5:シフト制異世界トリップ(コアタイム:11時――4時)




高杉薫は、赤いネクタイを締めて、ミドガルズオルム社へと向かった。
結局他社との面接の兼ね合いで、入社したのは三日後のことである。
昨日架空オフィスだと言っていたが、少なくともこの先三ヶ月間は佐藤人事がレンタルしているのだと昨日聞いた。
完全フレックス制(ブラックIT企業でよく見る)で実働七時間(昼休憩一時間)との事で、コアタイム(絶対にいろという時間)は11時から16時までだという。その時間さえ社内にいれば良いらしい。が、一応、午前十時から午後十八時まで会社にいる人が多いそうだ。
正直、ルカス某と名乗った人事の姿と、女性社員の姿しか見ていないので、他にも社員がいるらしい気配に、薫は安堵していた。昨日の面接で一つだけ心残りだったのは、服装について質問し忘れたことだ。まぁスーツならば、無難だしなんとかなるだろう。
9時半丁度、薫はオフィスに入った。
「おはようございます」
何事も第一印象が肝心だと思い、薫は朗らかな笑みを浮かべた。
「――……あ?」
エントランスに立っていると、中から声がかかってきた。
ついたての奥へと歩み寄り、室内を一瞥する。
キィキィと音を立てて、回転椅子の背もたれに背中を預けたスーツ姿の青年が、気怠そうに顔を上げていた。
さも今目が覚めたばかりといった調子で、ボタンの外れたYシャツの下には、だらしなく紺色のネクタイが緩んでかけられている。切れ長の目をした青年は、無精髭姿だった。
――良かった、とりあえずこの人は、スーツだ。
「あの……本日よりお世話になる、高杉薫です」
「合わなきゃきつい仕事だから、辞めるんなら早めにな。頭数に数えだしてから抜けられると、しわ寄せがこっちに来る。悪いことは言わない」
「え、いえ……」
「ちょっと浅木君、折角の新入社員を脅さないの」
呆然としていると、後ろから肩を叩かれた。
「早いねぇ、高杉君」
「おはようございます、佐藤さん」
今日も今日とてローブ姿の面接官を見て、薫は微妙な顔をしてしまいそうになった。口調は先日よりも、些か砕けている。
「ルカスって呼んで。ええと紹介する。彼は、浅木孝文あさぎたかふみくん。魔術師部隊のエースだよ。成績No.1!」
凄い先輩なのだろうと言うことは分かったが、三十代前半に見える浅木が真顔で、それも泊まり込み(の様子で)、『魔術師』という仕事に打ち込んでいるというのは、なんとも働いている姿の想像が付かない。
「分からないことがあったら、浅木君に聞いて」
「はい、よろしくお願いします」
薫達のそんなやりとりを後目に、疲れた顔で浅木は立ち上がり、コーヒーサーバーの前に立った。コポコポと褐色の液体が注がれていく。
――教える気なさそうじゃねぇか。
笑顔は壊さないままだったが、薫は内心そんなことを考えていた。
「よし、ちょっと早いけど、聞くより慣れろと言うことで――高杉君、ちょっと異世界にトリップしてみようか」
ニコニコとルカスにそう言われ、曖昧に薫は頷いた。


通された部屋は、コンクリート打ちっ放しの部屋で、窓もない。
「これから、11時から4時までの間、高杉君には、異世界≪ティターニア≫で、ヨルムンガンド帝国第三騎士団の新人魔術師として働いて貰うからね」
薫はその言葉に、唾液を嚥下した。
昨夜必死で、北欧神話について調べてきたのだが、ティターニアというのは全く関係ない、真夏の夜の夢に出てくる妖精の女王様の名前だった気がする。世界観が全く分からない。
その上、魔術師として働いて貰うと言われても、その部分が具体的に何も説明されていない。ゲームの運営をすると言うことではないのだろうか?
「はい、これをつけて」
ルカスに懐中時計を渡され、薫は反射的に受け取った。
「4時前後の、切りの良い状態になったら、懐中時計の上にあるネジを強く押して。そうすれば帰ってこられるから。さぁ、行こう! OJT、OJT!」
腕を引っ張られ、気づくと薫は眩しい光に体を覆われていた。
――OJTって、すごく都合の良い言葉だよなぁ……。
それにしても、もしや魔術師とは、手品師という意味だったのだろうかと、薫は一人思案していた。それならそれで納得がいく。イリュージョンの世界に、異世界トリップという事だろう。何せ唐突に発光が始まったのだから。

