【二十三】喪失恐怖 *山縣







「十六夜は逃亡して見つかってない」

 青波警視の言葉を、山縣は椅子に座り無表情で聞いていた。それから緩慢に、ガラス張りの壁を見る。マジックミラーで、その向こうには病室が見える。寝台と計器があり、点滴に繋がれているのは、眠っている朝倉だ。

 ここは天草クリニックの入院施設の一つで、特別室だ。そこから山縣が動かないため、青波警視はここへと足を運んだといえる。

「春日居は、無期懲役扱いで、完全拘束してる」
「……」
「以後、Sランク探偵の氏名や個人情報は完全に非公開になる。全探偵と助手、メディアにも通達済みだ。二度と被害者になりえないように、というのと、内二名が犯罪者になったからな」

 淡々と青波警視が説明するも、山縣は聞いているのか不明だ。

 ――朝倉が、目を覚まさない。
 既に身体的な怪我は全て癒えている。しかし、意識が戻らない。天草医師の診断として、強い心的衝撃により、精神に負荷がかかったせいで、目を覚まさないのだろうとされている。その朝倉をじっと見据えて、山縣は暗い瞳をしている。

「……」

 朝倉が狙われたのは、自分のせいだ。

「っ」

 口を押え、山縣が嗚咽をこらえる。だがすぐに無理になって、山縣は泣き始めた。
 青波警視が憐れむようにして、静かにそれを見守っている。
 唇を手で押さえ、山縣は震えながら泣いている。

 後悔が押し寄せてきて、止まらない。
 ――朝倉が拉致され、当時は判明していなかった犯人から挑戦状が届いた時、山縣は死ぬほど動揺した。当初、人生で初めての感覚で、それが動揺という名前だとは気づかなかったほどだ。気づいた時には、心配で心臓が破裂しそうになった。

 助手などいらないと思っていた。不要だと考えていた。
 けれど今は、朝倉を失う事が、どうしようもなく怖い。

 ――気づいたら、とっくに大切になっていた。

 例えば、眠っている体に思わず毛布を掛けた時も胸が疼いたし、そもそも最初に押し倒して泣かれた時はゾクリとして行為をやめるのにかなりの自制心を要したし、自分のためにフェラの勉強をしたなんて麗しい顔で照れながら言われた時は可愛くてたまらないと思ったし、その後もどんどん自分を見る目が艶っぽくなり、色っぽくなっていく姿からは目が離せなくなったし、時に柔らかな髪を撫でる時は、幸せだと思っていた。どうして、それに気づかなかったのだろう。

 何故己は、自分の気持ちに気づかず、朝倉に伝えなかったのだろうか、と。
 泣きながら山縣は苦しくなった。好きだと、愛していると、一度も伝えていない。それはそうだ、自分の気持ちに気づいていなかったのだから。

 本当は、自分のために作ってくれた肉じゃがやハンバーグは、とても美味しかった。単純に家庭料理に馴染みがなかったから、当初は困惑もしたが、ほっとする味だと次第に気づいて、そうしたら、愛おしくなった。

 ――まだ自分は、朝倉がキャンプの前に、何故泣いていたのか推理できないままだ。理由を、まだ聞いていない。

 朝倉の誕生日なんて、プレゼントを買ってはみたものの、渡す言葉が思いつかなくて、結局あのピアスがプレゼントである事を、伝えられなかった。照れくさかったのだ。考えてみれば、あの頃にはもう、朝倉が大切で、大好きで、だから少しでも喜んでほしいという想いがあった。そうでなければ、プレゼントなんて買わない。

 ひとしきり山縣は泣いた。見守っていた青波警視は、山縣が泣き止んだ頃、静かに立ち上がった。

「早く意識が戻ることを、俺も祈ってる」
「……ああ」

 こうして青波警視は帰っていった。


 ――それから、三ヶ月が経過した。
 冬。
 その日は、雪が舞っていた。その日、山縣は朝倉の目が覚めたという知らせを受けて、息を切らして走ってきた。すると病室にいた天草医師が、無表情で、ベッドの上で上半身を起こしている朝倉と山縣を交互に見た。

 山縣の記憶の中の朝倉は、いつも困ったように笑っていた。あるいは、満面の笑みだった。時には苦笑や悲しそうな顔、怯えた顔もあったが、いつも柔らかな印象を受けた。

「朝倉……?」

 山縣が、震える声をかける。目の前にいる朝倉の茶色の瞳が、まるで人形のようで、何も映し出していないように見えた。あんな事件があった、それも己のせいで。だから、だから朝倉に嫌われた可能性を、何度も山縣は検討していた。朝倉は顔を上げる。しかしその瞳は、山縣を捉えない。

