【二】推理視




 こうして俺は、無事に留年への道を回避した後、渡り通路を使って隣接する十一号館へと向かった。八号館から十号館までは後ろ側に建っているので、友綾館前にあるのは七号館と十一号館である。そしてそちらのエレベーターを使い、探偵福祉学の先生との遭遇を回避しつつ、俺は地上へと戻った。

 とりあえず一段落した気分で、俺は大学構内に一箇所だけ存在する喫煙所へと向かった。赤いマルボロのボックスから一本取り出し、煙草を銜える。

 今日はこの後、どうしようか。サークル席に顔を出すか、学科の友達に連絡してカラオケにでも行くか、折角外に出てきたのだから、何かして帰りたい。

 携帯電話が震えたのは、その時の事だった。
 画面をスライドさせて、買ったばかりのスマホにパスワードを入力する。

「もしもし?」
『留年は回避できたかい?』
「ああ、まぁ……何? 何か用?」
『正門側の坂の下で待ってる。送ってあげるよ』
「そりゃどうも」

 俺は通話を終了して、バス停とは逆の正門側へと向かった。

 長い坂を下りながら、電話主である知人について考えた。車で来ているらしいから、食材の買出しに付き合ってもらおうか考える。

 買うとしたら、そうだな、パスタとカップラと珈琲の粉だろうか。

 思案しながら人気のない坂を下りきると、真正面に黒い車が止まっていた。迷わず助手席の扉を開けて、俺が乗り込みシートベルトを締めた直後、車は発進した。

「久しぶりだね」
「ああ、若狭さんも相変わらずハゲてるな」

 禿頭で髪の毛が一本もない彼を一瞥し、俺は大きく頷いた。痩身の彼の頭部には青と紫の血管しか見えない。頬は痩せこけていて、丸いサングラスをかけている。

 いつも通りの姿であり、元気そうだ。

 元々が不健康そうな容姿ではあるが、彼は常にこうだ。年齢不詳である。三十代から四十代前半だろうが、風貌が特異すぎて未だに上手く判断できない。

「伊波くんも相変わらず口の悪いダメ学生みたいだね。安心したよ。もし君が、君の大学名を知らしめた西塔くんみたいに優秀な学生だったら、俺も気軽に誘えないからね――講義の最中のはずの時間には」

 西塔は、スノボで世界大会に出場しているため、多くの人びとが名前を知っているのである。なので、悠京大の学生だと名乗ると、必ず「西塔を知っているか?」と言われる。もう慣れた。一度も見た事がない学生の方が少ないだろう。

 そう考えながらふとダッシュボードの下を見て、俺は一枚の写真に気づいた。色褪せた写真には、柔らかな線をした女性と、その人が抱く赤子、寄り添うように立っているふくよかな青年の姿があった。背景には、赤い屋根の家がある。

 手に取りじっと眺めてから、俺は若狭さんを一瞥した。
 すると正面を向いたまま、彼は紫色の唇の端を持ち上げていた。

「――二十九歳の結婚記念日、潰れたケーキ。持ち家」

 それを耳にした瞬間、脳を揺さぶられるような衝撃に襲われた。目を見開き硬直した俺は、酸素を吸おうとして上手く出来なくなる。

 瞬時に全てが脳裏で再構成されていく感覚。断片がいくつも浮かび上がっては、一つの光景を作り出していく。砂嵐だらけの動画を見ているような心地だ。現実を確かに視覚は捉えているのだが、俺は別の風景を見ていた。

「伊波くん、視えたかい?」

 俺は目を伏せて、呼吸を整えようと躍起になった。『視えた』というのは、今の感覚の事を表現する時の言葉らしい。『推理視』と呼ばれる。

 探偵才能児、俺もまたこの才能を持って生まれたらしい。その場にある情報から、思考が自然と情報を再構成して、解答を導き出す能力だ。推理や推論とは少し違う。

 本人も、知覚した瞬間に理解しているため、論理的に説明できない場合が多々ある。

 必要情報が揃った時、数多ある予測から最も現実に即した結論を選び出すらしい。
 今であれば、若狭さんの言葉と写真から、俺は視た。

 あくまでも脳の処理の問題らしいが、行き過ぎた探偵能力は、例えば物に触れて過去を読み取るサイコメトリーと呼ばれるような超能力と変わらないオカルトの産物に見える。直感との違いを表現するのも難しい。

 そのため、探偵才能児には支援が必要で、それもまた探偵学科の範囲だ。
 ただし通常この能力は、十八歳程度で消失するらしい。
 けれど、もう俺は二十一歳だというのに、この能力を持ったままだ。

 だが俺の場合は、いつもこの能力を発揮できるわけではない。
 発作のように時折唐突に能力を使用できるのだ。

「ああ……」
「聞いてみようかな。一体何が視えたのか」

 若狭さんの声に、深々と俺は瞼を伏せた。本当に聞きたいのだろうか。聞く必要があるのだろうか。俺にはそれが分からない。