しかし薫が目を開けると、そこには大草原が広がっていた。

呆気にとられて何度も瞬きをする。
突然サバンナに迷い込んでしまった気分だった(サバンナに薫は行ったことがないけれど)。気持ちの良い風が、髪の毛を攫う。何なのだろう此処は、どうやってやってきたのだろう自分は、そんな心境で、薫は自分の体へと視線を落とした。スーツ姿であるし、唐突に幻覚を見だしたという感覚でもない。
「とりあえず十一時になるまで、此処で魔術の使い方を教えます」
「よろしくお願いします」
声が喉に張り付きそうになったが、薫はこらえた。
何せ折角掴んだ仕事なのだ。
「魔術を使うには、≪魔術媒体≫と≪魔力≫が必要となります。≪魔術媒体≫は、≪魔石≫か≪魔術符≫。よく”地球”で使われているような、杖なんかを使う場合にも、杖の柄に魔石か魔術符をしこんで使います。慣れてきたら自分の好きな武器を購入して貰っても良いけど、最初は騎士団から支給するね」
「有難うございます」
そもそも購入しろと言われても、そんな謎の物体が一体どの店に売っているのかすら薫には分からなかった。ドンキにでも行けば、あるのだろうか? 知らないだけで、それは世間の常識だったりするのだろうかと、薫は少し怖くなった。
「まずはこれを使ってみて」
ルカスはそう言うと、薫に教鞭のような木の棒を差し出してきた。
――買うとしたら、ハンズだな。
受け取った細い木の棒を握り、これならば木材コーナーで似たようなモノを見たなぁと薫は思い出す。持つ部分には、白い布が巻いてあり、そこには見たことのない言語が記されていた。しかし不思議なことに、内容は理解できる。『基盤+氷結――殺殺殺滅壊』……なんだか怖いなと薫はちょっと退いた。氷結だけ聞けば、チューハイを思い出すのだが。
「君には氷を操る魔術を使ってもらうよ。氷系は、攻撃力もあるし、結界を作るにも適切だし。うちの騎士団の魔術師の基本系かな」
「頑張ります」
「魔術を発動させるためには、脳裏でしっかりとその魔術がもたらす効果を思い描けばいい。例えば、火をつけたいんなら、燃えているところを想像したり。想像した後杖を振れば、その通りの出来事が起こるよ、発動に成功すればだけど。一応、その杖があれば、一通りの基礎的な魔術は使えるようになっているから、氷関連以外の魔術も使えるよ。時間があるときに試してみて下さい」
「はい」
「この想像するって言うのが、中々難しいんだけど……まぁ、慣れです。それに、”地球”の人は、ゲームとかで慣れ親しんでいるせいか、魔術が発動する場面に慣れ親しんでいる人が多いので、なんとかなると思います」
「努力します」
「それより問題なのは、敵の血肉の生々しさに慣れられなくて、離脱されるパターンなんですよねぇ。死についても重く受け止める人が多い。僕たちからすればモンスターは、”地球”で言うところの、災害にあたるような、対処しなければならない相手なんだけどね」
ルカスが深々と溜息をついた。
なるべく礼儀正しい新入社員でいようと心がけている薫は、しかしながら段々辟易とし始めていた。
――まさか、まさかだ。此処が本当に異世界で、杖を使って魔術で攻撃などして、敵を倒せとでも、言いたいのだろうか? 確かに面接時には、スライムやゴブリンといった名前を聞いた気がしないでもないが……。
「まぁ、頑張って。高杉君には期待しているよ。所で、何か質問はある?」
――ここは、一体何処ですか?
尋ねようとした薫は、恐らく≪ティターニア大陸≫だと返ってくるのだろうと推測した。
その為、質問を取りやめる。では。
――どうやって此処へと移動したんですか?
これも駄目だと薫は思った。
魔術と答えられて終わるだろう。
しかし仕事を教えて貰っている現状で、何も質問をしないというのも感じが悪そうだ。
「――此処が異世界で、此処まで魔術で移動したとして――なぜ、言葉が通じたり、こちらの文字が読めたりするのでしょうか?」
「ああ、それはね」
ルカスが小刻みに頷く。
「魔術で言語のすりあわせを行ったからだよ。恐らく高杉君には、全ての名称や僕の言葉が、地球の日本語に置き換えられて聞こえているはずです。だけど地名や国名なんかは、無理矢理変換しているから、不思議でちぐはぐな印象を受けるかも知れないね。例えば、ミドガルズオルムとか。似たような伝承を持っていたから、そう変換されているみたいだね。実際には、北欧神話には何の関係もない」
黒い瞳に嬉しさを滲ませるように、ルカスが語る。
