20:支えるという事





病院に到着すると、葵が走り寄ってきた。
それから急いで手術室前へと向かった二人を、顔を見合わせて浅木と織田も追いかける。
驚くほど明るい手術室脇の待合室で、葵がぐったりと壁に背を預けた。
「どうしよう……」
葵のその言葉に、隣に寄り添うようにして、薫が静かに目を伏せる。
「大丈夫だから」
「……うん」
何が、だとか、死んじゃう、だとか、葵の内心には色々な感情があった。
けれど側に薫が居てくれると言うだけで、確かに安心感があるのだ。
そして、気がついた。
――やっぱり薫は、大切な家族だ。
それは恐らく恋愛などと言う感情では表せない、もっと別の形の絆なのだと悟った。
一方の薫は、やはり泣くでもなく、静かに淡々と事態を見守っている葵の姿に、胸が痛んだ。また支えられるのは自分なのかも知れない。どこかでそんな弱気になりながらも、頭を振る。今度こそ、自分が支えてやりたいと。なのに泣き出したくてしかたがないのは、何故なのだろう。そして祖父の無事を願った。
そんな高杉兄弟の姿を見ながら、浅木と幸輔は何も言えずに顔を見合わせる。
流れで此処まで付き添ったが、身内の死の苦しみを深く知っている浅木も、初めてそうした場面に遭遇した幸輔も、かける言葉が見つからないでいた。

祖父が手術中になくなったと聞いたのは、それから一時間後のことだった。

「飲み物買ってくる」
薫がそう言って、苦笑するような顔で立ち上がった。
「俺も行く」
フラフラしている薫を支えるようにして、浅木もまた立ち上がる。
そうしながら浅木は、幸輔の目をしっかり見た。
幸輔は父の目が、葵を支えてやれと言っているのだと、何となく確信した。
「……」
「……」
残された室内で、葵は床を見据えたまま何も言わない。
いつも明るい委員長のそんな顔に、何も言えない自分がふがいなくて、幸輔は唇を噛む。
思い返してみれば、学校で友達が居なかった自分のことを、そしてバイト先では失敗ばかりだった自分を、いつも慰め明るく笑い支えてくれた初めての友達が、葵だった。葵の力になりたいと考えている自分自身を、幸輔は自覚した。出来る限りの力を持って、葵のことを支えたい。そう思うと、胸の奥がじんと痛んだ。この疼きは一体何なのだろう?
「有難う幸輔。一緒にいてくれて」
その時、辛そうな笑顔で、葵が言った。
「……ごめん」
「何が?」
「一緒にいるしか、俺には出来ない」
「十分だよ」
そんな葵の声がどうしようもなく辛いモノに聞こえて――そして愛しくて、幸輔はすぐにでも抱きしめたい気持ちになった。自分は、母親の死に立ち会うことは出来なかったが、幼かった頃それでも、どうしようもない喪失感みたいな名前のモノを経験したことがある。あの時、自分は祖父母に抱きしめられて、多分安心したから。
そして幸輔はしっかりと自覚した。
葵のことが、何よりも大切なのだと。
葵のことが――好きなのだと。


無表情で自販機の前に立っている薫を、浅木は見据えた。
暗いロビーでは、ただ自販機だけが光を放っている。
蒼白の薫の表情を見て、浅木は居ても立っても居られなくなる。
「浅木さん」
「何だ?」
「俺、俺、葵のこと支えてやらないとならないのに」
「……」
「泣きそうなんだ」
笑みを浮かべて、薫がそう言った。
「ろくに見舞いにも来なかった俺だし、どこかでいっそ、早く死ねば良いなんて思っていたことだってあるのかも知れない。俺は最低だ」
「そんなことはない」
病気の家族が居るというのは、とても辛く困難なことだ。
だから口や頭で、そんなことを考える日があっても、悪いことでは決してないのだろうと、浅木は思う。思いたかった。美化した思い出の中では兎も角、決して自分は良い夫ではなかったからだ。あるいはそれは、自分自身に対する慰めでもあった。だが、絶対的に言えることは、やはり心の奥底では、いついかなる時だって、死なないで欲しいと妻に対して思っていたのだ。
「薫のことは、俺が支える」
浅木は、しっかりと、強い口調でそう言った。
「浅木さん……俺は、きっと甘えるから、そんなこと言わないで下さい」
「甘えればいい。俺が受け止めるから」
「っ、有難うございます……っ」
一筋の涙をこぼした薫を見て、もう浅木は堪えられなかった。
強く薫の体を抱き寄せ、きつく腕を回す。
「我慢しなくて言い。泣きたい時は泣けば良い」
すると静かに薫が泣き始めた。
浅木は、薫の額に口づけすると、きつく目を伏せる。
――今、言うべき事なんかじゃないと分かっていた。
けれどもう、我慢できなかった。
「薫、好きだ」
「……え?」
「愛してる」
「っ」
「だからお前のことを支えたい。俺じゃ、力になれないか?」
「そんなこと……浅木さん、それ、本当に……?」
「ああ。ずっと好きだった」
その言葉に顔を上げ、薫は涙をこぼしたまま静かに笑った。
「俺もです」
心がスッと晴れていくような気がした。
二人の唇が重なったのは、そのすぐ後のことだった。


葬儀が済んで、一週間後のことだった。
あれ以来葵と会っていなかった幸輔は、一人、高杉家の墓へと向かった。
せめて何かしたかったのだ。
丘に面した墓の上に立つと、強い風が吹いていて、髪が攫われる。
「っ、葵」
そこには、葵の姿があった。
思わず幸輔が声をかけると、緩慢な動作で葵が振り返る。
「幸輔? どうしてここに?」
「その……墓参り」
上手く応えられなかったから、率直にそう伝えることにした。
「有難う」
するといつも通りの朗らかな笑顔で、葵が微笑んだ。
その表情が、幸輔にとっては辛かった。
やはり自分は、葵のことが大切なのだと、幸輔は改めて思った。
静かに墓石の前まで歩いてきて、幸輔が膝を折る。
そして百合の花を静かに置き、手を合わせた。
目を伏せた幸輔の表情を、ぼんやりと葵が見守る。
しばらくの間、沈黙がそこには横たわった。
「……なぁ、葵」
それから、意を決して幸輔が声をかけた。
「ん?」
「俺じゃ、その」
「何?」
「お前のこと、支えられないか?」
「え」
……無理だよな、と内心幸輔は思った。だがそれでも言わずにはいられなかった。
「俺、本当に何も出来ないけど、出来ることはするから」
幸輔の真摯な言葉と、真剣な紅い瞳を見て、葵が目を見開いた。
胸がどうしようもなく疼いた。
薫の前ですら見せられなかったのに、号泣しそうになって、慌てて葵は空を見上げる。
なんとかして、涙を堪えなければ。
笑っていなければ。
そんな思いが強いのに、側にいてくれる幸輔の存在が、温かくて嬉しくて、何も考えられなくなる。
「有難う」
「……別に」
「幸輔が居てくれて良かった」
言いながら葵は、目を伏せた。堪えきれなかった涙が、頬を伝っていく。
「本当に、有難う」
胸の高鳴りと、感情の混乱。
それを葵は自覚していた。
薫のことを好きだと思った時とは全く別の、どうしようもなく強い想いがわき上がってくる。真剣な幸輔の表情を見ていると、胸の奥で、苦くてだけど甘い何かが、ひっそりと息づき始めたような気がしたのだった。