3:痕
この地下で気づいてから、僕は初めて上階に連れて行ってもらった。
そこは一階の4LDKで、ああマンションなのだなと分かる。
「久しぶりだな、ハルイ君」
そこには、ティカップを傾けている青年がいた。
青闇色の瞳に、思わず目を奪われた。端正な顔立ち、と一口に言ってしまうのは、少々躊躇われる程、流麗な造形をしている。――久しぶり?
「すみません、ええと……」
「本当に僕の事も忘れてしまったのか?」
「ごめんなさい……」
思わず俯いた。ただでさえ、マナセ以外と話すのが久方ぶりすぎて、声がこわばるのだが、それ以上に”忘れてしまった”という罪悪感が強い。
「僕は君の恋人だ」
「え?」
目を見開くしかなかった。あっさりと告げられた言葉に、動揺せずにはいられない。
「本当に忘れちゃったのか? 寂しいな」
「ご、ごめ――」
「冗談だ。不謹慎だったな。僕たちは良い友人だったと――今でも友人だと思っている。僕は、ヨルノ。医師をしている。改めてよろしく」
苦笑しながら、彼は僕に手を差し出した。
骨ばった指先までをも含めて、一種の作品のような麗しさだった。
おずおずと握り返す。すると手を引かれて、首筋をのぞきこまれた。
黒い瞳が真剣な色を宿す。
「――マナセ。輸血は、たとえ同性同士でも、どころか”番”のαとΩであっても、二週間以内に性交渉をしていたら、不可だ。第一、一瞥しただけでも、現状ではハルイ君の側の体調が万全だとは思えない」
「……」
「どうしてハルイ君が見つかったと、もっと早く連絡してくれなかったんだ?」
「別に」
「ただ手元に置いておきたかっただけなんじゃないのか」
「違う。俺はただ、ミナミが大切なだけだ。だから逃がさないようにしていたんだ」
マナセの声が険を含んだ。ヨルノ先生は、目を細めている。
僕はそんな二人を眺めながら、マナセは本当にミナミと言う人が好きらしいなと感じた。
時折マナセは、僕を抱きしめて眠り込んでしまうことがあるのだが、其の時も寝言でよく、”ミナミ”と口にしている。
誰なんだろう。
僕が殺してしまったらしい相手だ。
僕は多分マナセから、大切なものを奪ってしまったのだろう。
ヨルノ先生もそのことを知っているのだろうか?
「あ、あの、先生」
「ヨルノでいい。どうかしたのか?」
「僕って人殺しのホモでΩなんですか?」
「なッ……誰がそんな事を……?」
「俺だ。事実だろう?」
「そういう言い方は可能かもしれないが、いくらなんでも……マナセ、まさか首を絞めたのは君じゃないだろうな? 君はそんなことをする人間じゃないと信じているぞ」
「それはやっぱり、絞められた跡なのか?」
「ああ、どう見てもな」
結局僕の問いへの回答は曖昧だった。それにしても――首を絞められた? 僕はそれほどまでに誰かに恨まれていたのか。人殺しなのだから、当然なのかもしれない。そういえば、そんな夢も見たな……。瞬きをする度に、何度も夢で見た切れ長な緑色の瞳を思い出す。
「とにかく、一度きちんと検査をした方が良い。今からでも病院に行くべきだ」
「しかたがないな……」
こうして僕は、病院に行くことになった。
外へと出ると、日航がまぶしかった。
マナセが車を出している間、僕はヨルノと二人、エントランスの正面で待っている事になった。沈黙が気まずく思えて、視線を下げる。すると、吐息するように笑われた。
「大人しいハルイ君は、いつもにもまして綺麗だな。何時もの君も奇麗だとは思うが」
尋常ではなく奇麗な相手に、綺麗だなんていわれたから、僕は恥ずかしくなってしまった。思わず俯く。そういえば僕は、一度も鏡を見ていないから、自分の外見が分からない。思い出せないでいる。意識してみれば、髪の色は黒だった。
「発情期じゃなくても、君が大勢の人を惹きつけるのが分かる気がする」
「え?」
突然の言葉に顔を上げた。
「マナセが君を外へ出したがらないのは、外に出ている時に発情期が来て、αにハルイ君を奪われたくないというのもあるのかもしれないな」
「α? それに発情期の事も、僕はよく分からないんですが……」
「気楽な口調で話してほしい。それが普段通りなんだ。――発情期は、ハルイ君たちΩに、三か月に一度訪れる、ある種生殖のための期間だ。その間Ωは、αを惹きつける、”媚香”を分泌するんだ」
「男同士でも?」
「ああ。Ωは、体の奥にも性器があるから、そこからも潤滑油となる体液が分泌されて行為はスムーズに行える。受胎もそこでする」
「行為……」
「悪い、生々しかったな。とにかく、Ωであることは、男性性、女性性を凌駕する。Ω性の方が強い」
よく分かったような、わからないようなでいると、次にヨルノはαについて教えてくれた。
「Ωの他に、この世界にはαとβがいる。βが、一般的な多くの人々だ。マナセもβだ。Ωの”媚香”にも反応しない。αは、少数で――優れた能力を先天的に持つとされている。ただ僕もαだけどな、いつも努力して実力を磨いていきたいと思っているから、もともと才能があると言われても素直には喜べない。それとαはΩの”媚香”で、性欲のタガが外れる。”番”のいないΩは、同じく番がいないあまたのαを”その気”にさせてしまう特質を持つんだ」
「番?」
「恋人よりも夫婦よりも強いつながりだと聞く。特定の”番”となる”α”がみつかると、Ωは”媚香”を出さなくなるんだ。言い方は悪いが、αを誘惑しなくなる。ハルイ君にも早く見つかると良いな。そうすれば、発情期も基本的には来なくなるし、欲情しても、その相手と体を重ねればよくなる」
「……αとしか番には、なれないんですか?」
「ああ、そうだ」
じゃあ、マナセとは”番”になれない。マナセを見ると心が疼くけど、じゃああれは何なんだろう? 発情期とは違うのかな。ただ僕とマナセが結ばれないということは分かった。尤もそんなことは、最初から分かっていたか。マナセは、ミナミと言う人を殺した僕のことが、大嫌いなのだ。ミナミを、好きなのだ。
「そんな風に苦しそうな顔をしないでほしい」
「……ヨルノ……」
「それと断言して伝えておくけどな、君は人殺しなんかじゃない」
「え?」
「寧ろ助ける側なんだ。僕の患者に困難な病気を罹患している子がいる。彼は稀血――珍しい血液の持ち主で、適合する血液の持ち主の内、彼に輸血を行える体力があるのは君だけなんだ」
そう口にすると、ヨルノが僕の肩に両手を置いた。そしてじっと見据えてくる。
「何をしているんだ?」
その時僕の首に後ろから手がかかり、抱き寄せられた。反射的に振り返ると、マナセの姿があった。それから、僕の前に腕を出し、かばうようにしてくれた。かばうなんて言うのは、気のせいかもしれないけれど。
「まさか発情期が来たんじゃないだろうな?」
「来ていない。心配のしすぎなんじゃないか?」
「お前のためを思っていっているんだぞ、ヨルノ」
「ハルイ君が大切だと素直に言ったらどうだ?」
「かんちがいするな」
僕は静かに二人のやり取りを見守っていた。
確かに、発情期と言うものが来たら、αであるヨルノには迷惑をかけてしまうだろう。ただ、マナセが僕の事も少しくらいは、本当に心配してくれているんならいいなと思った。
それから僕らは車に乗り込んで、病院へと向かった。