06


 ――幸い講義は無事に終わった。

 僕が恐れたような、直衛の取り巻きによる混乱は起きなかったのだ。
 なんと、事前に直衛が根回ししていたらしい。

「二人きりで、受けたかったからな」

 そう言われたのは、一番後ろの席に、二人だけで座った時だった。

 一番後ろだから、視線もあまり飛んでは来なかった。
 それでも時折、こちらに振り返っている学生がいたのだから、本当に位置が良かったとしか言えない。

 この日の講義では、僕は久方ぶりに、真面目にノートを取った。
 他にやることが思いつかなかったからだ(これが正しい姿だとは思う)。
 ――視線に気付いたのは、開始十分くらいのことだった。

 直衛が、熱心にこちらを見ていたのだ。
 視線に気付いて、俺は隣を見た。すると、目があった。

 ――直衛は本当に端正な顔をしている。
 改めてそんなことを考えてしまったのは、いつもの怖い眼差しではなく、透き通るような瞳で僕を見ていたからだ。これまでは、恐怖から目が離せないのかと思っていたのだが、この時の僕は、直衛があまりにも綺麗すぎて、その瞳から目が離せなかったのである。

 男相手に何を考えているんだろう……。

 そんな講義の終了後は、もう一つの約束があった。
 一緒に学食に行くことだ。

 向かう廊下にも、いつもいる直衛の取り巻きは一人もいなかった。
 ただし――食堂の中には、大勢の学生がいた。直衛(と、僕)が中へと入った瞬間、その場の視線が集中してきた。

 気まずい、僕は思わず下ろしたままで拳を握った。気にせず歩いていく直衛を追いかける。その度に、学生のなみは左右にざっと割れた。ほぼ全員が、直衛に会釈していた。

 呆気にとられるしかない。
 僕は、何も考えないことにして、食券の機械に向かうことにした。
 直衛は、富裕層仲間と、豪奢なメニュー表の前に立っている。

「おめでとうございます、三澄様」
「本当におめでとう、直衛」
「実に羨ましいよ」

 何やら祝福されているのが分かる。まさか僕の部屋に上がったことではないだろうなと改めて考える。きっと会社の件だ。そうに違いない。

「泉水の宮をどんな風に熟させるのか、楽しみにしているよ」
「あの清純な果実を三澄さんが刈り取るのか」

 不穏な声が聞こえてきたが、僕は知らないことにして、券売機を見た。
 今日もかけそばで良いか……。
 すると、直衛が会話を終了したようで、こちらに歩いてきた。

「今日もそばか?」
「え?」

 ちょうどかけそばを押したところだった僕は、首を傾げた。
 なにせ、ここには、僕専用の監視カメラは無い。
 大学が設置した防犯カメラがあるのみだ。

「どうして知ってるの?」
「いつも見ていたからな」

 僕は俯いた。見られていたという恥ずかしさと、ちょっと引いたのと、直衛はやはり怖いという思いと、いろいろな感情が混ざり合っていて、少し泣きそうになってしまった。


 さて、この日も一緒に帰ることになった。

 帰宅先は、なぜなのか僕の家で、僕が僕の家に帰るのは普通だけど、さも当然である風に直衛までついてきた。一緒に扉の前までやってきたため、帰ってくれと、言おうとしたのだが、上手く僕は言えなかった。

 結果――直衛は、本日も僕の部屋で、畳の上に座っている。

 なんだか、無性に肩が凝ってしまった。
 ノートを一生懸命取ったからではないだろう。気疲れだと思う。

「はぁ」
「どうかしたのか?」
「肩が凝って」
「揉んでやろうか?」
「え、良いの?」

 僕は、直衛の申し出に、深く考えずに頷いた。
 ――もう少し深く考えるべきだったとすぐに思った。

「……」

 直衛の肩もみは、死ぬほどうまかった。全身の疲労が、溶け出していくようだった。
 思わず大きく息を吐き、畳の上に座ったまま、僕は目を伏せた。
 僕の後ろに回った彼の無骨な指先の、最適すぎる力加減にうっとりしてしまう。

「気持ち良いか?」
「うん……っ、ぁ痛」
「悪い――……ここ、好きか?」
「うん、うん、すごく気持ち良い」
「!」

 思わず僕が言うと、直衛が硬直したのがわかった。
 何事だろうかと視線を向けると、直衛の頬が少し赤かった。
 ――?

「もっと俺にされたいか?」
「うん。もっとして欲しい」

 素直に僕が頷くと、片手を離して、直衛がそれで鼻と口を覆った。
 もしや、もう終了だろうか? まだ僕の肩はこっているというのに……。

「お願いだ、直衛」
「お願い……」
「もっとして」

 僕がそう言うと、直衛がなぜなのか生唾を飲み込んだ。

「――腰は?」
「え?」
「肩が凝っているなら、腰もこっているんじゃないかと思ってな。そちらもマッサージしてやろうか?」
「んー、そんなに腰は気にならないんだけど」
「いいや、こっているはずだ」

 確かに、そういうこともある気がした。肩ばかりではないかもしれない。
 それに直衛のマッサージが上手そうであると僕は感じていた。
 だから、一人何度か頷いてから、直衛に言った。

「そうかもしれない。お願いします」
「あ、ああ。では、ベッドに横になってくれ。この体制では、腰はやりにくい」
「うん、わかった」

 僕は、素直にベッドへと向かった。