5:家の恥
僕は殴られたのだ。
その衝撃でなのか全てを思い出した僕は、正面に立つ青年を見上げていた。
現在は後ろ手に縛られている。
頬を血が滴っていく感触がする。頭に怪我をしてしまったようで、じくじくと痛んだ。
ここは見覚えがある場所――草薙本家で、正面に立っているのは、分家の当主であり、僕の従兄であるソウバだった。αだ。
「自殺したと思っていたが、のうのうと生きていたのか」
冷たい切れ長の瞳で、ソウバが僕を見おろした。
「身内からΩが出るなど本当に嘆かわしくてならん。それも、よりにもよって本家からなど……あの時、俺の手の中で、死んでおけばよかったものを」
ソウバは口元にだけ、笑みを浮かべていた。
僕はいなければ、彼は草薙本家の跡取りのはずだった。
前当主だった父が、愛人に僕を産ませなければ。
草薙本家は、歴史ある家柄で、αが多い。大半がαだ。
だから僕もα、たとえそうでなくとも、βだろうと考えて育てられた。
仮にαでなくとも草薙本家に生まれたからには、貴人として振る舞うことを求められる。
αならば、さらなる高みをめざし、βならば、αに並べと教育される。
一般人であるβへの”ほどこし”も、そう、慈善事業も、名だたるαが多い名家の者としての”責務”の一つだった。
例えば献血だってそうだ。
そうしたら僕の特殊な血液の属性が発見されて、今それが求められていると知った。輸血が必要な患者がいたのだ。
ミナミだ。
僕は最初、興味本位で見に行ったのだっけ。
――結果として、ミナミのほか、マナセとも出会ったんだ。
マナセがミナミにだけ見せていた優しい表情。
それが時折自分にも向けられるうちに、そうするともうダメになっていった。
αだろうと考えて育てられてきて、特別視されがちな人生の中で、初めて年相応に扱ってくれた人が、マナセだったんだと思う。
ちなみにミナミの主治医のヨルノの事は、最初から知っていた。
αの中でも、外科から内科まで、全科が得意な名医だ。ちょっとした有名人である。草薙本家とも親交が深かったのだ。
そして僕は、献血前に血液の、最終適合チェックを受けた。
その時に、Ωだと判明した。
これまでの人生を全否定された気持ちになったことを覚えている。
Ωとは、『関わらないようにすべき人々』だと、僕はそれまで教えられて生きてきた。
Ωとは、才能がなく愚鈍で本当に頭の悪い生き物だと、本家で聞かされて育った。
これまで草薙本家にΩが生れたことなどあるのだろうか?
「Ωなんて……Ωからなんて、輸血して大丈夫なのか?」
あの日――……その時、隣室からマナセの声がした。
相手はヨルノだった。
「何事にも100%はないから、何の問題も無いとは言い切れないが、これまでのデータを見る限りは、問題が無いはずだ」
「ミナミまでΩになるようなことは?」
「それは有り得ない。優生学的に、それに遺伝学的にも――」
僕は、扉を一枚挟んで、そんな会話を耳にしながら、もう彼らの中で、僕は”Ω”なのだなと悟った。
もう僕は、”ハルイ”じゃない。
同時にふと、一つの事実に思い当たった。
――マナセはβだ。
僕はマナセ以外と体を重ねるなんて考えられなかった。
だけど――……Ωには発情期が来る。
そして何物にも代えられないほど、”番”との交わりは深いのだと聞いたことがある。
そしてαとβが番になることはない。
本当はその日、そのまま献血をするはずだったのに、気がつくと僕は走っていた。
何もかもが怖くなって、本家に戻っていたのだ。
自室で一人、再度検査結果表を見る。
「ハルイ? 帰っていたのか?」
そこへ唐突に、ソウバが入ってきた。
驚いて僕が取り落とした紙を見て、ソウバの顔色が変わった。
氷よりも、その緑の瞳がつめたそうに見えた。
「これは……」
「ソウバ、あの……」
彼はじっと紙を見据えた。
僕は、昔から子の従兄が苦手だった。
何かと比べられて育ち、いつも僕の方が――自分でいうのもなんだが、優れていた。
さすがは本家の人間だと僕は囃したてられたものだ。
そのたびに、ソウバが僕を見る目つき、冷徹な肉食獣を彷彿とさせるような瞳に、ゾクリと何かが絡め捕られそうになる。
だから苦手だった。
執着とも少し違うが、悪い意味で意識されている感覚に、僕は多分怯えていた。
「――Ωだと? そんな馬鹿な……っく、ハハ」
その時のソウバの声は、笑みを殺し切れていなかった。冷たい笑みだ。愉悦まみれで、僕を見て嘲笑した。
「Ωなど本家の恥だ。死んだ方がましだ」
そして僕の首を絞めたのだ。この国では、αには、Ωを殺す権利が保障されている。
いっそこのまま死んでしまおうかと思った。
だけど、ミナミの事が頭を過ぎって、せめて輸血してから死のうと思ったものだ。
そして、どうせ最後になるなら、もう一度マナセの顔が、やっぱり見たいと思ったりもして――……僕は、ソウバの手から逃れようともがいた。
事情を知らない使用人たちが留めに入ってくれた時、僕は本家からもまた逃げ出した。
その後向かった先がマナセの家で――……合鍵を貰っていたんだっけ。それで、それで? ああ、独りで待っていた時、僕の中で何かが崩壊して、それで僕は全てを忘却してしまったのだろう。完全に記憶が……というより意識が途切れている。次の記憶は地下室だ。
「こうなったからには、番が見つかるまでの間、”お客様”がいらしたら、相手をしてもらうぞ」
ソウバの声で我に返った。
記憶が全て戻った今でも、僕は、この先どうなるのか想像も出来ないでいた。
「お客様?」
「時には、”媚香”に酔いたくなるαもいる」
「……?」
「それが草薙本家に生まれたΩの宿命だ」
僕は最初、言葉の意味が理解できなかった。