【3】アザレアの後宮(★)



 このようにして――俺が正妃になってから、二年の歳月が経過した。
 青い空を見上げながら、俺は吐息した。
 懐かしいものである、そう思えるくらいには、アザレアに馴染んだ。

 アザレアは、ミモザとは異なり、科学が少し進んでいて、電気がある。
 魔術も盛んであり、移動は全て魔法陣だった。

 怪物から救い出された儚い正妃様として俺は扱われ、皇帝陛下は正義の味方として讃えられている。俺たちはそこで互いに恋に落ちたことになっている。だが、心の広い正妃様は、ぜひお世継ぎをと叫び、側妃様達を後宮に迎え、みんなで家族同然に暮らしている――と、新聞で俺は読んだ。

 俺の仕事は、その儚い正妃様として、皇帝陛下の隣で穏やかに微笑を浮かべながら、事前に暗記しておいた原稿の通りに発言をすることのみである。執務は特にないし、後宮でも自分の部屋以外に入ったことがないし、立ち入りも禁止されている。それはそうだろう、俺は男だ。俺が迂闊に立ち入って、俺の子供が出来てしまい、その子供が皇帝陛下の子供だと誤解されたら、大問題となる。

 とはいえ、皇帝陛下と男同士の夜の営みをするのかといえば、それもない。
 二人での視察や公務、その事前の打ち合わせ以外では顔を合わせることもない。
 これはこれで良い結果だっただろうと俺は思っている。

 俺は本当に前々皇帝陛下の孫らしく、その俺と結婚したゼル様(と、仲睦まじい感じで呼ぶようにと原稿にあった)は、もう誰も文句を言えないお立場になったらしい。俺はたまに、前々皇帝陛下にそっくりだと言われる。母が似ていたのだろう。

 困っていることは――二つだ。

 現在俺は、男が怖い。同じ空間にいるのは平気なのだが、うっかり手が触れたりするのがどうしようもなく怖い。だが、正妃は握手をしたりしないとならない。なので必死に頑張っているのだが、いつも体の震えを押し殺すことに必死になっている。

 もう一つは――だというのに、体が熱くて気が狂いそうになることだ。特に満月の夜にそれはひどくなる。満月に向かって徐々に徐々に体の内側を快楽が這いはじめ、満月の日には抑えきれなくなり、新月に向かってそれが弱まっていくのだ。その快楽の渦中に居るとき、俺は巨大なもので中を突き上げて欲しいと、はっきりと思うのだ。しかしこんなことは誰にも言えない。一度も誰かに後ろを暴かれたことなどないのだが、そうされたいと思ってしまうのだ。

 怖いのに、欲しいのだ。今、俺の中で、男は鳥と同じくらい怖い。けれど欲しい。そしてそれは、鳥のあの凶暴なものでも良いのかもしれないと――どこかで思うのだ。自分がおかしいのは分かっている。だが、見た目だけで判断してはいけなかったようにも思うのだ。今日は満月だからなのか、俺はそればかりを考えていた。




 夜。
 熱い体を持て余しながら、俺は涙を浮かべていた。
 俺以外には誰もいない室内で、体を抱きしめて寝台に横になる。

「っ……ふ……っっっ」

 全身が熱くて気が狂いそうだ。俺は、香油を指に絡めて、一人で後ろを弄った。
 そのまま、眠れぬ夜を過ごし、朝になった。日が昇ると、体は楽になる。
 シャワーを浴びてから、俺は着替えた。
 朝食は隣接する執務塔の二階で食べるため、回廊を歩く。
 一応正妃は皇帝陛下と一緒に執務塔で食べるという決まりがあるらしくて、こちらへと来るのだが、時間はバラバラなので会わない。形式的なものだ。また、俺は朝は人払いしている。夜の体の熱の残り香を、誰かに気づかれたくないからだ。

 しばらく歩いていくと、珍しいことに皇帝陛下を見つけた。
 お一人だった。

「おはようございます」
「――ああ」

 顔を上げた陛下に微笑して、俺は通り過ぎようとした。
 すると、手首を握られた。瞬間、恐怖で体が凍った。震えが走る。

「……」
「……」

 おそるおそる視線を向けると、皇帝陛下が冷たい顔をしていた。

「離してくれ」

 俺は慌てて笑顔を取り繕った。いつもならば、皇帝陛下はこういうと離してくれる。
 だからこの時も、それを疑わなかった。
 だが――……

「朝、人払いをさせていると聞いた」
「へ? あ、うん」
「誰かを招いているのか?」
「ん? どこに?」
「――寝台に」
「え……っと、後宮の女の人には、規則どおり、誓って俺は手出しを――」
「男だ」
「?」
「男に触られるのが嫌だと思っていたが、俺に触られるのが嫌なだけか?」
「え?」
「百合の香油の匂いがする」
「!」

 俺は硬直した。百合の香油は、昨日一人で使ったものだ。まさか気づかれるとは思わなかった。瞬時に赤くなった俺の手を――不機嫌そうに皇帝陛下が引いた。

「どこの誰だ?」
「ち、違」
「ではこの香りの理由は? 今日付けで、お前の周囲の付き人は全て入れ替える。護衛もだ。食事も部屋に運ばせる。部屋から外には出ないでもらう」
「あ、ああ。クビにはしないでやってくれ。誰にも罪はない」
「……」
「余計な醜聞は困るというのも分かってる。本当に違うんだ、安心してくれ」
「醜聞?」
「俺はきちんとお前の正妃様だし、これからもずっとお前が大好きな感じの原稿を暗記するから」
「原稿……――そうか。頼もしい正妃だな。だが頭は悪いようだ。知っていたが」
「え、なんだよ急に」

