【3】一時期僕は、寺子屋に身を寄せる事となった。



 藤平を送り届けると、寺子屋の先生が、僕にお茶を振舞ってくれた。怪我をしているが、休むことなく藤平は講義に出たらしく、先生も待っていてくれと言って教えに出かけた。そのため、一人和室でお茶を飲みながら、僕は今後の方向性に思案していた。

 ――少なくとも、見た目や能力から、僕はΩバレはしない。
 更に多くの人間(きっとβ)は、Ωを見た事自体、あんまり無い。

 これを考えるに……一般人(多分β)として、僕はやっていけるのでは、無いだろうか。というより、やっていくしかないだろう。まだいまいち理解できていないが、どうやら僕が生まれついたオメガという種族は、最弱なのだ。僕は、最強になりたかったのであり、最弱になりたかったのでは無い。その中で、最強が無理だとしても、最弱に甘んじるくらいならば、せめて凡庸になりたい……!

 その内に夜になり、寺子屋の宮坂先生が戻ってきた。

「お待たせして悪かったな」

 そう口にしてから、今夜泊めてくれる事になった。漬物と薄い味噌汁、小さなおにぎりが出てきた。僕から見るととても質素であったが、実は生活水準としては、決して低くない食事らしいと、僕は後に知った。

 行くあてがないと話した僕を、宮坂先生は、暫く泊めてくれると言った。お礼に、寺子屋の問題の採点係を僕は申し出た。寺子屋で教えている内容は、僕の記憶で言う小学校低学年かそれ未満の「あいうえお」等だった。文字や言葉は、現代と違いが無い。だから僕は最初から文字が読めたわけだが、識字率は六割くらいが実情らしい。この辺もおそらく、僕が知る江戸とは別物だろう。知るといっても教科書上でのみだったわけだが……。

 これをきっかけにして――僕は、寺子屋宮坂塾の先生の一人になった。
 素性は言えないで押し通した。
 みんな「水季先生は秘密にしてるけど、実はアルファだから言えないんだよ」と噂し出したのも僕は知っていたが、黙秘を貫いた。その内に、オメガであるというより、「アルファじゃないんです」とすら言えない空気になっていった……泣きたい……。

 なお、僕は、文字を教える以外の時間――特に夜には、宮坂先生に、着物のたたみ方やら、国語でチラ見した事しかない漢字の古文(?)を教わった。しかし僕程度の知識であっても、非常に優れた頭脳と評して良いようで、宮坂先生は、いつも僕を褒めてくれた。一応これは、チートとしても良いのだろうか……?

 そう考えていたある日、宮坂先生が僕に言った。

「行く行くは、この寺子屋を譲りたい。してな、寺子屋規定を奉行所に提出しなければならないから、α・β・Ω判別紙を用いて、結果を渡してくれ。わしは、水季がαでなくβであっても気にしない」

 初老の宮坂先生……満面の笑みで、僕に薄い半紙のようなものを手渡した。
 これに精液をかけると、三つの内のどれか、分かるそうだった。
 ――も、もしかしたら、案外、僕はΩでは無い可能性もある……?

 僕は僅かにそう期待した。宮坂先生は、「αだとは分かってるけど、βでも問題ない」というような口ぶりで、僕がΩであるとは一切想定していないようだった……。

 その夜。僕は、自慰をした。自慰というか……非常に義務的に射精し、半紙を濡らしてみた。リトマス試験紙のごとく、サッと紙が青く染まった。それを見て、僕は硬直した。え? Ωだと、何色になるんだ……? αだと、青だったりしない……? 震えながら、悩みつつ、夜明けを待った。色の結果を聞いてから、宮坂先生に報告するつもりだった。

 朝――僕は、朝食の席で、おずおずと切り出した。

「先生、あ、あの……」
「ん?」
「……βだと、何色なのですか?」
「βであれば、無色となる」
「……αは?」
「αだったのかね!?」

 ガタっと先生が立ち上がった。僕は覚悟を決めた。

「先生、本当に申し訳ありません、僕多分オメガです」
「――へ……?」
「青色でした……」
「あ、青……!? ま、まことか!? 本当にΩだというのか!?」
「はい……」
「……」
「……」

 僕達の間に、重い沈黙が横たわった。
 先生が次に口を開いたのは、お味噌汁が冷め切ってからの事だった。

「――こちらから申し出たのに、本当に申し訳ないが、奉行所の規定にもあるゆえ、Ωである水季に、寺子屋を譲る事はできない」
「いえ……良いんです……」
「こうなれば……わしにしてやれる事は、そう多くは無い……すまない……」

 宮坂先生は、本当に申し訳なさそうだった。逆に僕の方が申し訳ない。検査をしたのは初めてだが、僕は最初から結果を知っていたに等しいのだから。

「……わしの親類に、下級ではあるが、武家がある。そこと養子縁組をし、大奥に仕えてはどうだ?」
「え?」
「Ωの身で、その知恵を活かせる勤め先は、この江戸には、大奥しか無い」

 僕はその言葉に、気づけば何時間も持ったままだった箸を、茶碗の上に置いた。
 ――大奥……。

 良くしてくれている先生でさえ、Ωと聞いたら顔色が変わったし……その先生の申し出なのだから、多分これ以上最良は無い……。Ωは、多分、普通には生きていけないのだろう、この江戸風異世界では……。それならば、僕と同じ境遇(?)のΩが3000人(?)もいるという大奥に行くのも悪くは無いのかもしれない。

 Ωの中にあって、αのような僕。

 つ、つまり、逆転の発想をするならば、周囲が最弱の中にあってであれば、最強となれるのだ。Ωしかいない中であれば、僕は最強なのだ。現在なんて、Ωすらいないのに、αと勘違いされるくらい、僕は転生トリッパーとしてのチート能力を有しているのだし。

「先生、本当に有難うございます……! 養子縁組、よろしくお願いします!」
「うむ。署名するだけで良いよう手配して参る」

 こうして、僕の大奥入りは決定した。


 その日の午後には、養子縁組届に署名した。大奥入りの時には、Ωである証明書が必要だとのことで、それはバッチリ手元にあった……。礼儀作法等は、僕ならば大丈夫だと太鼓判を押された。また逆にΩの奥仕というのは、既に良い所のαに嫁ぐと決まっているΩが泊付や礼儀見習いで少しだけ在籍するというのも含まれるそうだった。だから、あまり礼儀がなくとも、自然と身に付くし大丈夫だという話だった。実際の僕には、礼儀などなく、ある素振りをしているだけなので、有難い。

 持参する品等の一切の手配も、宮坂先生とその親戚の方がやってくれた。
 僕がΩであった事は、藤平をはじめとした教え子達には言わないそうだ……。
 何というか、『言わないから安心してくれ』と囁かれて、複雑な気分だった。

 なので別れの挨拶もできないままで、僕は翌週にはひっそりと、大奥に向かったのである。まぁ、良い。オメガに生まれついたのだから、Ωとして、大奥に行くのだから僕はそこで、天下を取る!!