【五】夜啼ロッジ
俺達の部屋は二階の二人部屋だった。二人部屋がこの階には二つ、一人部屋が四つあるようだ。三階には大部屋二つあるらしい。住み込みの従業員の部屋は一階らしい。満室だとの事で、合計で二十数人が夜啼ロッジに宿泊するそうだった。
夕食は七時で、一階の食堂に用意されると聞いた。若狭さんは先に大浴場に行くと言って用意を始めた。俺はテーブルの上の施設案内を眺めながら、一階の展示室にでも行こうかなと考える。いくつかの観光用のブースがあるらしく、『時計室』や『人形室』、『北欧室』といった名称が記されていた。立ち入り禁止区画の注意書きもある。二階には娯楽室があるそうで、三階には展望鏡があるとも書いてあった。
こうして若狭さんと共に部屋から出て、俺達はエレベーターの前に立った。階段が奥にある。少しして扉が開き、一人降りてきたが、上行きだ。何気なく中を見て、俺は正面にいた人物と視線が合い息を飲んだ。
早く閉まれ。念じるが、扉は非常にゆっくり動いている気がした。さらに――閉まる前に、中にいたその人物が、ボタンを操作して扉を開けたようだった。
「伊波?」
声をかけられた時、俺は一歩後ずさっていた。隣では若狭さんが驚いたように俺を見ている。そちらと正面を交互に見てから、俺はまた一歩下がった。
「伊波」
今度は確信を顕に、エレベーターからその人物が降りてきた。体が強張る。
「西塔……」
目の前にいる西塔昭唯の姿に、俺は冷や汗をかいた。助けを求めて若狭さんを見たが、彼は観葉植物脇の灰皿の前に移動して、無関係を装っている。そういえば三階の大部屋には、どこかの運動部の学生達が泊まっていると聞いていた。オーナーの息子の部活だという話だった。
「ひ、久しぶりだな」
「そうだな。伊波が俺を避けているせいで、長らく顔を合わせなかったな」
「別に避けてない。考えすぎだ」
「――聞きたい事がある。何故スノーボードを辞めたんだ?」
「大学に入ってまで運動部なんてやりたくなかっただけ、それだけだ。やっぱ謳歌しないと。俺今旅行サークル入ってるから。大変だろ、ほら、本格的にやるのは、さ。俺そういうの無理だから。じゃ、俺は下の展示室を見に行くから、またな。夕食で」
俺がそう言って無理に笑うと、西塔が不機嫌そうな顔になった。強く俺の腕を引く。握られた手首が痛い。
「真面目に答えろ。俺はお前に勝てないままで終わりたくない」
視線を逸らし、俺は言葉を探した。しかし何も出ては来ない。思わず俯いて息苦しさを堪えた、その時だった。
「あれぇ? もしかして西塔昭唯さんですか? スノボの。いやぁ、本物だぁ。伊波くんにこんなに素晴らしい知り合いがいるなんて」
若狭さんがわざとらしい声を上げた。一気に肩の力が抜ける。安堵の息を吐いた俺の隣に、若狭さんが歩み寄ってきた。西塔は虚を突かれたような顔をしている。異様な風貌に満面の作り笑いを浮かべて、若狭さんが饒舌に西塔を褒めたたえた。それから最後に俺を見て、ニヤリと笑った。
「こんなダメ学生の典型例みたいな伊波くんと、優秀中の優秀、優等生中の優等生、眉目秀麗という言葉が相応しい文武両道の西塔くんが知り合いだなんて、僕は驚きだ」
聞いていた限り、後半は俺を下げることにより、西塔をおだてていた。若干ムッとしたが、西塔を回避できるならば別に良いので黙っていた。別に俺はダメで良い。そう考えていた時、西塔が横で険しい顔をしている事に気がついた。
「――お言葉ですが、伊波は貴方が言うようなダメな人間ではありません」
「え、西塔……?」
「黙っていろ」
そこから西塔の俺に対する擁護が始まった。若狭さんはサングラスの奥の瞳を細めて楽しそうに聞いているし、俺は恥ずかしい。しかし真面目な西塔は、保育所時代のスノボクラブの話から始まり、小学時代のスポーツ少年団においてのスノーボード、中高時代の部活動としてのスノボに関してまで、事細かに語っている。
――いかに俺のジャンプが高くダブルコークが素晴らしいか、常に大会で自分は二位であり俺が一位だったこと、そう言った内容だ。西塔は一度も俺に勝利した事がない。これは事実だ。だが現在の彼は世界に通用する選手であり、過去の事など関係ないだろうに。
西塔の目には、何らかのフィルターがかかっているのは確実だ。過去を美化しているというか、見えない強敵を作り出していて、それが俺なのだ。元々負けず嫌いというのも手伝っているのだろう。顔を合わせると、スノボを辞めた理由を聞いてくるか、スノボを再開しろと言ってくるか、そのどちらかだから、俺は実際西塔を避けていた。
「へぇ。伊波くんがそんな神童だなんて初耳だったよ。知らなかった。寒いのが嫌いだと聞いていたし、ウィンタースポーツも出来ないと聞いていたから驚いたよ」
西塔の話が終わると、若狭さんが吹き出すのを堪えるように言った。頭痛がしてきた俺は、我ながら遠い目をして、馬鹿にするような笑顔の若狭さんを見る。
「どうしてそんな嘘を?」
若狭さんが唇の両端を持ち上げて、俺を一瞥した。目を細めて、俺は首を振る。別に俺は嘘をついたつもりはない。すると西塔がまた俺の手を引いた。いい加減痛い。ずっと掴まれている。
「俺も気になる。それに、どうしてスノボを辞めたのか、いい加減に話してくれ」
「関係無いだろ。取り敢えず離せ。ハゲはさっさと風呂に行けば?」
「伊波、ハゲなんていう言い方は失礼だろう」
「失礼だと感じる人間に差別心があるんだ。俺は別に髪型の一形態としてハゲと呼んだだけだ。西塔、お前をベリーショートと呼ぶのと変わらない」
「僕の頭髪の問題に関しての議論は兎も角、二人共少し落ち着こう」
苦笑した若狭さんが、それから階段の方へ視線を流した。
「そういえば西塔くんはスノーボード部の主将なんだったね。新聞で見た記憶がある。後輩達をまとめたりしなくて良いのかい? 君を待っているみたいだけど」
その声に、西塔が階段を見てから、険しい表情をした。スノボ部の後輩達が、困ったように階段からこちらを窺っているからだろう。
「伊波、また後で話そう」
諦めたように西塔はそう言ってから、若狭さんを見た。そして軽く会釈をするといなくなった。思いっきり安堵して、俺は体から力を抜く。すると若狭さんが小声で言った。
「一度部屋に戻ろう」
「ああ……展示を見に行く気力はなくなった」
こうして部屋に戻り、俺はソファに背を預けた。若狭さんが珈琲を淹れてくれた。
それから彼は、小さく首を傾げて俺を見た。
「寒いのが嫌いなのは、体が痛むからかい?」
俺はカップを傾けながら、視線を下げる。若狭さんのこういうところが、俺は嫌いだ。
「右足首と左腕の関節、後遺症があるとは聞かないけど」
「日常生活には問題がないし、走れるし、重い物も持ち上げられる」
「だけどウィンタースポーツはできないし、寒いと痛む?」
「……昔とは感覚が少し違うっていうだけだ」
何だか嫌な話になってしまった。
嘗て俺は、家族を殺した犯人に、足首と腕を折られた事があるのだ。