【三】籠の中の鳥B







「ああ。光の加減で虹色にも見える、金や鈍色のパイプが街の上方を、水路が下方を走っている。駅は三つあって、俺もたまに乗るよ」

 ゼルスが喉で笑った。僕はその表情を見ながら、駅という言葉を昨日本で見かけた事を思い出した。確か、蒸気機関車のページの付近に書いてあった。

「そうだ。蒸気機関車って、どういうもの?」
「煙を吐き出す乗り物だ。キルトは見た事が無いのか?」
「うん。小さな頃から、ここにいるから」
「何でも聞いてくれ。この王都は、俺の庭のようなものだからな」

 ゼルスが両頬を持ち上げた。形の良い彼の瞳には、優しい色が宿っている。僕は目を丸くしているばかりで、上手く笑う事も出来ない。ただ、ワクワクする。これまでの間は、誰も僕には、外界の事を教えてはくれなかったから、ゼルスと話しているのが楽しい。

「ねぇ、ゼルス。虹色ってどんな色?」
「大気の光学現象で、七色の模様が見えるのが、虹だ。空の水滴を光りが通過する時に、分散して特徴的な模様が出るんだ。アーチ型で、空にかかる。それは分かるか?」
「ううん。空の事も何も知らないよ。この塔には、窓が無いから、外は見えないんだよ」
「そうか、窓か。科学的な説明だからではないのか」
「科学は、王様や貴族みたいな偉い人の学問なんでしょう?」

 僕の言葉に、微苦笑しながら片目だけを細めて、ごく小さくゼルスが頷いた。見学者は皆、αであり王侯貴族であるから、ゼルスが科学に触れている事自体には、何の不思議もない。科学に関しては、知識制限されているΩでなくとも、民衆には伝えられていないと、僕は本で読んだ事がある。

「人間の体内時計は、適切な日光や空の暗さが無ければ狂うと思っていた」
「魔導灯の色が変わるんだよ。それに時計の鐘の音が聞こえるんだ」

 外界の事を僕が知らないように、塔内部の事をゼルスは知らないのだ。僕にも、教えてあげられる事があると感じ、嬉しくなった。

「ゼルス、僕は知りたい事があるんだ」
「ん? 何だ?」
「水路は、青銅色なんでしょう? 青銅色って、どんな色?」
「少し説明が難しいな。次に会うまでに、適切な言葉を探しておく。時間をくれないか?」
「次?」

 響いて聞こえたゼルスの声に、僕は驚いた。二回目に来た見学者も初めてだが、次という事は、三度目もあるという事なのだろうか。

「また会いに来てはダメか?」
「……僕は、良いけど」
「ならば可能な限り、毎日来よう。俺はキルトに会いたい」
「どうして僕に会いたいの?」

 不思議に思って尋ねると、ゼルスが照れくさそうな顔をした。片手で柔らかそうな暗い金髪を撫でるようにしながら、彼は目を伏せる。睫毛の色も、同じ色だ。

「言わせるな」
「え?」
「今はまだ、秘密としておく。それにしても、キルトは良い匂いがするな」
「匂い?」

 これまでの間、僕は誰かにそのように言われた事が無かった。花の匂いだろうかと視線を動かす。Ωの放つ、媚香(フェロモン)は、発情期(ヒート)中でなければごく僅かなものだというし、ガラスがあるから、僕から漂っているとは思えなかった。

「ああ。採れたての桃のような甘い果物の香りに思える」

 それを耳にし、僕もまた、ゼルスから精悍な香りがするように思った。昨日も感じたが、意識してみると、今もどこか爽快な匂いがする。僕は過去に、αの香りを嗅ぎ取った事は無いから、香水だろうかと考えた。

「ところでキルトは、『運命』を信じるか?」

 不意に告げられた言葉に、僕は小さく首を傾げた。お伽噺では、僕も読んだ事がある。αとΩの中には、『運命の番』と呼ばれる間柄が存在するらしい。だが、塔で渡されている学習書には、運命は存在しないという記述があった。

 Ωはαにうなじを噛まれれば、その相手と番う事になる。見学者の内、Ωを購入したαこそが唯一の存在となるから、運命は幻想なのだと書いてあった。購入後は、αに尽くし子を産む事が、Ωの使命なのだという。

 しかし僕のように発情期が訪れない、妊娠可能性が低いΩは、選ばれる事は無い。発情している最中ならば、αに抱かれればほぼ九割の確率で妊娠するそうだが、思春期に自然と訪れるはずの発情期が来なかったΩの場合は、不妊である事が多いらしい。個人差はあるそうだが、見学者達は基本的に、発情期を迎えたΩ以外は購入しない。元々Ωを求める目的は、αの後継者を得るためだからだ。いくら僕に魔力があっても、僕は発情しない限り、『唯一』に出会う事は無いのだ。

「運命は無いと習ったよ。代わりに唯一があるんだって」
「唯一?」
「見学して、僕を買って、うなじを噛む人。だけど僕は欠陥品だから、きっと唯一に巡り会う事もないんだ」

 僕がつらつらと続けると、ゼルスが透き通るような瞳でこちらを見た。まじまじと眺入られて、視線を合わせながら、僕はゼルスの顔を眺めていた。

「俺は『運命の番』がいると、今では確信している」
「ゼルスには、そう直感したΩがいるの?」
「そうなるな。俺だけの相手だと、今は確信している」
「それは、好きという事?」
「ああ。そしてその相手に、俺は自分を好きになって欲しい」
「恋?」
「正直、一目で惹きつけられた。今はまだ平静を装っていられるが、激情に飲まれる日が、そう遠くない予感がしているんだ」

 見学されるだけの僕には、恋愛感情は遠い存在であるから、概念でしか理解出来ない。お伽噺では、αと幸せになるΩが描かれる事は多いが、僕にはそれは、遠くのお話でしかない。

「恋って、どんな感じがするの?」
「ずっとそばにいたくなる。もっと話をしていたくなる」
「ゼルスのお話は面白いから、きっと上手くいくよ」

 僕が励ますと、ゼルスは虚を突かれたような顔をした。それから破顔すると、片手の掌でガラスに触れた。

「キルトに楽しんでもらえているのならば、良かった」
「うん。本当に楽しいんだ。僕は誰かと、こんな風にお話をした事が無いから。ねぇ、ゼルス。ゼルスは、普段どんな風に過ごしているの? 僕にも聞いたんだから、教えて」

 両頬を持ち上げてから、僕は椅子から立ち上がった。そしてゼルスの正面に立ってみる。この行為すら、僕には初めての動作だ。ゼルスは思いのほか身長が高い。だから見上げる形となる。緑色にも見えるゼルスの瞳を、僕はじっと見つめた。

「俺の事を知りたいと思ってくれて嬉しい。そうだな、簡単に言えば、仕事三昧だ。王都にいる今は、比較的ゆっくりと過ごす事が出来ているけどな」
「どんなお仕事?」
「書類と格闘している」

 その後、鐘が十二回ほど鳴って、昼食の時間が訪れるまでの間、僕はずっとゼルスと話をしていた。こんなにも長く他者と話したのは初めてで、僕は楽しく明るい気持ちになっていた。

「また来る」

 そう言って、ゼルスは帰っていった。