11:暗記した!




徹夜で魔術書を覚えた織田幸輔は、ふらふらとしながらミドガルズオルム社へと向かった。
昨夜はひたすら、魔術の呪文を頭に叩き込んだモノである。
設定を頑健なものにするためにひたすら、暗記能力を鍛え、勉学に励んできた成果である。
「葵くんは、委員長の仕事で遅れるんだね――チッ、向こうに来て貰いたいって言うのが本音なんだけど」
笑顔のままだというのに、あからさまに幸輔に聞こえるようにルカスが言った。
「……」
チキンハートの幸輔は、それだけで胸が押しつぶされそうになる。
うつむきがちに唇を噛んでこらえた。
その様子が、何とも言えない冷気を孕んでいるように思えて、ルカスは顔を上げ瞬いた。
反射的に腕を組んだのは、幸輔の放つ空気に飲まれないようにするためだった。
――呪文無しで、魔力をここまで放つことが出来るって言うのは、本当に恐ろしい。
やはりその辺は、サラブレッド言う感じだ。
このティターニア大陸においても、指折りの魔力量を誇るルカスは、滅多なことで他人の魔力に気圧されたりはしない。それこそ、アサギを前にしても、余裕で居られる。魔力とは元来、精神力がもたらすものだと言われるから、魔術師でないとはいえ、例えばヨルムンガンド帝国第三騎士団の団長――要するに己の片腕でありパートナーである騎士団長であるアーネストくらいになれば、ルカスだってひるむこともある。
だが魔術もろくに使えない、それも異邦人相手に息を飲んだ自信に少しばかり驚いていた。
「――呪文、覚えてきた?」
しかしそんな素振りは一切出さずにルカスが尋ねる。
「あ……」
「あ、じゃない、返事」
「はい……」
幸輔が頷いたのを見て、ルカスは腰に片手を添え、杖を持つ。
「じゃあ、今日も修行ね。成果楽しみにしてるよ」
どこか冷淡さの宿る声で、ルカスが言った。
幸輔はもうそれを聴くだけで、ガクブルだった。
何せ、覚えることは覚えたのだが、唱えてみたところで、こちらの世界では特に何事も怒らなかったのだ。というか、そもそも本当に向こうは、異世界なのか。それすらも、幸輔には判断が出来なかったが、兎に角初バイトを頑張ろうという心意気だけはあった。
しかし瞬きをする魔に、ルカスが杖を振った直後、幸輔は砂漠にいた。
昨日の動きを考慮して、ルカスが難易度の低い場所へと移動させたのである。

「じゃ、とりあえず、やってみて」

幸輔の目の前には、どこからどう見ても巨大なサボテンが、ただ一つだけあった。
「……」
動く気配はない。
しかし立っている場所の風景が変わっただけで、異世界に来たのだろうと考えるには十分だった。幸輔は、肩からかけたままだった鞄から、昨日渡された杖を取り出す。
そして杖を構えた。
「奔流――冷水にて溺れ逝け」
それから幸輔が、静かに口にした。
昨日のような派手派手しさはなかったが――寧ろそれが、この魔術の本来の姿である。まるで、耳に染みいってくるような心地良い声音に、見守っていたルカスが目を見開いた。基本的に魔術媒体を使うこの世界であるが、生まれ持った魔力は”声”に宿っていると言われることが多い。幸輔が呪文を放ったその声音は、聞くモノを魅了するほど、流麗だった。
目の前で、サボテン型の魔物に、幸輔の魔法攻撃が直撃する。
「……へぇ。345頁の魔術だね」
「……」
ルカスの声に、幸輔は汗ばむ手を、握りしめた。
額からも汗が滴っている。
別段魔術がきつかったからではない。ルカスの毒舌が来ることを警戒してのことだった。
幸輔は一杯一杯だったのだ。
「ちゃんと勉強したんだね、偉い偉い」
「……!」
ルカスに褒められ、幸輔は顔を上げた。
――担任ですら回避する自分を、家族以外で初めて褒めてくれる人に出会った!
尤もそれは、担任教師もまた、幸輔が不良だと誤解してのことである。全ては不幸な勘違いがもたらした成果である。
胸が、温かくなった。
どうしてこんなに嬉しいのか、幸輔自身分からない。
もっと褒めてもらえるのならば、この人にもっと褒めてもらえるのであれば、もっともっと頑張れる気がする――そんな心境に、人生で初めて幸輔は襲われた。

「よし、じゃあ次の場所に移動するよ」

ルカスはそう言って、杖を振った。
すると今度は二人、海の前に立っていた。
「!」
砂浜にたむろする巨大なヤドカリを一瞥し、幸輔が身構える。
それも、三体居る。
幸輔は眼光をきつくし、杖を握る手に力を込めた。

「土槌――木石流にて陥没せよ、っ!!」

そんな幸輔の眼差しと、渡した本の最終章に載っている土魔術のことを考えながら、ルカスは腕を組んだ。――たった一日で、あの分厚い本を暗記?
それともたまたま目に付いた箇所を拾ってきたのか。
だとしても、十分戦力となる存在に、たった一日でなった少年。潜在魔力量が多いことは兎も角、≪ペンタグラマ派≫の魔術を行使できるようになるには、努力が居る。勿論センスもいるから、それがあるルカスは、高名だと名指しされている。だが、地球の人間に期待していたのは、魔力量による流派に頼らない魔術であり、このように騎士団の人間が、三年かかってやっと覚え終わり、覚えるだけなら兎も角適切に行使できるようになる、努力型の、知見が深い魔術を覚えて貰う機会があるとは思わなかった。
――それだけじゃない。
幸輔の真剣な表情、その赤い瞳を見ていると、ルカスは胸が騒いだ気がした。
まだまだ荒削りなのは間違いなかったし、若いな、と単純に思う。
だがその横顔を見ていると――……何故なのか、ドクンドクンと鼓動が煩くなる。
「……?」
何も言わないルカスに対し、幸輔が振り返った。
何か失敗してしまったのだろうかと、ひたすら不安だった。
「――やる気は認めるよ」
絞り出すようにルカスがそう告げた。
「だけど、まだまだだね」
何故そんなことを言ったのかは、ルカス自身にも分からなかった。

織田幸輔に惹かれているなんて、ルカスには認めがたい現実だった。