【三】視えたもの
――その結婚記念日の朝、二十九歳の彼は愛する妻にケーキを買ってくると約束をしたはずだ。生まれたばかりの子供の世話をしながら、妻は仕事に行く彼を見送った。元々二人は、同じ職場の同僚だったのだろう。職場恋愛の末の結婚だ。料理上手な妻との暮らしで、幸せ太りをしたのはここ一年ほどである。同僚達には羨ましがられた。
結婚記念日の夕方、本当は早く帰宅したかったが、仕事が立て込んでいて定時に上がる事はできなかった。切り上げたのは八時を回った頃で、取り置きを頼んだケーキを店で受け取り、タクシーを拾った。喜んでくれるだろうか。一緒に購入した花束を見る。距離にすれば近いのに、帰路が長く思えた。
タクシーを降りて支払いをし、玄関の前に立って呼び鈴を鳴らした。すぐそばの窓から、リビングの灯りが見えないことが不思議だった。おそらくその時だ。最初に嫌な予感がしたのは。二度、三度。指で呼び鈴を押す。いつもならば妻は出迎えてくれる。だが今日に限って出ては来ない。この時彼は、嫌な予感を振り払いながら、妻はサプライズでも計画しているのではないかと考えた。中へと入ったらクラッカーが鳴るような、あまり彼が好まない演出を、妻は好むからだ。
胸騒ぎを抑えながら、鍵を取り出して静かに回す。
鈍い音を立てて扉が開いた。
静まり返っている廊下にも、その向こうにも、どこにも灯りは無い。
外出しているのだろうか?
こんな時間に?
よりにもよって結婚記念日に?
そんな馬鹿なと考えながら靴を脱いだ。嫌な予感が募っていく。具合が悪くて倒れているのかもしれない。そう考え、いつも妻がいるリビングに急いだ。ケーキを左手で持ち、右手で部屋の扉を開ける。何か異質な臭いを感じたのと、部屋の明かりのスイッチを押したのは、ほぼ同時の事だった。ケーキの箱を取り落とす。目の前には、血塗れで息絶えている妻の姿があった。ぐちゃりとケーキが潰れた音と、彼が妻の遺体を踏んだのは、ほぼ同じ時だ。開腹され小腸がはみ出している。一度目を見開いてから、今度は現実を確認するかのように、何度も瞬きをし、そして屈んだ。手を伸ばし、冷たくなった妻の頬に触れた時、何かが首筋に触れた。冷たい。硬直してから、ゆっくりと上を見る。するとそこには、天井に磔にされた我が子がいた。垂れてきた血が、見上げている左目に入った。その時子供が泣いた。生きていた。全身を縫い付けられて、生きていた。
――彼は絶叫したはずだが、次に気づいた時は病院にいた。
――この一件以来、左目がほぼ見えなくなった。心因性の視覚障害である。
――心因性の他の問題としては、頭部全脱毛症がある。
――ふくよかだった体は、骸骨のように痩せ、血管が浮き出ている。血色が悪い。
――退職し、私立の犯罪心理研究所を設立した。
――つまりこれは、若狭さんの過去である。