナイがいないと、俺は――辛いんだよ」
何故辛いのだろう。僕にはよく分からない。
「じ、時給なら払うから!!」
「それは、僕を雇いたいって言うこと? それなら、命令の指輪で何でも言えばいいのに」
実際に何でも言われたら困るわけだけれど、このくらいのお願いなら、別段構わない。
エースは今までに一度も、僕に指輪の効力で命令をしたことはない。
いつかエースが指輪を使う日が来たら、どんな風に使うんだろう。
「命令じゃなくて……ただのお願いだ」
「そう」
「頼むから、仕事を辞めてくれ。今日にでも」
「……分かった。今日仕事に行ったら、やめるって言ってくるよ」
ただ、エースに何かをお願いされたのは、今回が初めてだったから、僕は頷くことにした。
僕は最近思う。
エースに何かお返しをしたいな、って。


「まぁ、やめちゃうのぉ? 考えなおしてもらえないかしら」

やめると言ったら、店長が頬に手を当てながら、悲しそうな顔をした。今日もひげが伸びている。朝にそっても、夕方になるとのびてきてしまうらしい。だったらお店が始まる直前にひげを剃ればいいのにと言ったら、閉店の頃にはまたのびてきてしまうのだと言って泣かれた。その時とそっくりな表情で、店長が言う。

「貴方は今、この店一番の稼ぎ頭なのよっ!! 大人気!! 私の目に狂いはなかったの!!」
「……」
「だけど、急にどうしたのぉ? なになに、好きな人でも出来ちゃった? お客様との恋愛は禁止よぉ?」
「そういうんじゃないです。エースが……その、一緒に暮らしてる人が――」
「まっ。この前来てた男の子はやっぱり彼氏なのね? 羨ましいわッ、あんなにすてきな彼氏がいるなんて」
「カレシ?」
「恋人なんでしょぉ?」
「恋人……あの、僕もエースも男です」
「あらっ、好きって言う気持ちに、性別は関係ないのよッ!!」

そう言うものなのだろうか。世間は広いんだなと僕は思った。ラプソティ様は確かに男にしか興味がなかったけど、そこに恋心とか愛とか、そう言ったものは無かったようだったし。僕も、そういう感情は知らない。これまでに誰かを好きになったことなんて無い。エースのことは……まぁ、多分、そう言う意味合いじゃないけど、好きかもしれないが。それにしても恋人のことを、カレシというのか。僕は知らなかった。帰ったらエースに、カレシはいるのか聞いてみよう。

「いつから付き合ってるの?」
「付き合ってません。カレシじゃないです」
「まッ、貴方みたいに綺麗な子が片思い? まぁ、彼が相手なら納得も行くわ……なにせ、今じゃ三百人くらいの取り巻きがいるものね。彼の露店には、彼と一言話すだけで良いという男性客が溢れかえっているもの」
「――え?」
「ちょっと犯し尽くして泣かせたくなる顔立ちよねぇ。私もキュンとしちゃうわ。だけど勿論ナイちゃんを応援してるわっ」

僕は店長が言っている意味がよく分からなかった。
ただラプソティ様も狙っていたし、エースは優しくてちょっと馬鹿で隙だらけだし、顔のことは気持ち悪いとき以外は確かにまぁ……格好いいのだろうか、よく分からないけど、そう悪くはないと思う。普通なんじゃないだろうか。僕とは違う。僕は全くモテないから、きっと醜いのだろう。

「とにかく、今日で辞めます」
「まぁそういう事情なら、しょうがないわね。頑張ってね」
「……」
「押して押して押して押して押して押しまくるのよっ!!」

僕は何を押せばいいのだろうか。そして何をどう頑張れというのだろう。
よく分からなかったが、僕はその日、無事に仕事を辞めることが出来た。
それから帰宅すると、エースが走り寄ってきた。

「辞めてきたか?」
「うん」
「良かった!!」

そう言ったエースは、再び僕のことを抱きしめた。
なんだかその温もりがくすぐったくて、僕は思わず照れてしまった。エースは人に抱きつくのが好きなのだろうか。三百人も男性客が来るって言うし、もしかしてみんなに抱きついているのだろうか? エースの体温は心地良いから、そのせいでみんなが来ているのかもしれない。

なんだかそう考えたら、僕は胸が苦しくなったのだった。