薫は次第に現実逃避したくなりつつあったが、その内に、もうどうにでもなれという気分になった。
「それじゃあ十一時になるまでの間、ここでスライム退治をしながら、魔術の練習をして」
そう言ってルカスが、パンパンと手を叩くと、二人から5m前後離れた場所に、半透明の物体が現れた。肉まんのような形をしている。うん、スライムだなと、薫は思った。
――もう、すっごいリアルなRPG世界に来たって思うことにしよう。
決意した薫は、杖を握りしめた。
「練習を始めて構いませんか?」
「うん、いいよ。やる気があって良いね!」
半ばやけくそになりながら、薫はスライムが凍り付いて砕け散るところを想像した。
そして杖を振る。
辺りにひんやりとした風が吹いた。
冷気に体が震えそうになったが、流石は砂漠でも雪国でも万能と言われる、スーツ姿。
堪えられないほどではなかった。
杖の先から、蒼い線が吹き出して、直撃したスライムの体が、緑色から水色へと変化していく。高い音を立てながら、スライムは凍り付いていった。しかしそれだけで、砕け散ることはなかった。完全に薫の想像通りに魔術が発動したわけではなかった。
「うーん……」
ルカスの難しそうな声が響いたので、薫はハッとして我に返った。
振り返ると、笑顔以外に始めてみる顔――険しいルカスの表情に、薫は失敗してしまったのだろうかと不安になる。
「……ゴブリン、いってみる?」
ルカスが思案するような顔で、続けた。
「は、はい! よろしくお願いします」
兎に角、使えねぇぇぇぇと思われるにしろ、初日なのだし、やる気をアピールしなければ。
薫は薫で必死だった。
彼の正面で、ルカスが右手を前方に伸ばし、軽く振る。
すると二匹(匹? 単位がいまいち分からない)のゴブリンが現れた。こちらも黄緑色の肌をしている。しかしスライムとは異なり、薫と同じくらいの背丈をしていた。筋肉が惜しげもなくくっついている。二足歩行で、体のつくりだけ見れば、マッチョな人間のような相手だった。黒目が無く、白目だけでこちらを見ている点と、口から白い牙が二本のぞいているところが、薫には少し怖い。
先ほどのスライムに関しては、液体で出来ている風だったので、凍らせることに専念した薫だったが、さてどうしたモノかとゴブリンを見据える。ルカスの口ぶりからして、氷の矢などを放って体に傷をつければ、内蔵や血が飛び散る可能性がある。流石にそれを見たら、精神的外傷を受けそうだなと薫は目を細めた。
「高杉君、攻撃」
「はい……あの、質問宜しいでしょうか?」
「何?」
「ゴブリンは、呼吸をしていますか? 全身に血管が走っていますか?」
「え? ああ、多分ね。寒い場所にいるゴブリンは、人間と同じように、息を吐くと白くなるし、怪我をすれば血が出るし。まぁ赤い血じゃないけど」
何でこんな事を聞くのだ、と言う顔で、ルカスが薫を見る。
「有難うございます」
その視線には気づかないふりをして、薫は目を伏せた。敵前で目を閉じるというのは、もしかしたらマイナスポイントになるかも知れないと思ったが、想像するには瞼を閉じている方がやりやすい。
薫は、ゴブリンの気道と、胸の血管、頭の血管が凍り付く様を想像した。酸素に限らないかも知れないが、摂取している生きるための気体を得られず、突然死してくれる事を願う。
そうして杖を振った。
ゴブリン二匹は、うめき声を上げ、その場に倒れた。
「……僕としてはこう、もっと、派手に氷で攻撃して、血肉をまき散らして倒そうとして失敗して襲いかかられるところとかを想定していたんだけど」
ルカスがポツリと呟いた。
「申し訳ございません」
なるほど、派手さが必要だったのかと、薫は狼狽えた。そう言うことならば、最初から言っておいて欲しかった。第一、後半の、『失敗して襲いかかられる』想定とは、なんて酷いのだろう。ルカスは、失敗して人は成長する、と言う考えの持ち主なのだろうか。薫は面倒くさい上司に当たってしまったなと、内心嘆いた。
「いや、いいんだ。合格だよ」
だがルカスは満面の笑みを浮かべて微笑んだ。
その表情に、思わず安堵して、薫は細く息を吐く。
「倒せればいいわけだし。後は、魔術を放つまでの速度さえ、実務経験を重ねて慣れてくれれば、文句なしだね。今日は、十一時から騎士団の紹介をした後、残りは四時までスライムとゴブリン退治をしてもらおうと思ってたんだけど、もう倒したわけだし、即戦力になってもらおうかなぁ」
「有難うございます」
いまいち意味が分からなかったが、今のところ未だ首は繋がっているようだと薫は判断した。


