【四】籠の中の鳥C
午後は別の見学者が来るのだろうと、僕は考えていた。見学者達は、午前と午後にそれぞれ別の顔ぶれで訪れる。だから僕は、リビングで案内人が呼びに来るのを待っていた。
しかし、午後の見学が始まりを知らせる十四回の鐘の音が響いてからも、案内人は訪れなかった。何かあったのだろうかと思いながら、僕はずっと螺旋階段に通じる扉を眺めていた。鍵が開く気配は無い。
そのまま午後の五時となり、夕食が運ばれてきた。このような事は、今まで塔に来てからは、一度も無かった。不思議に思いつつトレーを手に取り、ソファに座す。テーブルに載せたトレーの上には、パンとバター、トマトと豆のスープ、キャベツとトウモロコシのサラダの皿がある。
「食事だけは、いつもと同じだ……でも、今日は見学者がゼルスだけだった」
まじまじと僕は皿を見て、パンを手に取る。バターを塗りながら、首を捻った。何か、制度が変わったのだろうか。僕への扱いが変化したのだろうか。それとも、偶然や塔の都合なのか。答えを導出出来ないまま、僕は食事をした。
その後は入浴を済ませてから、読みかけの本を手に取った。そこには、このスヴェーリア王国の成り立ちや、王室について記されている。
「国王陛下……王子殿下……陛下と殿下は、どう違うのかな?」
初代から書かれている名前を追いかけながら、僕は何度も思案した。時には、閣下という言葉もある。敬称らしいと、漠然と理解する。この本には、二十二世紀の最初の国王陛下までの家系図が記されていた。
「この名前は、別の本では、前国王陛下と書いてあったような気がする……それに初頭という事は、今から十年くらいは前じゃないかな」
推測を呟いた僕は、別の国王陛下の名前を思い出そうと試みた。現在の国王陛下こそが、Ωの隔離保護政策をより強く推進させたのだと、別の本で読んだのだ。Ωの歴史や存在意義についての学習書は、定期的に塔から『絶対に読むように』として配布される。
知識制限の多くは、魔術に関する事柄だ。だから僕は、魔力を持つけれど、魔術を使う事は出来ない。それは魔力持ちのΩの多くと同じであり、Ωの存在意義は、強い魔力を持つαを産む事なのだと教わる。
そう想起してから、僕は眠る事に決めた。きっと明日になれば、いつも通りになるだろう。僕の日常には、変化は無いはずだ。今日が例外だったに違いない。
ただ漠然と、『次』が本当にあれば良いなと感じていた。また、ゼルスと話がしたい。例えば、外にはどんな食べ物があるのか、天候とは実際にはどのようなものなのか、そうした事柄を、教えてもらいたい。
「聞きたい事が、沢山あるみたいだ。僕は話すのは得意じゃないけど、教えてもらう事なら出来そうだ」
ワクワクした気持ちが甦ってきたが、僕はすぐに毛布を抱きしめ、その思考を振り払う。次は、無いかもしれないからだ。期待をして悲しい気持ちになるよりも、あまり期待せず楽しい記憶を抱いて過ごす方が、僕にとっては優しいのではないかと考える。
けれどそんな風に思う時点で、僕は期待しているのだろうし、ゼルスがまた来てくれる事を願っているのだと、自覚もしてしまった。
「会いたいなぁ」
誰も聞く者のいない僕の呟きは、室内でとけていった。
しかし朝になり、鐘が十回鳴り響いた時も、案内人が来る事は無かった。いよいよおかしい。
「何かあったのかな?」
僕は案内人について考えた。塔の管理者でもある案内人は、三年前に今の人物に代わった。片眼鏡モノクルをかけている、焦げ茶色の髪と瞳をした青年だ。その色彩は、この王国で一番多いのだと、本で読んだ事がある。名前も年齢も知らない。ゼルスより少し年上に思える。
「ゼルスは何歳なのかな?」
もし本当に次があったら、僕は年齢を尋ねる事に決め、自身が二十一歳だと話そうと考えた。それから案内人に思考を戻した。怜悧な顔立ちの案内人は、いつも冷たい無表情をしている。僕に声をかける事は、ほとんどない。見学会へ促し、部屋に戻す時に、その指示を出すばかりだった。
なお塔で働く他の人々には、僕は会った事が一度も無い。僕は基本的に、案内人としか直接的な接触は許されていない。見学者達であっても、温室の中へと入る事は出来ない決まりだ。
その内に、魔導灯の光が変わっていき、時計の鐘が十二回鳴ったので、もう昼食時ランチタイムだと気がついた。視線を向ければ扉が開き、トレーが運ばれてきた。
「午前中も見学会が無いまま終わっちゃった……もしかして、もう見学会は行われないのかな?」
僕は、欠陥品である。もう誰にも見せる価値が無いと、判断されたのかもしれない。鬱屈とした心地になりながら、僕はパンにブルーベリーのジャムを塗った。
食べ終えてから、僕はソファに座り、螺旋階段へと続く扉を見ていた。すると、鍵が開く音がした。いつもの通りの時間だ。十四時の鐘が響く直前に、鍵は開くのだ。見守っていると、案内人が入ってきた。その姿に、僕は自身が安堵している事に気づいてしまった。
「来い。見学会の時間だ」
「は、はい!」
慌てて立ち上がった僕は、扉に向かって歩く。案内人は、小箱を手にしていた。いつもは白い手袋をしている以外、何も持っていないので、不思議に思って僕はそれを何度か見た。すると、温室に降りた所で、案内人が立ち止まり、僕へと振り返ると、その小箱を差し出した。
「ゼルス様からだ」
「え?」
「本来、見学対象のΩに対する物品の贈与は、規則で制限されている。だが、ゼルス様は特別なお立場のお方だ。許可を下ろした。お目通りしたら、必ず御礼を申し上げるように」
何度かゆっくりと瞬きをした僕は、おずおずと小箱を受け取った。白い紙で包装されていて、黄緑色のリボンが付いている。掌と同じくらいの大きさの小箱を、僕がじっと見ていると、正面で嘆息する気配がした。
「ゼルス様がお待ちだ。早く定位置へつけ」
「!」
案内人はそう言うと、温室をいつもの通りに出て行った。僕は驚きながらガラスの壁の前へと行く。するとその向こうには、微笑しているゼルスがいた。『次』は、本当にあったのだ。それが嬉しくて、両頬を持ち上げ笑ってから、僕は椅子に座った。