8:暗い部屋、一人




弁当持参でも、食べる場所は食堂らしい。
始め葵に、弁当があると言われた時の薫は、大層困惑していた。
騎士団の食堂で食べるため、食費がかかっていなかったという理由もあるのだが――なによりも、葵が弁当を作ったという事実が不安で仕方がなかったのだ。
決して料理が下手というわけではないのだが、レパートリーがあるとは思えなかったからだ。
しかし蓋を開けてみれば、作っているのは長野治樹という葵の友人であり、彼は毎朝律儀に薫へとお弁当を届けてくれる。そしてそのまま葵と登校していくのだ。教育実習に出かけたときに知り合ったため、それなりに知っている相手だったが、始めは何となく悪いなぁと思っていた。
だが、この弁当が非常に美味しいのである。騎士団の食堂の料理よりも、絶対に美味しい。
料理好きの友人なんて素晴らしいものを、葵が手に入れていたことに薫は感動していた。
「いいなぁカオル、毎日愛妻弁当なんて」
周囲に良く響く声でハロルドが言った。
視線が集まった気がして、慌てて薫は、ハロルドを睨む。
「そんなんじゃねぇよ」
すっかり薫は周囲とうち解けていた。
最近では、大抵ハロルドと一緒に昼食を食べている。
始めの頃は何度か浅木と共に食事をしたが、こうした日々に慣れ親しんで確認した限り、多くの場合浅木は、他の部隊の隊長達と打ち合わせをしながら食べている様子だ。今も窓際の席に、背中が見える。

その日の午後は、≪ジャスミン鳳凰狼≫の討伐が予定されていた。
討伐隊に参加しながら、薫は溜息をつく。
次第にネーミングの誤変換が目立つようになってきた気がした。
今日の敵は、華なのか鳳凰なのか狼なのか。
先日だって、≪黒い漆黒の闇の白聖者≫という、意味の分からない名前の魔物を倒した。
「今日も期待してるからな!」
とはいえ、ハロルドに明るくそう言われた時、薫はまぁなんとかなるだろうと思っていた。

――人生そんなに甘くないよな。

薫は杖を握りしめたまま、鳳凰の吐く火焔を避けて、そのまま尻餅をついた。
既に討伐隊の三分の一が負傷していて、基本的には後方にいる薫のもとまで、魔物の攻撃が届き始めていた。灼熱の吐息が、もう少し下に向かっていたならば、焼け死んでいただろう。前髪が少し焦げたようで、嫌な臭いがした。
「避けろ、高杉!!」
短く名前を呼ばれて我に返ると、目の前に≪ジャスミン鳳凰狼≫が迫っていた。名前で気が抜けるというのに、その見た目は恐ろしい。狼そっくりの足は、下に行くにつれ青い鳥肌へと変わっていく。鳥と狼のあいのこのような外見で、嘴からは焔と毒の息を吐くのだ。どこにジャスミンの要素があるのかは分からない――だなんてじっくり観察している場合ではないと、薫は、体を動かそうと捩った。しかしこれまでに一度もこのように近場から襲われたこともなければ、怪我をしたこともない薫は、眼前の光景に、完全に腰が抜けていた。
――怪我をしても、死んでも、向こうでは生きてるんだよな?
現実逃避するように、そう考えていると、再び名前を呼ばれる。
「高杉!!」
声の主は、浅木だった。
漸くそのことに気がついたのは、正面から庇われて抱きすくめられた時のことだった。
左側の斜面へと、体ごと突き飛ばされた。
大きな石ころが、背中に当たる感覚、ブーツの中にまで、砂が入ってくる。
それらの感触と同じくらい、浅木の腕の感覚を意識していた。
そんなことを考えていたとき、目の前で、庇ってくれた浅木の背中を、魔物の足が抉ったのを見た。生々しく裂けた服、そして肌から、鮮血が飛ぶ。薫の見間違いでなければ、確かに肉も抉られて、飛び散った。
「あ……」
呆然と、何か言わなければと考えて口を開けた薫の前で、痛みからなのか顔を顰めた浅木が、体勢を立て直して振り返り、杖を左手に持ち替えた。それをふりながら、もう一方の手で、いつも所持している刀を抜いて、浅木が魔物に斬りかかる。
首が切断され、大きな魔物の頭部が転がっていく。
今度は青色の体液が、薫の顔にかかった。
「……高杉……懐中時計を押せ」
「っ、浅木隊長、怪我――」
「早く押せ」
有無を言わせぬ強い声でそう言われ、薫はその通りにする。