本当にどうやって移動しているのかは謎だったが、ルカスに連れられ、薫は、今度は博物館のような場所へと移動した。上野を彷徨っているような既視感に襲われながら、薫はルカスに手渡された鞄を手に、渡り廊下で繋がっている、すぐ隣の建物までやってきた。
ルカスに指定されて向かった部屋は、四階の4004号室だった。4と言う数字を避けるという概念は、この世界には無いのだろう。部屋は、四人用の部屋らしく、左右の壁際にそれぞれ二段ベッドがある。右側の一番下のベッドが、薫にあてがわれたものだった。他の三つも、求人情報サイトを見て応募してきた”地球”の人が使っていると聞いたが、あくまでも他の騎士団の団員に怪しまれないために部屋が指定されているだけだそうで、実際に此処に寝泊まりすることはなく、使う機会は着替え時だけらしい。
かくいう薫も、ルカスに渡された鞄を寝台の上に置き、チャックを開いて目を伏せていた。
想像していなかったわけではないが、やはりというかなんというか、鞄の中にはローブが入っていた。
「コスプレデビューか……」
スーツを脱ぎ、壁へと掛けて、着方が分からないそれらを、適当に身につけていく。
最後に手袋をはめて、完成だった。
靴もブーツへと履き替えた。
どこかの軍人のような制服の上に、深々とローブを纏って、首元の紐で止めている。
懐中時計をローブの内ポケットへとしまい、杖を持って、早々に薫は部屋を出た。

「これより、朝礼を行う」

集められたのは、博物館のような建物(外観は、中世ヨーロッパのお城のようだった)の正面にある広場で、そこにはズラッと制服姿で帯刀した人々、あるいはローブを着込んで杖を持っている人々がいた。
周囲を見回すと、右側の集団を外れた場所に、ルカスが立っていた。
その隣には、朝顔を合わせた浅木が立っている。
薫はと言えば、第三騎士団所属魔術師が並んでいる列の、最後尾にひっそりと並んだ。
誰も何処に並ぶべきか教えてくれなかったので、本来であれば聞くべきだったのだろうが、聞ける雰囲気ではなかったのだ(言い訳かも知れないが)。
「そこ、ちょっと煩いよ」
前方からルカスの声が響いてきて、場が静まりかえった。
薫は余裕がなかったため聞いていなかったのだが、周囲は新規で入団してきた薫のことを、物珍しがってひそひそと噂していたのである。
「副団長を怒らせるとは、お前ら良い度胸だな」
壇上から、朝礼の号令をした騎士が、全員を一瞥して笑う。
「団長の俺より、副団長の方が怖いみたいだ」
「さっさと進めろ、アーネスト」
ルカスの声が響いてくる。薫は、どうやらこのアーネストという名前の人が、団長なのだろうと理解した。今のままでは、ついうっかり、偉い人にぶつかっても気づかないだろう。それは今後の仕事について考えると、中々にまずいはずだと考える。
それにルカス(顔と声はルカスだったが、明らかに態度が恐ろしくなっている)は、副団長だという。気軽に話しかけて良い相手ではないだろう。所で、そのルカスの隣に並んでいる浅木は一体、どういう立場なのか。また、他の”地球”からの同僚は、一体何処にいるのか。団長の話など、右から左へと聞き流しつつ、薫は視線で周囲を探った。