「山縣くん。朝倉くんは、意識が戻ったけれど、心的外傷で今、精神が摩耗している状態なんだ。こちらの声も認識していないし、自発的には食べることも、何もしない」
「っ」
「昔の言葉でわかりやすく言うのであれば、廃人の状態だよ」
「……」

 山縣は何度か瞬きをした。

「でも、意識が戻っただけでも、これまでよりは――」
「うん、そうだね。一歩前進したとしてもいいと思うよ。僕は生涯目を覚まさない可能性も考えていたからね」
「……」
「ただ、ここから自我を取り戻すまでには、かなりの時間を要するよ。覚悟しておいて」

 天草はそう述べると、部屋を出ていった。二人で残された部屋で、山縣はじっと朝倉を見る。そして泣きながら笑顔を浮かべた。生きていて、よかった。

 だがそれは――苦しい日々の始まりでもあった。

 次の春になる頃には、山縣の目は虚ろに変わっていた。
 今日も反応のない朝倉の病室に行き、山縣は無理に笑顔を浮かべる。過去には、作り笑いをした経験なんてない。

「おはよう、朝倉」

 微笑みながらそう声をかけて、山縣は持参した花束を、花瓶にいける。古いものは処理をする。見舞いに来るたびに、山縣は朝倉が部屋に飾っていた花を思い出して、購入している。そう、朝倉が花を好きだと、知っていた。なのに、過去には気に留めなかった。

「今日は、屋上庭園に出てみるか?」

 山縣はそう言って微笑し、朝倉を車いすに乗せた。
 天草クリニックの屋上にある庭園には、春の花が咲き誇っている。そこで山縣は、車いすを止め、何度も朝倉に話かけた。反応が返ってくる事はない。

「なぁ、朝倉……もう二度と、お前を危険な目には遭わせない。俺が守る。だから、頼むから、自分を取り戻してくれ」

 その場でつらつらと、山縣は切実な声を放った。
 しかし、反応はない。

 それからも代り映えのしない日々が流れていき、夏が来た。山縣は捜査協力依頼を何度か青波警視から受けたが、すべて断った。もう、事件になど関わる気力が起きない。見かねた両親が、代理で捜査をしてくれた。朝倉の家族は、山縣に対し、気に病む必要はないと声をかけてくれたが、山縣にとっては、逆にそれが辛かった。

 こうして七月末が訪れた。
 ぼんやりとテレビを見ていた山縣は、十八歳の誕生日を迎えたその日、占いが最下位だったのを見て、思わず噴き出した。それから、笑ったままで泣いた。

「誕生日、祝ってくれるんじゃなかったのかよ」

 もうこの家に、朝倉はいない。猫も、いない。山縣は、一人きりだ。
 喪失の恐怖は、次第に孤独感へと変わりつつあった。
 朝倉が生きていてくれるだけでいいのは間違いなく本心だ。けれど、現状が辛くて、山縣は一人何度も泣いた。しかし慰めてる者は、誰もいなかった。

 そんなある日だった。
 この日もいつものように山縣が花束をもって見舞いに行くと、天草に呼び止められた。

「あのね、山縣くん。僕は提案したい事があるんだ。一つの賭けではあるんだけど」

 それを聞いて、山縣は立ち止まる。

「過去、こういった症例への対応として、一番効果を上げている手法なんだけど」
「どんな?」
「特殊催眠療法というんだけど――要するに、自我を失う原因となった、辛い記憶自体を封印して、無かった事にするという手法なんだ。いわゆる、記憶喪失を、人為的に誘発する手法だよ」
「記憶喪失……」
「これには、起点と終点がいる。そして朝倉くんの場合、事件で最後に目にした相手は救出した山縣くんだよね? だから、起点も君にして、山縣くんとの出会いから、最後に山縣くんを見た瞬間までの記憶を封印したならば、あるいは自我が戻るかもしれない」

 山縣が目を丸くする。

「ただしそれを行えば、朝倉くんの中から、山縣くんの記憶は消える。もっとも、封印しているだけだから、精神的に受け入れられるようになったら、少しずつ記憶は自然と戻るけどね」
「俺の事を忘れれば、朝倉は元に戻るのか……?」
「その可能性があるという話だよ。必ず成功するわけではない。ただ、朝倉くんのご両親は、山縣くんの同意が得られるならば、この治療をしてほしいとご希望されているよ」
「……っ」
「君としては、どう?」

