【八】記憶にない先輩




「別に誰に狙われているわけでもないし、ふらりと入った店で毒を盛られたりはしませんけど?」
「ジェイス様はスペードの公爵令息だ。誘拐犯に狙われないとも限らないぞ?」
「様なんて止めて下さい。あれ、でも俺がナイトワース公爵家の人間だって、キースさんこそよくご存じでしたね」

 ジェイスという名前は、別に珍しくはない。
 不思議に思って首を傾げると、キースさんが苦笑を深めた。

「ではジェイスと呼ばせてもらう。俺の事もキースでいい」
「はい」
「――学院時代の、階級を気にしない呼び名を推奨するという学則を思い出すな」
「ありましたね、そんなの」
「口調も普通で構わない。ここは年功序列を重視する学院ではなく、階級の方を重要視する街中だ。王家に次ぐ爵位の高さの出自なのだから、普通にしてくれ。逆に困る」
「……俺はあんまりそう言うの、好きじゃなくて。けど、学院って……」

 俺は改めて、呼び捨てにすると決めたキースを見た。
 年齢は二十代前半に見える。俺は今年十九歳になるのだが、だとすると六年制の王立学院において、キースとは学び舎が重なっていた時期があるかもしれない。そう推測すると、小さくキースが口元を綻ばせた。

「俺は二十一歳になったばかりで、ジェイスとは学年が三つ違うが、学院では何度も見かけた。アルマ第二王子殿下とジェイス様といえば、誰でも顔を知っていた。いつもアルマ殿下に付き添い、盾のようなご学友で、真面目という印象だったな、ジェイスは」

 それを聞いて、俺の顔は引きつりそうになった。
 アルマ殿下の外面は、非常に柔和で、それこそキラキラとした優しげな王子様だ。そうなるとなにかと近寄ってくる下心のある生徒が多かったので、俺はお守りする――実際にはさせられていた。

「とても街でこのように遊び歩くようには見えなかったぞ」
「その……」

 学院に通っていたと言うことは、キースも貴族の出自なのだろう。騎士団に入っていると言うことは、相当腕が立つか、兄上のように仕事をしていないと死んでしまうタイプか、あるいは次男以下で将来の生計を含めたプランを立てるためだと考えられる。それらを推察したが、俺には学院における先輩としてのキースの記憶がない。尤も、ずっとアルマ殿下と供にいたから、アルマ殿下に関わりがない相手のことは、ほとんど記憶していないとも言えるが。

「俺の事も覚えていないんだろ?」
「……すみません」
「いや、構わない。ただ、少しショックだな」
「申し訳ありません」

 軽く頭を下げた俺を見てから、キースが空を仰いだ。曇天の空の色が、朝よりも暗くなっている。

「当時俺はジェイスのことをよく見ていた。ただ身分が違うし、お前の視界に自分が入っていないことは当時から知っていた。それでも無駄にすれ違ってみたり、そばに近寄ってみたりしたんだぞ? お前に恋をしていた多くと同じようにな」
「へ? 俺、モテた記憶が皆無なんですが?」
「そうか。ま、あの頃から、俺から見るとお前は鈍そうに見えた。周囲は、単純に躱されて意図的に無視されていると考えていたようだが。アルマ殿下以外には、お前は冷たいと評判だった。将来は、ご学友ではなく婚約者になるのだろうと、みんな噂していたしな」
「その噂は聞いた事があるけど、そんな予定もゼロです」

 確かに、三大公爵家の人間と王族が結婚する例は多い。理由は、直系に限らず、王子殿下達やその従兄弟くらいまでとは、公爵家では子の出生を合わせ、万が一王族に結婚相手が見つからなかった場合の待機者とはされるからというのがある。だが他の理由として、影武者をしたり、ご学友になったり、有事や不慮の事故で王族が負傷した際、臓器や手足といった体の一部を提供するために、年齢を合わせて人工卵に魂を定着させるからだ。これは王家と公爵家のみの秘密である。

「では、俺にも脈があると思っていいのか?」
「なんですか、それ。俺としては初対面気分だから、そういう冗談は、本当にちょっとなんというか……」
「冗談、か。ま、そうだな。改めて――シェリル侯爵家の次男で、キースという。よろしく。せめて友人にならせてくれないか?」
「え、ええ……友達なら」

 別に俺は、友達になるハードルを高くは設定していない。
 しかし、シェリル侯爵家の名に、少し驚いた。現王国騎士団総団長も、シェリル侯爵だ。おそらくキースの父だろう。シェリル侯爵家といえば、『王国の剣』と名高い、騎士を輩出する名門家だ。皆が卓越した技法を持っていると聞いている。

 公爵家の方が歴史は長いし、爵位的に身分は上として立てられるが、実際の実力では並び立てないだろう。国民の理解でも、尊敬を集める貴族の筆頭となるかもしれない。キースは俺よりもずっと凄い実力者だったというわけだ。その割に、砕けた調子で冗談を言ってくるのだから、身構えなくていいのは救いだった。

「まぁ、俺も実を言えば、ちょくちょく街に出ていたから、キースの気持ちは分からなくはないぞ」
「えっ、そうなのか?」
「おう。だからまだ食べる店が決まっていないんなら、案内することも可能だ。何が食べたい?」
「で、でも、そこまで付き合わせるわけには……」
「久しぶりに再会した後輩が、予想より話しやすかった。もっと話がしたい。これでは理由にならないか?」
「あの、お仕事中じゃ?」
「サボるかっこうの口実だな」
「俺こそ騎士を見る目がちょっと変わったかも。けど、そういうことなら――そうだなぁ、パスタが食べたいですね」

 この国の主食はライスであり、朝食のみパンであることが多い。
 ただ最近平民の間では、北西にある隣国のバーバルシア王国から輸入されているパスタが大人気だという知識が俺にはあった。ここ数年のブームだ。

「それなら、マンチェルタという店が美味いぞ」
「あ、名前は聞いた事ある。行ったことはなくて、いつか行ってみたかったんだ」
「ではそこへお連れするとするか。行こう、ジェイス」

 こうして俺とキース、それからキルトは大通りまで雑談を続けながら歩いた。