【十二】辛い記憶







 その日も夜が来た。今日も抱かれるのだろうかと考えながら、僕は寝室へと入った。本日はまだクライヴ殿下の姿は無く、先に到着した僕は、寝台に腰かけた。巨大な寝台で、僕達二人でも十分に余裕がある。三倍の人数がいても横になれるだろう。

 銀の燭台で揺れる炎を眺めながら、僕はぼんやりと座っていた。
 寝台のそばには、本日も香油の瓶が置かれている。その隣には、中を清める魔導具もある。小さな鐘の形をしていて、鳴らすと魔術で内部が綺麗になるという仕様だ。音魔術は、この国でも進んでいる技術の一つである。そんな事を考えながら待っていると、扉が開いて、クライヴ殿下が入ってきた。手には丸く平べったいものを持っている。軟膏か何かの薬の器に見えた。

 歩み寄ってきたクライヴ殿下は、僕の隣に座ると、それを香油の瓶に隣に置いた。

「ルイス、《服を脱いでくれ》」

 言われた通りに、僕は薄手のシャツに手をかける。今後する事を思えば、必要な事だと思うから、諦めとも違い、当然のような気持ちで僕は、服を脱いだ。上半身が裸になったところで、クライヴ殿下が僕の肩に手で触れた。

「《そのまま。こっちを見てくれ》」

 その《命令》に、僕は従う。隣に座るクライヴ殿下を見上げ、脱ぐのをとめた。するとクライヴ殿下が、不意に僕の背中を撫でた。その感触に、びくりとしてしまう。傷跡をそっとなぞられたからだ。

「ルイス、昨日聞くか迷った。この痕は? 《教えてくれ》」
「っ、その……これは……」
「《早く、言ってくれ》」
「ッ、これは……鞭で叩かれて……」
「誰に? 《答えてくれ》」
「……っ、ヘルナンドに……」

 バレていないと思っていた僕は、思わず俯いた。体に傷がある僕など、クライヴ殿下は気持ち悪いと思うかもしれない。ヘルナンドが言っていた、『俺のお古』という言葉も脳裏をよぎる。ヘルナンドが傷つけた僕の体を見たら、クライヴ殿下は気分が悪くなると思った。僕は、捨てられるだろうか。

「――ヘルナンド卿が、か。このような目に遭っても、ルイスは彼が好きだったのか?」
「……」
「《教えてくれ》、言いたくなければ、セーフワードを使ってほしい」
「……好きじゃ、ないです」
「いつから好きではなくなったんだ?」
「最初から……」
「そうか。では、何故お前は、ヘルナンド卿を見る時だけ、笑顔を浮かべていたんだ?」
「それは……『笑え』と命令されて……」
「ルイスを疑うわけではない。ただ客観的に言って、そのような非道を働いていたというのか……確かに、悪評は高かったが……俺のルイスに、なんて事を。にわかには信じがたいが、ルイスが嘘をつくはずがない」

 地を這うような低い声で、クライヴ殿下が両眼を細くし、腕を組んだ。

「痛みはあるか?」
「……雨が降ると、ズキズキする事があります」
「そうか。今日から、魔術薬を塗りこめよう。この軟膏はよく効くんだ」

 そう言うと、クライヴ殿下が持参した丸い器を手に取り、蓋を開けた。
 そして中に入っていた黄緑色の軟膏を手に取ると、僕の背中の傷跡をなぞるように、塗りこめていった。僕は驚いて目を瞠る。

「すぐに傷跡も消える。辛かったな」

 それを聞いた時、僕の心の中で、何かが壊れた。それまで奥深くに押し殺していたような感情が、罅が入ったその箇所から溢れ出てくるようになり、気づくとそれは涙となって、僕の頬を濡らしていた。今まで、誰かに辛さを分かってもらったことなど無いし、分かってもらえる日が来るとも思っていなかった。

「ルイス」

 クライヴ殿下が僕を両腕で抱きしめる。僕は両手でその腕に縋りつき、暫く静かに泣いていた。