 俺が目を見開くと、皇帝陛下が呆れたようにため息をついた。
 いつも冷たい表情だから、少しだけ珍しいと思ってしまった。

「その反応、本当に潔白であるようだが、香油の匂いはするのだから、自分で使ったということだろう?」
「っ」
「図星か。顔に出やすい正妃様だな。果たして、その、表情で全ての本音をさらけ出してしまう貴方が、暗記した原稿を読んだとして、きちんと正妃役が務まっているのかどうか――あの原稿は理知的で聡明な言葉を代々取り入れているはずなんだが、貴方の評価は親しみがある気さくな正妃様で、自分で鳥の怪物を倒してきたんじゃないのかというものだから不思議だな」
「えっ、ちょ……誰だよそんな噂立てたの!」

 なんだか恥ずかしくなって、片手で口元を覆う。
 そしてさりげなく、逆の手を振りほどこうとしたが、皇帝陛下は離してくれなかった。

「――噂が噂だと俺は知っている。震えて泣いていたからな」
「あっ、と……その、ありがとうございます。助けてくれて」

 不意に真剣な声で言われたものだから、俺は狼狽えた。
 さらに、それこそ心の傷に直接触れられた気分になり、体が震えた。
 ただ、二年越しで、この時初めて、俺はお礼を言うことができた。

「あの一件で男が怖くなったのだと思った」
「……」
「当たっているようだな」

 本当に俺は顔に出やすいらしい。この二十一年間誰も俺にそんなことは言わなかった。

「何故香油を使った? これは後ろをほぐす潤滑油だ。そう考えれば、男であっても許せてしまう相手と不貞を働いたと推測するのは別段間違った行いではないだろう。しかし違うとして、その理由を推測するのは困難だ。余計な誤解をしたくない、香油を一体なぜ何のためにどうしたのか、はっきりと教えてくれ。正妃様」
「あ、あの……」

 口ごもった俺を、片目を細めて皇帝陛下が見ている。
 その視線から逃れたくて、俺は両目をきつく閉じた。

「――満月の夜になると、その」
「満月?」
「正確には満月に従ってひどくなって、新月に従っておさまってくるんだけど……な、なんだか、体が熱くなって……そ、それで……」
「――いつからだ?」
「鳥の後だから、きっと鳥のせいだと思う」
「つまり、帝国に来てからということだな?」
「え、うん」
「なぜ言わなかった?」
「恥ずかしいだろ……それに、ああ、ああ! 陛下の言うとおりだ。ゼル様のおっしゃる通り、俺は男が怖い! なのに、後ろ……――自分が気持ち悪くて、言いたくなかった」
「気持ち悪い、か……そんなことはない」
「慰めてくれなくていい」
「今も熱いのか?」
「太陽が昇るとだいぶマシ」
「では、今夜部屋に行く」
「えっ」
「ただし部屋から出ないでもらうのは、変わらない。表情がいくら潔白を語ろうとも」

 皇帝陛下は、そう言うと、俺の手をやっと離してくれた。
 そして俺に、部屋に行くようにというので、俺は頷いて従った。
 その後運ばれてきた朝食は、美味しかった。



 夕方になり、俺は、本当に皇帝陛下が来るのか考えた。
 来るとして、来たとして、陛下は一体どうするつもりなのだ?
 そう思いつつも、この日も体は熱くなった。

「……っ、は」

 来るかもしれないから、俺は椅子に座っている。
 そうすると、ベッドで横になっている時よりも、熱を露骨に感じた。
 全身が震えだして、俺は何度も時計を見た。どんどん意識に霞がかかっていき、息が苦しくなる。コンコンと、ノックの音がしたのが、何時だったのか、もう分からない。

「――入るぞ……――っ」
「ぁ……あ」

 やってきた皇帝陛下は、俺をじっと見ながら、扉に鍵をかけた。
 そして歩み寄ってきて、俺の頬をなでた。
 瞬間、頭が真っ白になった。


「え?」

 次に気づいた時、俺は貫かれていた。
 いいや、それは正確ではない。自分から上に乗り、腰を振っていた。

「あ、あ、あ」

 いきなり冷静になった思考が恐怖を訴えた。快楽に恐怖したのだ。
 だめだ、これは、だめだ。気が狂う。

「いや――!!」

 皇帝陛下が俺の乳首をかんでいた。その歯にゾクゾクした。
 下から突き上げられ、俺は泣いた。満たされていた。グチャグチャと音がする。
 逃れようと腰を引くと、そのまま押し倒されて、唇を塞がれた。
 舌と舌が絡み合う。それすらも絶大な快楽を煽った。
 そして――……俺は見てしまった。皇帝陛下の瞳が赤くなったところを。
 鳥の目と同じだった。そう気づいたのだが、俺はもう止まらなかった。

「あ、ああ、ああああ、もっと――!!」

 そのまま果てて、俺は意識を手放した。