 山縣は俯き、息をつめた。それから決意をした顔で、上を向く。

「俺の事を忘れたとしても、朝倉が元に戻るなら、それがいい」
「――そう」

 こうして、朝倉の記憶は、封印される事となった。


 処置には、しばらくの時を要し、既に季節は秋だ。この日、山縣は、マジックミラー越しに、朝倉の病室を見ていた。

『あれ?』

 その時、朝倉が声を出した。山縣が目を見開く。

『僕、教室で成績表を見てたのに……ここは?』
『天草クリニックだよ。僕は担当医の天草。君は、とある事件に巻き込まれて、記憶を失っているんだよ。ただその事件は、極秘の事件だから、詳細は君本人にも伝えられないんだけどね』

 困惑したような顔をしている朝倉を見て、山縣は思わず泣きそうになった。口元には笑みを浮かべている。記憶はないようだが、朝倉に表情が戻り、その瞳に光が戻ったことが、どうしようもなく嬉しかった。

 ――その後、療養を経て、朝倉は留学する事になった。

 朝倉が乗るという飛行機を、山縣は見に行った。

「俺は、朝倉がいないと、ダメなんだなぁ」

 そう呟いて苦笑する。間違いなく、朝倉は運命の相手だった。それが探偵と助手の絆なのかは分からない。

「いいや、多分違うな」

 一人呟き、山縣が苦笑する。自分側は、少なくとも、愛している。これは、恋だ。
 だが、だからこそ探偵と助手としても運命の関係でよかったと感じる。
 どこにいても、お互いがお互いだけを求める関係である以上、きっとまた、再会できるだろうと分かるからだ。

 留学中は、顔をあわせる事は出来ない。
 連絡先も知らない。
 けれどいつか、再会したいと、山縣は願いながら、飛行機が消えていった空をずっと見上げていた。

「再会したら、もう絶対に危険な目には遭わせない」

 決意するように、山縣が呟く。そのためには、どうすればいいか?
 明瞭だった。事件に関わらなければいい。
 そもそも――自分が朝倉に接触しなければ、朝倉が巻き込まれる事はないのだろうが、それは無理だと、もうよく山縣は理解していた。留学というだけでも、実際には息苦しくなる。朝倉の顔を見ていないと、そばにいられないと、辛さが押し寄せてきて、気が狂いそうになるからだ。胸が苦しくなって、とても痛い。離れていると、朝倉がいなくなってしまうような感覚がして、息が出来なくなってくる。

 その足で、山縣は天草クリニックへと向かった。
 真っ青な顔をしている山縣を見て、嘆息しながら天草が、点滴の用意をする。
 そして、助手不在時に探偵が患う特殊な不安症の薬の錠剤を渡した。

 そこへ来ていた青波警視が、それを見て複雑そうな顔をする。青波警視と天草医師は、高校時代の同級生だ。

 山縣は、幾度も不安症に耐えながら、時折青波警視から、朝倉の留学先での様子を聞いたり、写真を見せてもらったりした。警察機関と探偵機構は、双方朝倉を保護しているという。元気そうな朝倉の姿を見て、山縣は元気でいてくれるならばそれでいいと思いながらも、不安症で苦しくなっては震えた。

「助手がいないと探偵は、生きていけないからな」

 ――助手を喪失し、あるいは探偵を喪失し、なんにんもが狂っていったのを、仕事柄見てきた青波が呟く。山縣にとっての不幸中の幸いは、他の人々とは異なり、それこそ朝倉がまだ、生きている事だろう。

 そのような過去を経て――探偵機構は、山縣と朝倉を引き合わせた。二度目であるが、朝倉はそれを知らない。この頃山縣は、現在個人的に追いかけている事件の関連で、コンビニで働いていた。バイトとして入ったが、実際には調査だ。

 しかし、朝倉と再会して、それはやめた。何故ならば、常についていたかったからだ。
 守るために。

 眠っている朝倉の唇に、山縣は何度か、触れるだけのキスをした。
 大切すぎて、手を出す事が出来ない。

「事件にさえ、関わらなければ……もう、危険はねぇからな。俺が、必ず守る」

 本当は、掃除も料理も朝起こすのも何もかも、山縣は、してやりたいと感じていた。けれどいつか、家事だけでもやらせてほしいと朝倉が述べていたことを思い出し、敢えて何もしない事にした。そして個人的に追いかけている事件に関連するのだろうアプリのゲームをしながら、毎日朝倉の顔が見られる生活が戻ってきた事に、内心で歓喜していた。

 幸せが、戻ってきた。
 もう決して、手放さない。そう、決意していた。