7:高杉家の食卓
最近の薫は、会社の人と飲みに行ったり、そうでなくとも仕事に打ち込んでいるようで、20時ごろに帰宅する場合が多い。葵はそう思っていたので、その日も、19時半頃からカレーの準備を始めていた。今週だけで、既に二回目である。
兄の仕事が順調そうで、葵は嬉しかった。
「ただいま」
丁度鍵の回る音がして、声が響いてきたので、葵は視線を向ける。
ネクタイを緩めながら、発泡酒の入ったコンビニ袋を下げて、薫が戻ってきた。
「おかえり」
ごく一般的なカレーを丁度作り終えたところだったので、葵は薫に尋ねる。
「すぐに食べる?」
「ああ。貰う」
こうして二人の夕食が始まった。
「今日は、仕事、どうだった?」
「だんだん慣れてきた」
発泡酒の缶を傾けた薫の姿に、葵は前々から聞いてみようと思っていたことを、意を決して聞くことにした。
「今日はどんな仕事をしたの?」
「ああ、≪黒い漆黒の闇の白聖者≫を討伐した」
「は?」
それは一体どういう仕事内容で、結局何色の存在なのだろうかと、思わず葵は口を開けた。
「いや、その……ゲームの話しだ」
ついうっかり異世界で討伐してきた、巨大なピエロのことを口走ってしまった薫は、慌てて首を振る。
「ゲームって、別に遊んで帰ってきたわけじゃねぇぞ? それが仕事なんだよ」
「へぇ、そうなんだ」
葵はてっきり、薫もまた『中二病』を患ってしまったのだろうと考えていた。
もしかすると、最近流行っているのかも知れない。
――ただし弟に言うのは恥ずかしくって、仕事の話しだと誤魔化しているのだろう。
葵はそう考えて、話を合わせることに決めた。
ここ数日、織田幸輔や長野治樹と話していて、葵は自身の『中二病への抵抗力』が格段に高くなっていると思っていた。実際、それはそうだろう。今日だって、「くっ、この気配は……悪魔!!」と、人気のない廊下で呟き走り去った幸輔を目撃したし、治樹は治樹で相変わらず「ござるござる、にんにん」と口にしている。
「結構大変なんだけどなぁ……幸い、直属の上司は未だよく分からないんだけどな、先輩がいい人でさぁ」
「そうなんだ?」
「ああ。魔術を使うには、それらしい呪文を考えて唱えると、イメージが固まりやすいって教えてくれたよ」
――本当にその先輩は、いい人なのだろうか?
――一緒にゲーセンに行ってたりするのだろうか?
そんなことを葵が考えているとは知らずに、ぐいぐいと薫は発泡酒を飲む。
思い出すのは浅木のことだ。
少々取っつきにくいところはあるが、仕事への姿勢は、真面目の一言に尽きる。
驚くほど集中して仕事をしているらしく、薫はどんなに残業しても19時には異世界から戻るのだが、浅木は日によっては、日付が変わっても未だ、仕事をしているらしい。それも単純に長時間働いていると言うだけではなくて、きちんと異世界で、国を魔物から守っている様子だった。No.1とルカスに評価されるのも分かる。
単純に多忙なときだけそうしている風で、基本的には、時間内に仕事を終わらせ、こちらにも気を遣ってくれてフォローもしてくれる。メリハリと時間配分が大切だと、改めて教えられている気がした。大変良い先輩だ。
――ただ少しだけ気になるのは、家族のことだった。
異世界においての設定なのかも知れないし、現実ではどうなのか分からないが。
なんでも浅木は、騎士団に昔所属していた女騎士(奥さん)に先立たれているらしい。十八という歳で子供を授かり、二人で生きてきて、五年ほど前からそろって騎士団に入っていたそうだ。十八歳の時にできた子供で、現在は三十五歳だそうだから、仮に現実の話しだとすれば、葵と同じくらいの歳の子供が、浅木にはいるのだという。その話を教えてくれたハロルド曰く、お子さんは、母方の籍に入っていて、名字が違うのだとか。母親が亡くなった後で、父の浅木が多忙だったために、母方の親戚の養子になったのだという。ハロルドに聞いただけで、浅木に聞いたわけではないから、事実かは分からない。ただそれが現実にあった出来事だとすれば、浅木も中々壮絶な人生を歩んできたのだろうなと薫は思った。