「――怪我はないか?」

気づくと、既に見慣れた、コンクリート打ちっ放しの部屋にいた薫は、声をかけられていた。
「浅木さん……浅木さんこそ!」
「平気だ。あの程度なら死なない。よくある」
「だけど……、……庇ってくれて有難うございました」
「気分はどうだ?」
ローブ姿のまま、浅木が歩み寄ってきた。
顔をのぞき込まれ、必死で薫は頷く。
ひやりと、嫌な汗が、背筋を流れていく。
「平気です」
「そうか。なら、良い」
浅木はそれだけ言うと、そのまま頽れるようにして倒れた。
「浅木さん!」
慌てて薫は抱き留めて、ゆっくりと床に座る。なんとか浅木の頭部が、床に激突する事態は避けられた。

「ん、ちょっと今回のはきつかったかなぁ」

そこに、明るい声がかかった。
「副団長……」
「ルカスでいいよ。だけど浅木君が人を庇って負傷するなんて、奥さんが亡くなったとき以来だよ」
「……浅木さんは、大丈夫なんですか? 病院に……」
「きっと過労って言われて終わりだね。何せ体の何処にも傷なんて無いんだから」
歩み寄ってきたルカスが、意識を失っている浅木の首に、手で触れる。
「脈も確かだし。まぁ、僕は脈を取ったからと言って何が分かるって分けでもないんだけどね」
楽しそうなルカスの様子に、どうしようもなく不安になってきて、薫は俯く。
「過労と言われるにしても、点滴して貰うとか……」
「いやいやいや。自宅でゆっくり眠らせてあげるのが良いと思うよ。まだ午後三時だけど、今日は上がって良いから、浅木君のこと介抱してあげて」
「自宅を知りません」
仮に知っていても、自分に、同じくらいの体格の浅木を背負って帰ることは無理そうだと薫は思った。確かに己のせいで、倒れさせてしまった以上、責任を感じないことはない。だがそうは言っても、現実的に無理がある。

「平気平気」

ルカスの声を認識した瞬間、唖然として薫は顔を上げた。
気づくと見知らぬマンションの一室に、薫はいた。膝には、浅木の頭が載ったままである。
「え?」
「僕の場合は、界渡りで直接来てるから、こちらの世界でも魔術が使えるんだよ。移動ぐらいどうって事はない」
「はぁ……じゃあ、ここは」
「うん、そう。浅木君の家。寝室まで運ぶから手伝って」
ルカスはそう言うと、浅木の足を持った。慌てて頭側を薫が持つ。
二人でベッドまで浅木を運んだ後、ルカスが薫を見た。
「高杉君も疲れたでしょう? 明日は、お休みで良いから。あ、異世界トリップがね。会社には、余裕があったら来て。色々話したいこともあるし。浅木君の事は、まぁ任せるよ。オートロックだから、合い鍵無くても問題ないでしょ。帰るときは、帰っちゃって。少し乗り継げば、すぐに新宿駅だから」
ルカスはそう言って笑顔を浮かべると、杖を振ると同時に姿を消した。
浅木に布団を掛けながら、どうしたものかと薫は思案する。
とりあえず、今日は遅くなるかも知れないと、葵にメールをしておいた。


