【十七】夏の終わり
水曜日が訪れた。本日も、朝目が覚めると山縣はいなかった。僕は俯きつつ来客の準備をし、待ち合わせの時刻になったインターフォンを見た。そこには日向と――一人の青年が立っていた。山縣のブレザーと同じ服を着ているから、彼が日向の運命の探偵の、御堂さんなのだろう。
「ようこそ」
僕は微笑し、エントランスで出迎えた。すると日向が頷き、御堂さんが会釈した。
「御堂です。よろしく」
「よろしくお願いします」
「会えて光栄だよ。それにしても山縣の助手が、こんなに美人だとはね」
「美人って、男に言う言葉じゃないのでは?」
冗談めかして放たれた言葉に、僕は吹き出した。
すると日向と御堂さんが顔を見合わせた。
その後僕は、二人をリビングまで誘い、珈琲の入るカップをそこに置いた。自分は対面する席に座す。そして改めて二人を見た時、御堂さんが目を細めて笑った。
「そのキスマークは、山縣が?」
「!」
ビクリとして、僕は咄嗟に首元を押さえた。昨日痕をつけられた覚えがある。
「冗談だよ。キスマークは、その服だと少なくとも見えない」
すると御堂さんが、クスクスと笑った。僕は瞬時に赤面した。
「へぇ。でもそうなんだ。噂の天才高校生探偵と、朝倉がねぇ。ふぅん。俺、びっくりしちゃったよ」
シラっとした顔をして、日向に言われたものだから、僕はより一層赤面した。
その時、エントランスの扉が開く音がして、少しするとリビングのドアが開いた。
見ればネクタイを緩めながら、山縣が入ってきたところだった。
「おい、靴が――……御堂? なんでお前がここに?」
山縣が御堂さんを見ると、眉を顰めた。
「君の助手を見に来たんだよ。すごい美人で驚いた」
「ま、こいつの取柄は顔だけだからな」
そんなやりとりをしている二人に、いたたまれない気持ちになりながら、僕は山縣の分の珈琲を淹れるために立ち上がった。そしてそれをもってリビングへと戻り、僕は山縣の隣に座る。
「ところで、探偵機構主催の親睦会を兼ねたキャンプ、行くか?」
御堂さんの声に、僕は思わず山縣を見た。招かれるだけでも光栄な、有名なキャンプだ。正直僕は行ってみたい。
「そんな面倒なのに、誰が行くか」
「え、行かないの?」
「は? なんだよ朝倉? お前行きたいのか? くっだらねぇな」
「……そうだね。山縣は忙しいしね……」
僕は苦笑してから俯いた。
するとその時日向が、グイと身を乗り出して、山縣を見た。
「山縣さん」
「ん?」
「朝倉って、助手としてはどうなの?」
日向がニコニコしている。僕は胃が痛くなってきた。するとチラリと僕を見た山縣は、その後日向に向き直った。
「お前よりは、使えると思うぞ」
「なっ」
日向が目を?く。それから日向は不機嫌そうに唇を尖らせてから、激怒するような眼をして立ち上がった。
「帰ります」
「おい日向……。ああ、まぁ、またね。山縣、朝倉くん」
こうして二人は帰っていった。呆然とその場で見送っていると、僕の隣で山縣が嘆息した。
「おい」
「なに?」
僕が顔を向けると、山縣が僕をじっと見据えていた。
「――いいや、なんでもない」
山縣はそういうと立ち上がり、自分の部屋へと戻っていった。
翌日も、その翌日も、山縣は僕を置いていった。僕は次第に、それに慣れつつある。
「はぁ……」
溜息が出てしまう。山縣が僕を連れて行くのは、助手が絶対参加と探偵機構から指示があった場合だけだ。そして最近では、それもめったにない。
もうすぐ、夏休みも終わりだ。
八月に入り、外は蒸し暑い。劈くようなセミの鳴き声を聞きながら、窓を開けて僕は換気をした。その時、インターフォンの音がした。めったに来客なんてないし、鍵を持っている山縣は鳴らした事がないから、不思議に思ってモニターを見に行くと、そこには、笑顔の御堂さんの姿があった。驚いてエントランスに向かうと、御堂さんが僕に対して微笑した。日向の姿はない。
「こんにちは、朝倉くん」
「こ、こんにちは……?」
「遊びに来たんだけど、迷惑だったかな?」
「いえ……あ、どうぞ」
驚きつつも、僕は御堂さんをリビングへと促した。するとテーブルの上に、御堂さんがケーキの箱を置いた。
「よかったら、食べてくれ」
「ありがとうございます。すぐに珈琲を淹れますね」
「気を遣わないでくれていいんだけどね」
気さくな口調で、御堂さんがいう。僕は笑顔を返して、珈琲を二つ用意した。
そしてカップの片方を、御堂さんの前に置く。
「美味しい」