その後、午前中は、午後から討伐に出かける≪ブラックペガサス≫というモンスターについての講義が行われた。写真付きで、PCこそ無いが、一昔前のプロジェクターを用いた企画会議のような流れだった。建物内を何度か移動しながら、科学技術の水準は、それほど乖離していないようだと薫は思う。異世界に来たと言うよりも、集団ごっこ遊びの中に迷い込んだという気分だった。
そして、昼食時になった。昼食は、騎士団の食堂で食べることになっている。
メニューを選ぶことは出来なくて、トレーを持って列に並ぶのだ。
ちなみに席の指定などはないため、一人で食べる席を探して、食堂内に視線を彷徨わせる。
漸く見つけて薫は座った。
セルフ方式で手に入れられたお茶を飲んでいると、不意に正面から椅子を引く音が響いた。
「……!」
「……」
空いているか、等の台詞は何もなかったが、目の前の席には、浅木が座っていた。
どこからどう考えても、新入社員の一人飯の姿に気をかけて、此処へとやってきてくれたのだろうと薫は考えた。いい人だ。
「慣れたか?」
「は、はい……少しは」
「そうか」
それだけ言うと、浅木は黙々と食事を開始した。
未だ初日すら終わっていないというのに、慣れたという方がおかしい。
「あ、その……浅木さんは、どのくらいこのお仕事をされているんですか?」
会話が無くなっても困るので、必死で薫は話題を探した。
「……五年半。これでも最長は俺だ。副団長は別として」
「そうなんですか。ええと……こ、この仕事をしていく上で、気をつけるべき事などはありますか?」
「死なないことだな」
「――え?」
「うちの会社は、社員の入れ替わりが激しい――……何も、ブラックだからじゃねぇ。俺の同期は俺をのぞいて五人いて、全員死んだ」
「……」
――死んだって、それはアレだろうか、まさかモンスターに殺され……?
家族が鬼籍に入ってから、リアリティを持って人の死について考えるようになった薫だったが、だからこそなのか、モンスターに殺されて死ぬなどと言う現実があるとは、到底納得ができない。
「こちらで死のうが怪我をしようが、向こうに戻れば、命はある。ただし危険な目に遭う度に、一人また一人と、精神を病んでいった。そして結局、向こうでも……」
いきなり聞くには重すぎる話しだった。
これは――仕事を辞めるようにと、暗に忠告されているのだろうか?
しかし今辞めるわけにはいかない。
せっかく決まったのに初出社の今日で辞めてきたなんて、葵には絶対に言えないと薫は息を飲む。
それに浅木は、不謹慎な冗談を口にしているだけかも知れない。
よくよく考えてみれば、月給十五万円で命がけの仕事をするなんて、割に合わないのだから、そんな悲惨な目にあったのであれば、浅木だってとっくに転職していたって不思議ではない。
「午後、初めて討伐に行くんだったな。死傷する奴は、初回の討伐と、慣れてきた三ヶ月後、半年後、一年、まぁその辺りが多い。気をつけろ。辞める気は無さそうだしな」
そう言うと、いつの間に食べ終わっていたのか、浅木が席を立った。
「……頑張ります」
薫に出来たのは、そう声をかけることだけだった。

「ねぇねぇ、アサギ隊長と、どういう関係なの?」

食事を続けていると、ズイっと、隣の席に魔術師が座った。
驚いて顔を向けた薫の正面で、興味津々と言った顔で、青年が首を傾げている。
「え……ど、同僚です」
「それは俺だってそうだよ! 同じ騎士団なんだから。あ、俺はハロルド。よろしく」
手を差し出されたので、薫はそれに応えた。
ハロルドは、金色の髪に緑色の瞳をしていて、二十代前半くらいに見えた。
「それにしても死亡率が高すぎて、死神に呪われてるなんて噂になるこの騎士団に、良く来てくれたね! 歓迎する!」
明るい声でハロルドに言われ、薫の胃はダメージを受けたのだった。