浅木孝文は、夢を見ているのだと自覚していた。
何せ亡くなった妻が、今また、目の前で亡くなろうとしていたからだ。
腕の中で徐々に冷たくなっていく体。
「ごめんね」
最後にそう言って笑った妻が、一体何を謝ろうとしていたのか、今でも孝文には分からない。学生結婚をして以来、互いに早まったかな、なんて考えながら暮らしてきた日々だった。大学を卒業するまでは、子供の面倒は、妻の実家が見てくれることになっていた。
しかし、子供と暮らしたのは、二年間だけだった。
大学卒業後の、二年間、六歳になった息子と暮らしたのが最後の記憶だ。
直後に妻が、現在の医療では完治しない病を患ったのだ。
息子の面倒は、再び妻の実家が見てくれることとなった。
浅木の実家は、遠方にあったし、学生結婚に大変反対されたので、ほとんど連絡は取っていない。それは、今でもだ。
初めのうちは、未だ妻は歩くことが出来たし、働くことも出来た、家事も出来た。
だが、年々悪くなっているのは、分かっていた。
家事を手伝える時間が持てる仕事へと転職を繰り返し、二人で暮らしてきた。
転機が訪れたのは、『【急募】魔術師!(在宅勤務可)』という求人票と出会ってからだった。
妻と二人で、家に面接だといって押しかけてきたルカスから、面接された。
今では一人きりの、このマンションでのことだ。
結果、冗談みたいな異世界トリップというモノをすることになり、そちらの世界では、妻も不思議なことに、以前のように健康に戻っていた。
現実世界では、日に日に悪化していくのに、異世界では日に日に強くなっていく妻。
そんな妻の様子を見ているのが、孝文にとっては幸福な一時でもあった。
だからこそ、周囲で人が死のうとも、怪我人が出ようとも、現実世界で同僚にあって、虚ろな瞳を見てしまったときであっても、孝文はこの仕事を続けた。
次第に妻は病院のベッドから起き上がれなくなり、意識が朦朧としている日々が増えていった。大半の会話は、異世界でするようになっていた。それでも新たな世界で、今度こそは助けたいと思った。
しかしその世界で――魔物に襲われ、あっさりと妻は亡くなってしまった。
亡くなってしまったのだ。
一緒にいたのに、助けることは出来なかった。
その日、現実世界へと戻ると、携帯電話に無数の着信が来ていた。
実際には怪我などしていないにもかかわらず、痛んで仕方のない脇腹に手を当てながら、病院へと向かった。妻は、心臓麻痺で、亡くなったとの事だった。顔にかけられていた白い布を取ると、異世界で見た笑顔と同じ、苦笑するような表情がそこにはあった。
――孝文さんは未だ若いんだから、これからは自分の人生を生きてね。子供の世話は、私たちがします。
義父母にそう言われたのは、葬儀の日のことだった。
久しぶりにあった息子は、見知らぬ人物を見るように、目を丸くして孝文を見ていた。
なんだか何もかもどうでもよくなり、しばらくは家にこもっていた。
再就職しようにも、転職を重ね職歴欄だけ汚してきた孝文には、その上正社員歴が少ない孝文には、何も身についている技術もなかったし、年齢も三十路手前だったせいか、はたまた世の中が不況だったからなのか、仕事は中々見つからなかった。あるいはする気も起きなかったのかもしれない。このまま、妻の後を追いたい――とまでは、意識的には考えてはいなかったが、その時の孝文には、生への執着があまりなかった。
「ねぇ、そろそろ仕事に復帰しない?」
ルカスが現れたのは、本当に唐突にだった。
考えてみれば、神出鬼没のこの相手の存在は、非常におかしかった。介護疲れで自分自身こそがおかしくなっていたのではないかと、時折孝文は考える。
「ああ、そうだな」
しかし他にすがれるものは何もなかった。

モンスターを討伐する日常で、手を血で汚す時だけが、生きているという実感を持てた。

一度だけ、そんな内心をルカスに語ったことがある。
すると困ったように笑われた。
「それは多分ね、中二病って言う現象なんだよ」
「中二病?」
「色々な種類があるみたいだけどね……まぁ、不治の病だけど、命には関わらない」
今でもその言葉の意味は、孝文には分からない。
ただ分かるのは、もう大切なものを決して失いたくないと言うことだけだった。
(もし仮に、孝文がその言葉の意味を理解していたら、ルカスをたこ殴りにしたことだろう。)

瞬間、最近出来た後輩の姿が脳裏を過ぎった。

呻いて、酸素を求めた。
――そうだ、魔物に襲われて……高杉はどうなった?
反射的に目を開けた。

正面に広がっているのは、自室の天井だった。
辺りが暗いことから、もう夜だと分かる。
今夜もまた、一人だ。
次第に記憶が戻ってきて、嗚呼ルカスあたりが送ってきてくれたのだろうと、判断する。

