【八】◆大学時代 ―― 一年 6 ――
「灯里」
「相馬! バイトの帰りか?」
「連休中は昼間のシフトなんだ。今は、スーパーの帰りだ」
マンションで顔を合わせるのは、約一ヶ月ぶりだった。必修のクラスが一つ同じだから、毎週一度は話をしているし、その他にも重なっている講義では雑談したりもしていたが、新入生歓迎会の関連で、俺があまりこの時間帯に家にいないというのが大きかったのだと思う。
「俺も今から、何か食べ物を買いに行くか、外で食べてこようと思って」
「そうか」
「相馬は自炊か?」
「ああ」
「今夜は何を作るんだ?」
「簡単に生姜焼きでもと思ってる」
「へ? 生姜焼きって簡単なのか?」
「――別に生姜をすりおろしたりしないからな。練りチューブだ」
「練りチューブだと簡単に出来るのか?」
「簡単にというか……楽にできる」
「いいなぁ。俺も生姜焼きが食べたくなってきた」
心底羨ましく思いながら俺が告げると、相馬が思案するような瞳に変わった。
「家(うち)で食べるか?」
「え? 良いのか?」
「ああ。肉が安売りしていたから、冷凍前提で多めに買ってきたんだ」
そう言うと歩み寄ってきた相馬が、改めて俺を見た。本当に背が高い。
俺は髪を染めたら、垢抜ける事が出来ると信じていたが、相馬を見ていると、それは気のせいだったと思い知らされる。相馬は小さく唇の両端を持ち上げると、それから彼の部屋の鍵を開けた。俺はその後ろに従う。
初めて入る相馬の部屋は、俺の部屋とほぼ同じ間取りなのだが、綺麗に掃除がされていた。俺は我ながら怠惰な人間であり、ここまで潔癖に掃除をする事は出来ない。玄関を抜けてすぐのダイニングに買い物袋を置いた相馬は、俺を居室へと促した。
「座っていてくれ」
「有難う。何か手伝うか?」
「大丈夫だ」
それを聞き、俺は頷いて洒落たラグの上に座った。室内にはロフトがあって、俺が座っている部屋にはテレビとパソコン、背の低いテーブルがある。はしごの先には、布団の端が見えた。
白い本棚があって、そこには教科書や参考文献類が並んでいた。俺はその中に、『大学院入試基礎問題集』という書籍を見つけて、小さく息を呑んだ。
「相馬って、院志望なのか?」
「ああ」
将来の事をしっかりと考えているのはすごいと、俺は思う。俺は確かに心理学にも興味はあるが、あくまでもそれは、小説の中に描く『人間』についてもっと知りたいと願ったから選んだ学問に過ぎない。俺はいつか小説家になりたいとは思っているが、明確な将来の青写真を描く事は出来ないでいた。
人間、いつ何があるか分からない。例えばそれは、俺の両親が亡くなった事だってそうだ。良い事も悪い事も、幸福も不幸も、いつだって唐突に襲いかかってくる。
「何か、きっかけとかあったのか?」
「……知りたい事があったんだ」
「知りたい事?」
「心理学を学べば人間の心が理解できるとは思っていない。けどな、何か解答への緒(いとぐち)が見つかるかもしれないと期待して、俺はこの道に進む事に決めた」
「見つかりそうなのか?」
「まずは四年間、それから二年――浪人したら分からないが、もう少し触れてみる」
相馬は包丁を片手に、真っ直ぐに前を見てそう話していた。俺はそちらの方を眺めながら頷いた。
この日、相馬が作ってくれた生姜焼きは本当に美味で、俺はご飯も何度もおかわりした。相馬の料理の腕前は、以後、ずっと健在である。