【九】新生活の開始
昨日はあの後、シャワーを浴びてから、昼食や夕食はヨル様と共に口にした。その場でも様々な話を聞いたが、夢が覚める気配は無く、本日は新しい朝を迎えた。
今日から僕の神子としての新生活が始まったといえる。
社畜として激務に臨んでいた僕は、日が高く昇ってから目を覚まし、寝台の上で伸びをした。こんなにじっくり眠ったのは、一体いつ以来だろう。休日出勤がない週末の、死んだように眠っていた感覚とも異なり、熟睡して目を覚ました。僕は枕が変わっても眠れるタイプだ。寝つきも良い。
王宮の侍従だという青年を伴い、今朝は九時頃ヨル様が僕に起床を促した。
それまで爆睡だった。
なんでも軽食を朝の十時にとり、昼の十二時半に昼食、夕食は午後の六時から八時頃の間に口にするらしい。夕食の際は、誰かと食べる場合などで時間が前後するそうだった。昼食時は、可能な限りヨル様が顔を出してくれるらしいが、こちらも場合によっては他の誰かと食べると聞いた。
……例を挙げると、親睦を深めたい相手とらしい。
今は朝食時――腕時計は、十時十五分を示している。
基本的に侍従や護衛の騎士といった人々は部屋の外にいるらしく、僕は一人だ。現在ヨル様は、僕がこの世界に帰還する際に行われた儀式の後処理で多忙らしい。
なお着替えの手伝いを申し出られたが、今日は断った。一度覚えてしまえば、着脱はそう困難では無かった。
「……でも、慣れないな」
着心地は良いが、まだ、何もかもに慣れない。
たとえば今、テーブルの上では、宙にティポットが浮かんでいる。これも星魔術らしい。そこからカップに紅茶が注がれている。カップが満ちると、ティポットの向きが変わり、それが静かにテーブルまで降下して、そこに鎮座した。
料理自体は、トパーズ宮で食べた最初の物とは異なり、この王都フラムの食事は、それこそ僕が知る洋食らしい洋食が多い。
本日はフワフワのパンと、バター。
スープはコーンクリームでクルトンが浮かんでいる。サラダのレタスはみずみずしくて、星型に型抜きされたチーズや、千切りの人参やキャベツも入っている。メインは、カリカリに焼かれた厚切りのベーコンだった。ただ、いずれも少量だ。
ナイフとフォークを手に、僕は朝食を口に運ぶ。
味も美味で、こちらは僕の認識だと、ファミレスの朝食セットよりも少しばかり高級に思えた。
ノックの音が響いたのは、そんな事を考えていた時の事だった。
「はい」
視線を向けながら、僕は声をかけた。
『アルだけど、入っても良いか?』
「ああ、どうぞ」
昨日顔を合わせた赤髪の青年を思い出しながら、僕は同意した。
すると静かに扉が開き、見ていると明るい表情のアルが顔を覗かせた。
「おはよ! 食事中か?」
「おはよう。もう食べ終わるから大丈夫」
僕が答えると、何度か頷き、アルが歩み寄ってきた。そしてテーブルを挟んで、僕の正面のソファに座した。
「昨日、案内するって話しただろ? 良かったら、まずはこの王宮からと思ってさ」
「良いの? 助かる」
「勿論。断られなくてこっちこそ良かった」
「正直、する事も無くて暇だし、本当に助かる」
素直に僕が答えると、アルが笑み交じりの声を出した。
「神子なんだから、忙しくなったら、そんな事は言ってられなくなるんじゃないか?」
「そうは言うけど、僕に出来る事が、少なくとも今日は何も無いみたいで。朝顔を合わせた時、ヨル様にも『今日は休んでいて』と言われてさ。つまり、部屋で大人しくしてろって事だと思った」
「それは暇だな。じゃ、いっぱい案内するよ! 任せてくれ!」
気さくな口調のアルの声音に、僕は嬉しくなった。その後アルは、僕が食べ終わるまでの間、雑談に付き合ってくれた。本当に彼とは良い友達になれる気がする。
こうして食後、僕達は王宮の内部を見て回る事にした。
護衛は不要らしい。アルは昨日、バルトやジェイクより弱いというような事を口にしていたが、それでも僕の部屋の外に立っている護衛の騎士よりはずっと強いらしく、誰も二人で散策する事を咎めなかった。
「まぁ、そうは言うけど、王宮は安全だから心配はいらないって」
アルはにこやかにそう述べると、僕を連れて叡智の間から外に出た。片側の通路は転移の間に通じていると分かっているが、逆側を進むのは初めてだ。ひと気はあまり無いが、無人というわけでもない。
二人で進み階段をのぼり始めると、他の人々の姿がより増えてきた。皆、初日に見た宰相閣下の服に似た、紫色の上着を身に着けている。
「大体が文官だ。騎士は、カナタの部屋の外にいたみたいに、帯剣してる」
「そうなんだ」
時折物珍しそうな視線も飛んできたが、僕はあまり気にならなかった。そこまでぶしつけな眼差しも無かったからだ。
そのまま階段をあがっていくと、大きい踊り場に出た。
「これは歴代の国王陛下の肖像画」
見上げたアルにつられて、僕も視線を向ける。油絵が飾られている。
中でも一番大きく描かれている肖像画を見てから、僕はアルに顔を向けた。
そっくりな赤い髪をしていたからだ。
「これは前国王だった俺の父上」
「似てる」
「だろ? よく言われた。一昨年、急な病で亡くなったんだ。俺は、父上が歳をとってから生まれたんだけど、それでもちょっと早すぎると思ったよ」
「……残念だったね」
僕はかける言葉を探した。僕もまた、養父母が山から帰らなくなった時は、言葉も出なかったし、何度も泣いた。そんな時にかけられた言葉を必死に思い出す。
「有難うな、カナタ」
「ううん。上手く言えないんだけど……僕も家族がいないから」
そこではたと、ヨル様が祖父であるという話を思い出した。ならば僕の本当の両親もどこかにいるのだろうか? 後で聞いてみようと考える。
「これからは、俺がそばにいるから、そんな事を言うなよ。な?」
「優しいな、アルは」
「そうか?」
微苦笑したアルは、それからどこか追憶にふけるような眼差しを、肖像画に向けた。
「――ベリエの民は、次の国王もベリエの民から出る事を、俺が父の後を継ぐ事を望んでるんだ。だからカナタが俺の事を選んでくれたら良いって思ったりもする」
それを聞いて、僕は短く息を?んだ。
「ベリエの民の期待が、たまに重い」
アルはそう続けると、これまで見せていた明るい色とは事なる、どこか暗い色を一瞬だけ瞳に宿した。驚いてじっと見てしまう。
「けど、実際にカナタを見てると、仲良くなりたいって普通に思った。だから、あんまり気にしないでくれ」
だがすぐにアルの瞳は、元の通りに明るく戻り、そして朗らかな笑みを僕に向けた。それに安堵し、僕は何度か頷いた。それでも、まるで一瞬だけ彼の瞳が暗くなったのは気のせいではないと思った。皆に、様々な事情があるのだろう。明るく見えたとしても。
「よし、展望室に行こう! この階段をのぼりきると、王都を一望できる場所があるんだ」
気を取り直した様子のアルに向かい、僕は頷いた。