【2】……本当は、もう近寄らないべきだと分かっている。



 翌日――俺は、Cafe絢樫&マッサージへと向かった。

 ……本当は、もう近寄るべきではないと分かっている。怖いというのもあるし、というより、元々第一印象では怖かった以上、あの感覚は正確だったわけだが。

 無性にローラに会いたかったのだ。
 肩こりも酷いけど、それ以上に、ローラに会いたかった。

 恋心には、理屈なんて、無いのかもしれない。

 とはいえ、ご隠居の指示通り、きっちり伝統の袈裟をつけて、念珠も身につけている。
 木箱には他に、短い数珠も入っていたので、それは手首につけている。
 こちらは外れないだろう。

「いらっしゃいませ」

 扉を開けると、いつもの通り、砂鳥くんが微笑した。
 もしかしたら、この少年も、何らかのアヤカシなのだろうか?

 ……考えてみると、このお店、名前からしてアヤカシだな……。

「Cafeですか? マッサージですか?」

 いつもと同じように聞かれた。俺は、いつもならマッサージと即答するし、すぐに名前を予約表に書く。だ、だ、だが……今日は、心の準備をする時間が欲しかった。何の心かは不明だけどな……。

「Cafeで」
「え!?」

 すると砂鳥くんが驚いたように声を上げた。そ、そりゃな。俺、一回もここでお茶を飲んだ事が無いしな……。

「ど、どうぞ、こちらの席へ……」
「ああ」
「ご注文がお決まりになったら、お呼び下さい」

 砂鳥くんは、首を傾げつつも、俺を窓際の席へと促した。見れば、喫茶側のスペースには、俺しか客がいない。座っている者はいるが、どう見てもマッサージを待っているだけだ。

「……」

 メニューを見ると、珈琲とオレンジジュースしかなかった。

 苦いから、俺はあんまり珈琲は好きじゃない。だが、オレンジジュースは子供っぽく見えそうだ。ローラに万が一目撃されて、子供っぽいと思われるのは避けたい。

「珈琲を」

 だから俺はすぐにそう告げた。

「砂糖とミルクはどうなさいますか?」

 やってきた砂鳥くんに言われて、俺は言葉に詰まった。

 無かったら、絶対苦くて俺は飲めない。でも、なんかブラックを飲んだほうが格好良い気がする。

「不要だ」

 思わずそう言ったものの、やっぱり出来たら出して欲しいと思った。

「必要なように見えるのか?」

 そこで続けたのだが、砂鳥くんは、笑顔で首を振り、戻っていった。
 あ、これ、勘違いされただろうな……。俺の口は、不自由すぎる……。

 それから、珈琲が届くまでの間、俺はそれとない風を装って、マッサージスペースを見た。

 二十人前後の客が待っている。記憶を辿っても、いつもこのお店は、繁盛している。

 見守っていて――俺は、不思議な事実に気がついた。
 部屋に入ると、皆、数分で出てきて、満足そうに帰っていくのだ。

 え?

 そこで俺は――暗示という言葉を思い出した。
 もしかすると、部屋に入って、暗示でマッサージを受けた気分になっているのか……?
 とすると、俺以外のみんなも、ぼんやりとして、夢現にエロい夢を……?

 人々が入っていく部屋は一つしかない。
 複数いるとばかり思っていたが、マッサージ師は、ローラしかいないのだろう。
 ここにいる人々は、全員ローラの食料なのだろうか?

 じゃ、じゃあ、俺にはご飯としての競争相手が大量にいるのか……。
 俺はこの日初めて、野菜売り場に並ぶトマトの気持ちを理解した。

 率先して食べてもらうには、どうすれば良いんだろう?
 ――そう悩んでいると、珈琲が届いた。

「すみません、間違えて持ってきてしまいました」

 笑顔で砂鳥くんが、俺の前に珈琲の他に、大量の砂糖とミルクを置いてくれた。
 この少年は、本当に良い子だ……!

「そうか」

 ありがとうと言いたかったが、俺が告げる前に、砂鳥くんは、下がっていった。

 より美味しい食事になるためには、と、ひたすらグルグル考えていたため、俺は珈琲の味を上手く感じる事が出来なかった。角砂糖を大量に入れたせいかもしれない。



「藍円寺さん、どうぞ」

 そう声をかけられたのは、珈琲を飲み終えた時だった。

 驚いて顔を上げると、マッサージスペースからは待合客が消えていて、ローラが俺を見ていた。相変わらずローラは、天使だ。猫のような瞳を見ているだけで、俺の胸が煩くなる。視界にローラが入るだけで、俺は見惚れて赤面しそうになる。

 だが。

「あ、いや、今日はマッサージの予約は――」

 まだしていない。これからする予定だったのだ。
 俺がそう言いかけると、スッとローラが両目を細めた。

「藍円寺、お前はマッサージを受けに来た。『そうだろう?』」

 急に、ローラが俺を呼び捨てにした。いつかされてみたかったので、ちょっと嬉しかった。


 だが、嬉しさはすぐに、驚きによってかき消された。

 何故なのか、『そうだろう?』というローラの声を聞いた瞬間、俺の意思に反して、俺は頷き、しかも立ち上がっていたからだ。あれ? え?

 そして微笑に戻ったローラを追いかけるように、俺の体は勝手に歩き出した。
 何が起こったのかよく分からない。
 思考は非常に鮮明だし、意識も清明なのだが、体が自由にならない。

 え? あれ? 夢は始まっていないけど、夢の中のように、体がひとりでに動いている……って、こ、これは、念珠や数珠では、完璧には暗示をかけられるのを抑えきれていないという事か……?

 呆然としたまま、俺は、ゼミダブルのベッドがあるマッサージ室に入った。

 いつもならば、このあたりから意識が曖昧になるのだと思う。
 すぐに微睡むような気がする。

 だが、今日の俺にはそれがない。だから、やはり念珠は効果があるのだろう。

 扉を閉めたローラを、立ったまま眺めていると、彼が俺に歩み寄ってきた。
 そして、俺の記憶の中には、夢でしか見た事のないような、ニヤリとした顔をした。

 実際には、お化け屋敷こと呪鏡屋敷に行った夜も見たように思うが、あれは夢だったのかもしれない。

 この意地悪そうな表情は、どう見ても、天使というよりは悪魔だ。
 そんな顔も俺は好きだけど。

 そう思いながら――とすると、今まではマッサージ中は長い間一緒にいる気分になることができたが、他の客について考える限り、俺も数分で出て行くことになるのかなと残念に感じた。

「仕事帰りなのか? 僧服を見るのは久しぶりだな。久しぶりというか、二度目だ」

 ローラは、やはりいつもと口調が違う。それが親しげに思えて、俺は嬉しくなった。