「今日から入った新人を、早速討伐に出すなんて、お前にしては珍しいなルカス」
現在第三騎士団の第一討伐部隊が、≪ブラックペガサス≫の討伐に向かっている。
第一部隊の総指揮官は、アサギという魔術師だから、戦果についての不安を騎士団長であるアーネストは持っていなかった。≪ブラックペガサス≫は、決して弱くはない魔物だが、アサギ隊長の腕は確かだ。
そのアサギをどこからか連れてきたのも、副団長のルカスである。
そして今回の新人を連れてきたのもまた、ルカスだ。
剣士であるアーネストには、魔術のことはよく分からない。
だが、ルカスは比較的実践志向であり、魔術師を無駄死にさせるようなことは少ないと、アーネストは信頼していた。ただでさえ、この騎士団に所属する魔術師は死亡率が高いのだ。
「そうだったかなぁ。まぁ、後は彼、実践で使えれば、それなりに優秀な魔術師になってくれそうだと思ってさ」
団長が正面にいるにもかかわらず、ソファにふんぞり返ってルカスが笑う。
親しき仲にも礼儀あり、それは、ルカスの中には存在しない言葉のようだ。
むしろ茶を振る舞っているのは、団長であるアーネストの方である。
「お前が人を褒めるのも珍しいな。見込みがあるのか?」
「このままだとアサギくんが過労死しちゃいそうだからね、ちょっと仕事を分担できる相手が欲しいかなぁと」
「随分新人をかっているんだな」
アーネストは、もはや騎士団に無くてはならない人材である、アサギ隊長のことを思い出していた。
「それはこれから考えるよ。今日生きて帰ってきて、明日以降も本人に働く気があるみたいだったらね」
楽しそうに笑ったルカスは、それからカップを手に取った。


≪ブラックペガサス≫は、ゾウと同じくらいの大きさをした黒い馬だった。名前そのままに、背中には鷹のような大きな羽が生えている。こちらも黒い。一体どういう進化を辿って、この姿になったのだろう。進化論を全肯定するわけではないが、かなりの部分で、確かに進化論は正しいと感じることが多い薫は、モンスターって不思議だなぁと考えていた。
モンスター、あるいは、魔物と呼ばれる存在は、一体何なのだろう。
地球における野生動物の位置づけともまた違う気がしながら、薫は杖を握っていた。
周囲の様子を観察し、アサギが隊長として、かなりの人望を集めていることは既に分かっていた。実際それに納得してしまうほど、先ほどから彼は攻撃の手を休めることなく、≪ブラックペガサス≫と対峙している。剣士はその合間に攻撃し、他の魔術師達は十分に一回くらい、誰か一人くらいが攻撃魔術を放っていた。ちなみに薫は、未だ一度も魔術を放っていない。タイミングが掴めないのだ。
≪ブラックペガサス≫の体からは、時折血飛沫が舞う。血の色は、黒かった。
あちらからの攻撃は、ひずめによる物理的なダメージと、羽を動かす度に周囲に吹いてくる風らしい。
「ッ、――全員待避!!」
その時浅木が叫んだ。
薫が顔を上げると、皆の前に浅木が結界を張っているのが分かる。
前方では、≪ブラックペガサス≫が深々と空気を吸い込んでいた。
杖を振った薫は、脳裏に描いた結界の補助をする氷が、無事に出現したことに安堵していた。硝子のように薄い氷の壁が、浅木のはった風の結界の一歩内側へと展開していく。これならば、氷が割れても風の結界で破片はこぼれ落ちるだろうし、風の結界が破られる前に、少しだけ≪ブラックペガサス≫の攻撃の威力をそぐことが出来るだろう。
内心で満足しながら、薫は続けざまに杖を振った。
ゴブリン相手に使用したのと同じ魔術を想像して、発動させた。
同時に、≪ブラックペガサス≫の口元からはシュウシュウと空気までもが凍り付く音が響き始め、直後魔物が横に倒れた。
その首元に、巨大なツララが、三本ほど落ちてきて、頭部が離れた。
浅木が攻撃したらしい。
そう確認したのは、振り返った彼と目があったからだ。
「倒した! 倒したよ!」
隣で嬉しそうにハロルドがジャンプする。金髪がその度に揺れていた。
「最短記録だよ、俺が知る限り! ≪ブラックペガサス≫をたったの40分で倒すなんてさ!」
まだ薫には、いまいちそれが凄いことだとは認識できなかったので、ハハハと彼は作り笑いで応えるに止めた。