「浅木さん?」

驚いたことに、一人だと思っていたら、声がかけられた。
慌てて視線を動かすと、そこには不安そうな顔をした高杉薫が立っていた。
「良かった、気がついたんですね」
「ああ……どうして、ここに?」
「ルカスさんに頼まれました。頼まれたって言うか、俺のせいですし――良かったぁ、目が覚めて。無事で良かったです」
安堵した様子の薫の顔を見て、孝文は息を飲んだ。
――無事で良かったというのは、こっちの台詞だ。
また、大切なものを失ってしまうのではないかという恐怖に苛まれて、咄嗟にとってしまった行動だ。今までの新入社員だったら、きっと見捨ててきたはずなのに。
――俺は、高杉を、大切なものだと考えているのか?
自分の内心に困惑しながら、孝文は起き上がった。
背中が鈍く痛む。幻視痛のようなものだ。
「あ、お水飲みます?」
「いや、平気だ。悪かったな、付き合わせて」
「いえいえ、そんな」
にこやかに薫は笑っていたが、孝文は腕時計を見て眉を顰めた。
既に深夜二時を回っていて、とっくに電車など無い。
「弟と二人暮らしだったよな。心配してるだろ。タクシー代……」
「あ、その辺のファミレスで始発待つんで大丈夫です。連絡しましたし」
どのようにしてお礼を言えばいいのか、孝文には分からなかった。少し多めに金を払って、この場を凌ごうと考えていたのだが、そうもいかなくなった。
何より、大切なもの、だなんて考えたせいか、顔を見ているのが辛い。なのに、目は離せない。同性愛者の気があると思ったことはなかったが、それでも孝文は、目が離せなかった。
――仮にこれが、恋だとしても、口にすれば軽蔑されて終わるだろう。
そう考えながら、孝文は目を伏せた。
同性愛について高杉薫がどう考えているのかなんて、孝文には分からなかった。しかし自分自身は、異世界の騎士団で同性に告白された場合、きっぱりと無理だと断ってきた。そうしてきたはずなのに、逆の立場になることを考えると、どうしようもなく怖い。
――第一、毎日弁当を作ってくれる相手が、高杉にはいるらしい。
最初の頃に、弟が作っているのかと聞いたら、苦笑された記憶が、孝文にはあった。

「じゃあ、俺そろそろ行きますね」

なにやら難しい顔でこちらを見ている浅木の姿に、薫は内心気まずい思いをぬぐいきれなかった。一人の方がゆっくり眠れるから、帰れ、と言われている気がした。
それに夕食も食べていないので、空腹だ。
「いや……始発まで、此処にいれば良い」
「いいんですか?」
「ああ。もう遅いし危ないだろう」
起きながら浅木がそう言ったので、薫は安堵した。
夜だからと言って危険だとは思わなかったが、お財布の中身が、さしてないことを思い出したのだ。
「麦酒でも飲むか?」
部屋を移動し、冷蔵庫を空けながら、浅木が言った。
簡単なつまみと、発泡酒ではない缶ビールを差し出され、薫は嬉しくなる。
何より嬉しかったのが、手作りらしき酒のつまみの数々だった。小料理屋で出てきそうな代物だ。
「ごちそうになりたいです」
わくわくしながら箸を受け取ると、灰皿もまた差し出してもらえた。
これまで灰皿の在処が分からなかったため、禁煙していた薫は、嬉々として煙草を銜える。
「味の保証は出来ないけどな」
「いやこれ、美味ッ」
煙草を置いて、早速箸を伸ばした薫は、感動して笑顔を浮かべた。
「浅木さんて、料理美味いんですね」
「別に。高杉こそ、毎日うまそうな弁当を食べてるんだろ」
「ああ、あれは、見かねた弟の同級生が、毎日作ってくれるんですよ」
「――カノジョじゃないのか?」
「違いますよ。あんな料理の上手いカノジョがいたら、もう少し俺と弟はマシな食生活送ってます」
葵に悪いと思いつつも、薫はポロっとそんなことを言ってしまった。
「カノジョは料理が出来ないのか?」
「いえ。いないんです。ハハ。恋人募集中ですよ」
薫がそう言って笑うと、ビールの缶を置きながら、どこか安心したような顔で浅木が頷いた。
「俺で良ければ、いつでも作る」
「浅木さんにそんなことさせられませんよ」
寧ろ作ってやりたい、そんな風に浅木孝文が思っているなんて、全く薫は気づかなかった。