御堂さんの言葉に、僕の胸が温かくなった。山縣からは、決して出こない言葉だ。僕は、いつか山縣に、美味しいと言ってもらえたら、幸せだろうなと考える。
「――だけど、捜査に置いて行かれているというのは、本当なんだね。今日は山縣は、事件の捜査で呼ばれていたから、スクリーニングに来なかった」
「っ……はい」
隠してもしょうがないので、僕は苦笑しながら素直に頷いた。
すると真面目な顔をした御堂さんが、少し悲しげに僕に言った。
「辛いよな。俺はいつでも話なら聞けるからね」
御堂さんは、とても優しい。
僕が小さく頷くと、御堂さんも頷いた。
この日を境に、特に用もないのだが、御堂さんはちょくちょく遊びに来るようになった。正直僕も、置いて行かれて、一人で暇だったので、話をする内に、楽しくなってきた。御堂さんは、素直に僕を褒めてくれるし、冗談も好きらしい。山縣とは百八十度違う性格をしている。
……山縣と、違う。
僕はそればかり考えている。山縣に会いたいし、山縣と話したいし、山縣は今どうしているのかと、御堂さんと話をしている最中も、山縣の事ばかり考えていた。
大体御堂さんは、山縣が帰ってくる前に、家に帰る。
だから現在までに二人が顔を合わせた事はない。山縣は最近深夜に帰ってくる。僕は起きて待っているのだけれど、その中で、戯れに押し倒される頻度が増えた。山縣の腕の中にいる時は、山縣の存在をじっくりと感じられるから、その内に僕は幸せだと感じるようになってきた。最近の僕は、変だ。どうしてこんなに山縣の事が頭から離れず、その体温が恋しくなるのだろう。よく分からない。
今日も、御堂さんが遊びに来ている。
僕はそれなのに、ぼんやりとしていた。
「――ねぇ、朝倉くん」
名を呼ばれて、僕は我に返った。顔を上げ、すると御堂さんが不意に僕の唇に唇で触れた。何が起きたのか、最初分からなかった。僕が硬直していると、ニコリと笑ってから、御堂さんが僕の事を、ソファの上に押し倒した。
「なっ」
「山縣とはできるのに、俺とは出来ない?」
「!」
僕が目を見開くと、ポツポツと御堂さんが僕のシャツのボタンを外し始めた。僕は抵抗しようと右手を持ち上げる。するとすぐに押さえられ、ソファの上に縫い付けられた。
「や、嫌だ、止めて」
「やだね」
「嫌だ! 止め、離してくれ! 離せ!」
僕は声を上げる。確かに、何故山縣ならよくて、御堂さんはダメなのか、僕には分からない。でも、御堂さんの体温も手の感触も、違和感しかなくて、気持ちが悪い。僕は震えながら涙ぐんだ。力ではとてもかなわない。
リビングの扉が音を立てて開け放たれたのは、その時だった。
涙が滲む目でそちらを見ると、虚を突かれたような顔をしている山縣の姿がある。
目が合うと、山縣は何か言おうとするように唇を震わせてから、冷たい顔に変わった。
「浮気ならよそでやれ」
言い放たれた言葉に、僕は硬直した。
「ああ、そもそも付き合ってなかったな。失言だ」
それから吐き捨てるように山縣が笑った。僕の体が冷たくなり、震えだした。気づくと僕は声こそ抑えたものの、ボロボロと泣いていた。御堂さんは怖いし、山縣は誤解をしているし、僕を助けてくれるものは、何もない。もう嫌だ。
「山縣。その言い方はないんじゃないのか?」
御堂さんが呆れたような声を出して、僕の上から退いた。慌てて起き上がり、僕は両腕で自分の体を抱きしめる。がくがくと震えが止まらない。
「それと俺には本命がいるから、本気じゃなかったよ。言い訳しておくとね」
「出ていけ」
山縣が冷淡な声でそう告げると、そのまま御堂さんが帰っていった。
僕はその間も、ずっと泣いていた。涙が止まらない。
すると山縣が僕へと歩み寄ってきた。そして手を伸ばし、僕の頭をポンポンと叩くように二度撫でた。その感触に、ついに僕の涙腺は倒壊した。山縣の温度と、優しい手つきに、急に安心して、僕は目を閉じる。すると涙が筋を作った。
「泣くな」
「っ」
「……なんで御堂がここにいるのかは知らないが、大方……あいつは俺をライバル視しているから、俺と朝倉の仲を誤解して、寝とるつもりだったんだろうな。あのな、朝倉。お前な、隙を見せるな。俺の助手になるというのは、今後もこういうことがあるということだ。俺はやっかまれてもいるし、恨まれてもいる」
「っ、っく」
「泣くな」
そういうと、山縣が僕を抱き寄せ、後頭部に手を回した。そして僕の髪を撫でてくれた。僕が泣き止むまでの間、山縣はずっと僕を抱きしめていた。