【六】天草クリニック
翌日の午後、僕は小雨が降る中、黒い傘をさして歩道を歩いて行った。そして目的地であるビルの二階、天草クリニックへと向かう。エレベーターを降りてクリニックの扉を開け、僕はよい匂いのする加湿器を一瞥した。観葉植物の緑が落ち着く。
ここの医師の天草京史郎(あまくさきょうしろう)先生は、国内でも数少ない探偵機構認定医だ。主に探偵才能児の判定や、探偵と助手へのカウンセリング、事件被害者の診察などを行う精神科の中の専門医である。僕は日本に帰ってきてから、ずっとこちらへ通っている。留学前にも半年ほど、このクリニックに入院していた。ビルの三階から七階までは入院病棟だ。
受付をしてから、待合室の白いソファに座り、僕はタブレットを見ていた。
犯罪事件マッチングアプリをタップしながら、何かいい事件がないかと探していた。
事件を探すのは、まるで事件の発生を祈っているようで、僕はあまりいい気がしない。けれど、僕は山縣のために、日々依頼を探している。山縣は、現在周囲にもダメ探偵の烙印を押されている。僕はそれを払しょくしたい。実際にダメ探偵であるから、少しでも僕の力で前向きにさせたい。それも、探偵才能児だったというのならば、僕次第で山縣は、もっと探偵として活躍できるはずだ。探偵才能児は、特別なのだから。
「朝倉さん、どうぞ」
その時、第一診察室が開いて、黒縁眼鏡の医師が、僕に声をかけた。顔を上げて、僕は天草先生を見る。年齢は三十代前半で、いつも白衣姿だ。
慌てて診察室へと向かい、僕は扉が閉まるのと同時に、促されて椅子へと座った。
「最近はどう?」
天草先生が、微笑しながら僕に聞いた。僕は苦笑を返す。
「全然ダメです。変わりありません」
ちなみにこれは、山縣の事ではない。
――実は僕は、十六歳から十八歳直前までの、即ち高校二年生から三年生の後半までの記憶が欠落している。留学する直前に、ある日このクリニックの病室で我を取り戻した。僕は高校二年の十六歳のある日の記憶……前期末テストの結果を見ていた後から、病室で目を覚ますまでの間の記憶が、すっぽりと抜けている。記憶喪失だ。
「そう。焦る事はないよ。ゆっくり向き合っていこう」
天草先生は頷くと、電子カルテに記入を始めた。
僕は頷きつつも、やるせない気持ちになる。
僕が記憶喪失になった理由は――世界探偵機構指定極秘事件Sに分類される、特殊な事件のせいらしい。その分類の事件は、実際の関係者……たとえば仮に被害者であっても、資料を閲覧する事は禁止されている。だから僕は、僕がどんな事件でどんな目に遭って、なぜ記憶を喪失するに至ったのかを、知らない、世界には、犯罪が溢れている。だが、Sランクの事件は、決して多くはない。
記憶にある僕の自分の生い立ちは、物心がついてからは、ほぼ助手としての勉強の事ばかりだ。裕福な実家に生まれ、幼少時からピアノと語学を習っていた僕は、小学校入学前の全国一斉検査で、助手としての適性が明らかになった。そこで両親の勧めもあり、小学校から、助手育成を専門としている名門校へと進学した。そして中等部からはより専門的な助手教育を受け、難関の進学試験に合格し、高等部へと進学した。学業成績も助手としての技能も、僕は首席だった。運動も得意な方だった。二期制で、単位制の梓馬学園においても、僕は一目おかれる存在だった。逆にそのせいで、気心がしれた友人はできなかったのだが、かといって仲間外れにされていたというような事もない。
ただ助手を育成する学園だったから、運命の相手がより優秀である者は、自慢げにしていた事を覚えている。運命の探偵は、早い者ならば中等部の内には判明する。僕はその中にあって、探偵が見つからず、そういう意味では劣等感があったようにも思う。だからこそ、いつか自分だけの探偵が見つかった時には、存分に己の力を発揮し、役に立ちたいと思っていた。助手同士は、ある種のライバルだ。それは探偵同士も同じだろう。
しかし僕は、事件に巻き込まれて記憶を失ったらしい。そして極秘事件であるため、周囲の助手教育を受けていた級友は、緘口令がしかれていたようで、僕がそれとなく尋ねても、決して口を開かない。扱いは休学になっていたが、僕は復帰する気にはなれなかったし、周囲の勧めで留学する事にした。なお家族も事件については、決して僕には教えてくれなかった。だが留学先で僕は、新たな友人を得たし、記憶がない事から来る不安も次第に消失し、改めて自分だけの探偵のために、頑張ろうと決意できた。
『運命の探偵と引き合わせたいから、帰国してほしい』
そんな知らせが届いた二十三歳の冬には、僕は歓喜した。
だが、春になって引き合わせられた相手は、繰り返すが山縣である。今年、僕と山縣は、ともに二十四歳になるが、果たしてどちらかが誕生日を迎える前に、一つでも事件を解決できるのか、僕は疑問だ。
「じゃあ、また来月に」
天草先生の言葉で我に返り、僕は頷いた。