「隊長、もう一匹います!」

そこへ声が響いてきた。
驚いて薫が視線を向けると、周囲を探っていた団員が戻ってきたところだった。
周囲に、恐怖が広がっていく。
「そうか……」
呟いた浅木が、腕時計に視線を落とした。
つられて薫も視線を向けると、現在は午後三時二十分だった。
一応OJT(というか異世界トリップ)は、午後四時で終わるはずである。
「高杉、ちょっと良いか?」
「は、はい!」
唐突に声をかけられ、薫は顔を上げた。
「最初に結界を張って、その直後、両方の羽の付け根を凍らせてくれ。その上に俺が氷槍で攻撃したら、剣士が前に出る。それを確認してから、今使った凍結魔術で、≪ブラックペガサス≫の呼吸を停止させろ」
「はい!」
頷いた薫を確認してから、振り返って堂々と浅木が指令を飛ばす。
「全員行くぞ」
威勢の良い返事が返り、彼らは集団で移動した。
その後、浅木の指示通りに、薫は結界を張った。
現在薫は、浅木の隣に立っている。
正面には剣士の集団、後ろには魔術師達が並んでいた。
氷槍というのがなんなのか、薫にはいまいち分からなかったが、恐らくは先ほどのツララの事だろう。そんなことを考えながら、羽を凍らせていると、完全に凍り付いたのと全く同じタイミングで巨大なツララが降ってきた。
浅木の攻撃のタイミングは、手慣れすぎていた。
呼応するかのように、薫の攻撃を補佐してくれた気がした。
それを見計らうようにして、剣士たちが移動する。
剣士は三十人ほどいて、いっせいに≪ブラックペガサス≫へと突進していく。
全員が剣を抜いたのを確認し、薫は杖を振った。
シュワシュワと音を立てて、≪ブラックペガサス≫の口から冷気が登り始める。
辺りには冷たい風が吹いていた。
とはいえ、先ほどとは異なり、未だ≪ブラックペガサス≫は倒れない。
「――高杉」
「は、はい……?」
失敗だろうかと不安に駆られながら視線を向けると、浅木が指先で腕時計を叩いた。
「四時を過ぎた。懐中時計は持っているな?」
「あ……」
しかし――新人なのだし、一応この戦いだけは、最後まで見守った方が良いだろうか……。
「こちらはもう大丈夫だ。先に帰ってろ。俺もすぐに戻る。初日から残業なんてするもんじゃねぇ」
――初日から、と言うことは、明日からも来て良いのだろうか?
なんだか少しだけ嬉しくなりながら、薫は大きく頷いた。
ローブから懐中時計を取り出し、教えられたとおりにネジの部分を押す。

「……おお……」

瞬きをする間に、薫はコンクリート打ちっ放しの部屋に立っていた。
壁に掛かっている丸時計を見ると、四時十五分を過ぎたところだった。
これは一体どういう仕組みで移動しているのだろうと悩んでいると、壁際のハンガーにスーツがかかっていた。そして、いまだにローブ姿であることに気づき、恥ずかしくて悶えそうになる。
慌てて、ハンガーの下に置いてあった鞄にローブを放り込み、軍服のような制服姿のまま、人目を気にしながら、部屋を出た。トイレへと向かい、一人で着替える。
鞄にローブ類と制服をいれ、薫は朝、浅木と会ったフロアへと戻った。
自分用にあてがわれているデスクの上に鞄を置き、コーヒーサーバーの前に立つ。
使い捨てのプラスティックのカップに珈琲を注ぎながら、漸く人心地ついて、薫は大きく息を吐いた。
するとすぐに、扉を開ける音が響いてきたので、顔を向けると浅木の姿があった。
慌ててもう一杯分、コーヒーを用意する。
「……お疲れ」
そう言いながら歩み寄ってきた浅木に、薫はカップを手渡した。
「ん……悪ぃな。別に気遣わなくて良いぞ」
「いえ……今日は一日有難うございました」
慌ててお礼を言うと、自席へと歩み寄りながら、浅木が苦笑したのが分かった。
既にスーツ姿に着替えていた浅木が、PCにパスワードを入力している。
「さっさと帰るか。ルカスに捕まると、いつ帰れるか分からないからな」
「そ、そうなんですか」
「ああ。お前も帰って良いぞ」
「あ……ですが、一応十時から十八時までは……」
「気にすんな。そんなもん建前だ。帰れるうちに帰っておけって事だ。いつ泊まり込みになるかも分からねぇから」
「はい」
――良いのかな、本当に帰って。
まぁ別に良いかと、薫は判断した。後日怒られたら、その時はその時だ。
「――高杉、お前酒好き?」
「え、ああ」
不意に声をかけられて、驚いて顔を上げた。
「飲みにでも行くか? 強制はしない。飲みニュケーションとか馬鹿げたものじゃなく」
「酒好きなんで、是非」
勿論、飲みに行くからには、会社について聞きたいし、親睦も深めたいところだ。
ただし痛いのは、所持金があまりないことである。
「俺が出すから気にするな。領収書きって貰うから、最終的には明日ルカスが払う」
響いてきた浅木の言葉に、今度こそ正直に薫は喜んだ。