――まぁ、世の中、大抵の人間は不幸だ。そしてその不幸は、非常に良くある話だったりする。
「どうしたの、薫。難しい顔して。ニンジン入れたのがいけなかった?」
「確かににんじんは好きじゃないけどな、美味いよ」
薫が慌てて首を振ると、葵が頷いた。
「好き嫌いは良くないから」
「そうだな。葵も早く、ピーマンを食べられるようになるんだな」
「大丈夫だよ。ピーマンを使うような料理のレシピを俺は知らない」
にこやかに葵が言う。
いっこうにレシピを増やす気配のない葵を眺めながら、薫は発泡酒を飲む。
しかし帰宅すると、食事が出てくるだけでも、満足すべき……なのだろうか。一人だったら、絶対にコンビニ飯になる自信がある薫は、勿論葵に感謝してはいた。それでもたまには、手作りのコロッケや餃子が食べたくなる日もある。生前母が作ってくれたような、あるいはモトカノが作ってくれたような、ちょっと小洒落た酒のつまみや小鉢なども欲しくなる。自分で作れば良いのだろうが、薫も料理など、あまりしたことがない。
「葵の腕前なら、きっとレシピを覚えれば、ピーマンだって美味しく料理できると思うぞ」
「それはないよ。だけど、頑張ってキャロットライスの作り方覚えてみるね」
「止めろ」
薫は溜息をついた。
葵も溜息をついた。
葵だって、分かってはいたのだ。そろそろ、何か他の料理を覚えなければ、と。せめてその位しなければ、食費を稼いできてくれる薫に申し訳ない。栄養だって偏るだろう。
その様にして、高杉家の食卓は更けていった。
翌日。
葵は、机に突っ伏し思案していた。
やはり、何か料理を覚えたい。考えてみれば、お弁当の作り方を覚えたら、兄弟そろって節約になる。おかずは冷凍食品で良いだろう。まぁそれでも、玉子焼きだとか、タコさんウインナーくらいは、覚えたい。
「どうしたのでござるか、委員長。拙僧が悩みを聞きますぞ」
外見は変わったが、中身はすぐに、いつも通りの治樹に戻った。
のほほんとしている友人の様子に、葵は頷いてから呟く。
「栄養のこととか考えても、お弁当を作ってあげたいなぁと思って」
「――え」
「自分の分も作るようにして。良いと思うんだけど、味が心配で」
「葵の料理なら絶対美味い」
現実を知らないからそう言うことが言えるんだろうなと、葵は治樹を見ながら思う。
食べられないほど不味いわけではないとは思うが、絶賛されるほど美味しい物を作ることなど出来ない。
「喜んでもらえるかな……だけど迷惑かも知れないしな」
葵が呟くと、焦るように治樹が首を振る。
「絶対喜ぶ、間違いない。お、俺だったら、本気で嬉しい」
「何で俺が治樹に弁当作るんだよ」
「……ってことは、相手は、やっぱり織田か?」
「は? 意味が分からないよ、薫の弁当に決まってるだろ」
苦笑しながら葵が言うと、どこかホッとしたような顔で治樹が頷く。
「なるほど、薫先生の昼食か。良かった……」
「何も良くないんだよ。どうしたらいいと思う? 誰か俺に、弁当の作り方教えてくれないかなぁ」
そんな葵に対し、治樹が腕を組む。
「拙僧が……作るでござるか?」
「え?」
「いやその……ごく普通の弁当くらいなら、俺も作れると思うから」
「まじで?」
「一応明日、作って持ってくるから、良かったら食べてくれ」
「いいの!? すごい助かる。予算は――」
「いい、いらない!」
「本当? 治樹って良い奴! 明日、楽しみにしてるからな」
葵が微笑むと、小刻みに何度も治樹が頷いた。